有名建築家が手掛けた校舎やキャンパス。

 

結構、あるものです。

 

というわけで、古い順に大学巡りガイドというか、キャンパスを設計した建築家ガイドというか。

 

そんなかんじで。

 

① 曾禰達蔵(1853-1937)

 

 

東大工学部建築学科(当時は工部大学校) の1期生です。

 

東京駅や日本銀行本店を設計したことで知られる建築家・辰野金吾の同期生。

 

国内で欧米式専門教育を受けた、初めての日本人建築家というわけです。

 

この1期生のうち、辰野が東大教授として学界をリードし、同じく同期生の片山東熊が宮内庁の建築担当のボスとして、宮殿建築(公共事業)を仕切りました。

 

一方で曾根は、後輩の中條精一郎と民間設計事務所を構え、財閥企業からばんばん受注しました。

 

腕の方はというと、「辰野以上」という声もあるぐらい。ばっちりです。

 

たとえば、最近復元された丸の内の三菱1号館とかにもかかわっています。

 

手近に見に行けるのが、慶応大学三田キャンパス(東京都港区)。旧図書館や塾監局など、いろいろ手掛けています。

 

 

本人が、というより、経営する事務所が、というところなんですけれど。

 

実際、写真の図書館は、中條担当案件だったそうですし。

 

でもまあ、辰野金吾もそうですが、建築のスタイルは「様式建築」。いわゆる「古き良きヨーロッパ風」というやつ。

 

言い換えると、「日本は立派な文明国だと、欧米諸国にアピールする」ことを目的とした建築デザイン。

 

そんな世代って感じです。

 

②佐野利器(1880-1956)

 

 

「りき」ではありません。「としかた」です。

 

辰野金吾の跡を継いで、学界のドンとして君臨した東京帝大教授です。

 

「デザインがどうのこうのなんて、女子供がやるもんだ」と言い放ち、実用性や機能性を最重要視。

 

特に耐震設計を重視した人です。

 

実のところ、辰野金吾が引退したあとの東大建築学科は、いったんはデザイン重視路線に流れます。

 

ところが佐野利器の圧倒的な腕力により、デザイン主義者たちは追放されます。

 

そんなこともあって、批判的な人たちは、「佐野が日本の建築を(デザイン的に)ダメにした」といいます。

 

ただ、そういう人たちも、海外でアドルフなにがしという肉の名前みたいな人が「装飾は犯罪だ」「野蛮人がやる物だ」と主張した件については、「モダニズム建築の先駆けだ」と、前向きに評価することが多いようです。

 

それはそうと佐野先生、関東大震災の復興事業でも大活躍します。

 

佐野先生の建物は、武蔵大学(東京都練馬区)に、微妙に残っています。上に新しい建物をかぶせる形で増改築されているのですが、原形も残ってはいます。

 

  

べつに「デザインぎらい」って感じはしませんよね。

 

シンプルでいいと思いますけど。

 

なお、「女子供にやらせとけ」発言だけ聞くと、精神的にマッチョなおじさんを想像してしまいますが、かなりの子供好きらしい。

 

近代住宅に必要な条件として、「子供部屋を充実させる」「近所に遊園地が必要」と主張。

 

地域の大人たちが見守ってあげられるよう、「小学校の校庭の壁は、大人が壁越しに校庭を見ることが出来る高さがよい」なんてことも、言っていました。

 

③内田祥三(1885-1972)

 

この人も名前の読みが難しい。「よしかず」です。

 

佐野利器の弟子で、その次の学界のドン。東京帝大の総長にもなった大物です。

 

耐震設計のあとは防火設計の権威として名高い、内田教授の時代が来ました。でも、デザインにも割と興味があったそうです。

 

佐野同様、関東大震災後の復興事業を引っ張った人で、いわゆる「東大の安田講堂っぽい建物」はみんなこの人。東大医科研(東京都港区)とか、ですね。

 

 

その特徴は、スクラッチタイルを張り付けたゴチックスタイルなんですけれど、これ、震災後に急いで建てなくちゃならないという条件下で編み出されたテクニックらしい。

 

レンガ風タイル張りにする場合、ある程度色をそろえないとおかしな感じになってしまうけど、スクラッチタイルなら見た目、あんまり地の色の違いが判らない。

 

とりあえず、スクラッチタイルを量産させて、建物を急いでそろえる。そんな話だったらしい。

 

実際、東京農工大とか拓殖大に行くと、わりと印象の違う建物を見ることが出来ます。

 

 

 

たとえばこれとか。

 

 

④武田五一(1872-1938)

 

さて、佐野・内田路線が支配する東大からはじき出された、シャレオツな方々はどうなったのか。

 

たとえばこちら、武田五一先生は京都大学に建築学科を作り、関西建築界の父と呼ばれるようになりました。

 

そんなこんなで京大内には武田作の校舎がいっぱい残っています。

 

 

 

今までの主流は「いかにも昔ながらのヨーロッパ風です」という「様式建築」だったのですが、武田先生は「アールデコ」という、幾何学的な装飾模様を駆使したデザインにチャレンジ。

 

茶室建築の研究とか、新しい要素にも取り組んで、違いを出していきました。

 

⑤佐藤功一(1878-1941)

 

こちらも東大から飛び出して、早稲田大に建築学科を作った大先生。

 

早稲田の大隈講堂とか、武蔵大(東京都練馬区)の講堂とか。

 

 

 

同じスクラッチタイルでゴチックに作っても、やっぱり内田祥三とは違って、リラックスした感じがあります。

 

今までの主流で、様々なお約束事にぎっちり縛られていた「様式建築」に対し、過去のスタイルを自由自在に組み合わせるフリースタイルなサウンドを響かせる、「自由様式」と呼ばれる一派を形成しました。

 

⑥ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)

 

最後に、今までの5人とはちょっと毛色が違って、外人です。

 

専門教育を受けた建築家ではなく、キリスト教の布教に来日し、気が付くと建築事務所を開業していた、という人です。

 

そんな物語性があり、多作な人でもあったので、わりと日本でも知名度は高いようです。

 

関西学院大学が有名ですが、滋賀大彦根キャンパス(滋賀県彦根市)とか、いろんなところにあります。

 

 

 

ちなみに、ヴォーリズを語る人はその人間性(宗教的なところも含む)を絡めて建築の才能をたたえることが多いです。

 

流派としては、様式っぽいやつからスペイン風にアールデコ、果ては最新型のモダニズム建築まで何でも来い。

 

ヴォーリズ事務所は施主へのセールストークとして、こんなことを言っていたそうです。

 

「うちの事務所には様々なタイプの建築家がいて、どんなスタイルにも対応できます」

 

「海外の建築雑誌のバックナンバーも完備していて、世界のトレンドをばっちりフォロー」

 

「(外人の依頼者に対して)日本の建設会社にだまされないよう、我々を雇って監督させるのがおすすめですよ」

 

(つづく)