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格言とその意味

廣池千九郎先生の格言とその意味をUPしていきます。

 
 国家事業でも、社会事業でも、営利事業でも、もしくは宗教事業でも、既記のごとく衆心の集まらざる事業を興し、且つこれを堅牢《けんろう》にし、美麗《び れい》にし、且つ完全にすることは、最高道徳にては絶対に排斥いたします。
ただし自分一人の力にてかかる奢侈《しゃし》をなすことは詮方《せんかた》なき ことにて、ただその人がついに滅亡するのみのことでありますが、他人の力を俟《ま》つ事業は特に大いに注意せねばなりませぬ。

               広池千九郎WEBSITE格言の間より


 最高道徳は神の意思を標準として、すべての事を決定するのであります。
神の意思というは、上の人も、下の人も、治者も、被治者も、幸福になるようなことで あります。
故に、最高道徳において何事をでも決する場合には、すべての人々の満足するような方法によるのです。
かかる方法によらば何人《なんぴと》にも不 服はありませぬ。
しかしながら、世には悪人及び愚人がありますから、いかなる善事でも反対者はあります。
しかしそれはやむを得ぬことであります。
しかる に、最高道徳は黙秘を尊ぶが故に、ある場合には団体の首脳者側だけにて事を決する場合もあります。
しかしそれはあらかじめ必ず多数団員の喜ぶということの 分かっておる事柄に限るのであります。
ことに経済上のことにて団員の協賛を要する事業を起こす場合には、その事業は最も大多数の喜ぶことであり、且つ大多 数の賛成ある場合でなければなりませぬ。

               広池千九郎WEBSITE格言の間より


 
 大恩というは、自己の伝統に対する恩であります。
中恩というは、準伝統すなわち自分の物質的生活方面の主人側の人々もしくは自己の幸福に対する一時的の 周旋《しゅうせん・せわ》をなしたる人々に対する恩を指すのです。
その他はすなわち小恩です。現代の人々は大恩をさえ知らぬ人がありますから、中恩以下の 謝恩ということを心掛けぬ人の多いことは当然であります。
ただ、勢力を逐《お》うて金力もしくは権力ある人の下に集まるだけです。
故に、多くの人は終身た だ営々《ほねをおり》として前人・後人交互に疲労の間に老死しおわり、上下何人《なんぴと》も真の幸福は得られぬのであります。

               広池千九郎WEBSITE格言の間より

 現代の有様を観《み》るに、伝統及び準伝統と、その伝統及び準伝統に属するところの人々との関係が、聖人の教えに反しておるのであります。
すなわち 聖人の教えにおいては、すべて伝統の位置におる人は、その神より継承せるところの至誠及び慈悲の精神を下の人の精神に移植するのがその本務であり、下の人 はその教訓を体得して幸福を得、その謝恩として金銭・物品・精神的努力もしくは筋肉的努力〈伝統のために何事でも労働的に働く〉を捧《ささ》ぐるのであり ます。
私の生国《しょうこく》たる日本の古代においては、まさにかくのごとくでありました。
すなわち日本皇室の御祖先をはじめ奉り、これを輔翼《ほよく》 し奉るところの人々の精神とその教訓とによりて、日本国民はみな幸福を得ておったのであります。
しこうしてその臣民は、その謝恩として、上に立つ御方々の 衣食住を貢《みつ》いだのであります。日本語の「みつぐ」ということは物品を下より上に奉ることをいうのであります。
故にこれを「みつぎもの」と称したの でありまして、これがすなわち今日の租税の起原であります。
このほか世界の聖人・大道徳家もしくは一派の宗派を開ける人々が、神の意思を継承して人心の開 発もしくは救済をなし、しこうしてその開発されもしくは救済された人々がこれに対して謝恩のため、その衣食住を支弁したことは申すまでもないことでありま す。
しかるにその後、聖人の教訓、しだいに湮滅《いんめつ》して、天地の間にかくのごとき原理の存することを知るものなく、租税は治者と被治者との間にお いて道徳的関係より法律的関係に変じ、しこうして上よりは強制的に下より物質を徴収し、下のものは不平的にこれを国家もしくは自治団体に納めておるのであ ります。
次に道徳的関係においては、下のものはただ単に上のものより金銭・物品その他の物を戴《いただ》くことをもって当然のことと考うるようになり、更 にその精神が悪化した結果、下のものはただいたずらに上に立つ人の生活を羨《うらや》むというようになり、ついに現代の人心頽敗《たいはい》を来たしたの であります。

 そもそも社会の上に立つ人員《ひとのかず》は少なくして下におる人員は多いのであります。
それ故に、上に立つ人の富を分配しても、下にお る人々全部を永久に霑《うる》おすことは出来ぬのであります。
故に、今日伝統及び準伝統に立つ御方々においては、よくこの原理を御味わいくだされて、古代 聖人の教訓を真面目《まじめ》に御実行さるるようにその精神生活の復興を行い、一方には、その下に立つ人々はすべてその上に立つ人の生活を羨まずに、よく この最高道徳を聴取《ちょうしゅ》・体得且つ実行せられて、一方には、伝統の大恩を報じ、一方には、人心の開発に力を注ぎ、自己自身に自己の運命を開拓す るように願いあげます〈本題の主旨をよく体得してこれを実行せば、何人《なんぴと》にても驚くべき好結果を得るに至るのであります〉。


               広池千九郎WEBSITE格言の間より





 ひとたび最高道徳を聴くものは、既記のごとく、自我を没却して神の心に同化しておるが故に、真に国家のためとか、社会のためになるということであったなら ば、いかに自己の感情もしくは利害に反対することあるも、翻然《ほんぜん》として自己の意見もしくは主義を棄てて、先方の意見に従うのであります。
万一、 かくのごとくに神の心を主として進みましたならば、一見不利益のごとくなれど、自己の新運命は必ずその中から開けてくるのであります〈第一巻第十四章第七 項第二節及び第十五章第二項第五節参照〉。

               広池千九郎WEBSITE格言の間より