現代の有様を観《み》るに、伝統及び準伝統と、その伝統及び準伝統に属するところの人々との関係が、聖人の教えに反しておるのであります。
すなわち
聖人の教えにおいては、すべて伝統の位置におる人は、その神より継承せるところの至誠及び慈悲の精神を下の人の精神に移植するのがその本務であり、下の人
はその教訓を体得して幸福を得、その謝恩として金銭・物品・精神的努力もしくは筋肉的努力〈伝統のために何事でも労働的に働く〉を捧《ささ》ぐるのであり
ます。
私の生国《しょうこく》たる日本の古代においては、まさにかくのごとくでありました。
すなわち日本皇室の御祖先をはじめ奉り、これを輔翼《ほよく》
し奉るところの人々の精神とその教訓とによりて、日本国民はみな幸福を得ておったのであります。
しこうしてその臣民は、その謝恩として、上に立つ御方々の
衣食住を貢《みつ》いだのであります。日本語の「みつぐ」ということは物品を下より上に奉ることをいうのであります。
故にこれを「みつぎもの」と称したの
でありまして、これがすなわち今日の租税の起原であります。
このほか世界の聖人・大道徳家もしくは一派の宗派を開ける人々が、神の意思を継承して人心の開
発もしくは救済をなし、しこうしてその開発されもしくは救済された人々がこれに対して謝恩のため、その衣食住を支弁したことは申すまでもないことでありま
す。
しかるにその後、聖人の教訓、しだいに湮滅《いんめつ》して、天地の間にかくのごとき原理の存することを知るものなく、租税は治者と被治者との間にお
いて道徳的関係より法律的関係に変じ、しこうして上よりは強制的に下より物質を徴収し、下のものは不平的にこれを国家もしくは自治団体に納めておるのであ
ります。
次に道徳的関係においては、下のものはただ単に上のものより金銭・物品その他の物を戴《いただ》くことをもって当然のことと考うるようになり、更
にその精神が悪化した結果、下のものはただいたずらに上に立つ人の生活を羨《うらや》むというようになり、ついに現代の人心頽敗《たいはい》を来たしたの
であります。
そもそも社会の上に立つ人員《ひとのかず》は少なくして下におる人員は多いのであります。
それ故に、上に立つ人の富を分配しても、下にお
る人々全部を永久に霑《うる》おすことは出来ぬのであります。
故に、今日伝統及び準伝統に立つ御方々においては、よくこの原理を御味わいくだされて、古代
聖人の教訓を真面目《まじめ》に御実行さるるようにその精神生活の復興を行い、一方には、その下に立つ人々はすべてその上に立つ人の生活を羨まずに、よく
この最高道徳を聴取《ちょうしゅ》・体得且つ実行せられて、一方には、伝統の大恩を報じ、一方には、人心の開発に力を注ぎ、自己自身に自己の運命を開拓す
るように願いあげます〈本題の主旨をよく体得してこれを実行せば、何人《なんぴと》にても驚くべき好結果を得るに至るのであります〉。
広池千九郎WEBSITE格言の間より