老夫婦は、私がその声のする方に気を向けたことで何かとても慌てておられた。「何でもないんです。もう、お帰りください。」懇願するような顔で前に立ちはだかる二人の様子にただならぬ気配を感じた私は、(主よ、こんなとき、どうすればいいのですか?)と天を仰いだ。するとまた、「ウォー、ウォー」という、あの声が聞こえてきた。
「誰かおられるのですね。」思いきって訊いてみた。「私をここに導かれたイエス様が、その方に会わせて下さろうとしているのです。どうか案内してください。」するとおばあさんが、とても悲しそうな顔をしながら、先に立って離れの方に歩き始めた。「お恥ずかしいことですが、私たちの息子です。何も分からず、ただ生きているだけなのです…」おばあさんは手で涙を拭っていた。
離れに近づくと、強烈な臭気がしてきた。家畜小屋の比ではない。そして、事の次第が分かってきた。当時この地方では、風土病(象皮病など)やハンセン氏病にかかった親族を座敷牢のような部屋に閉じこめているケースがままあると、教会員から聞いていたからである。
離れに着くとおばあさんは言った。「先生、見てやってください。これが私の息子です。小さい時から耳が聞こえず、言葉も出ません。学校にも行けなかったので知恵も伸びず、乱暴ではないのですが、何か欲しいときは獣のようにただ叫ぶだけです。今、48歳です。二十歳頃までは健康だったのですが、見てください。何か恐ろしい病気にかかったようで、医者にも見せられず、体中の皮膚がこのように…」後は言葉にならず、ただ涙を流すばかりだった。
私は、おばあさんの言葉を後に聞きながら、真っ直ぐに声の主の方に歩み寄って行った。そこには、太い木で格子が組まれた薄暗い8帖ほどの部屋があった。畳は、藁が敷いてあるのかと思うほどバラバラにほぐれていた。隅には便器らしき物が置いてあった。まさに座敷牢。私は思わず、顔を背けてしまった。
しかし、一瞬のたじろぎの後、その暗がりの中にうずくまっている一人の男性を凝視した。髪は伸び放題に伸びて、爪も長く伸びたまま、目は大きく見開かれ、まるで原始の世界から抜け出て来たような風貌だった。そして皮膚は、象かカバのように強ばり、特に足は電柱のように紫色に腫れ上がっていた。一見して恐ろしい病気であることが分かった。
手を差し入れる
格子に近づくと、一瞬、彼は後ずさりをした。私は思わず格子から手を差し入れ、彼を手招きした。(さぁ! こちらにおいで。握手をしよう。神様があなたを愛しておられるんだよ。)そう心の中で叫ぶように祈りながら、できるだけ優しい声で、「いらっしゃい! この手に触れてごらん。神様の心が分かるから。」と言った。
もちろん、彼に私の声は聞こえない。しかし心の耳に神様からの呼びかけは聞こえるはずだ、と信じた。しばらくすると、彼はじりじりとにじり寄ってきた。私は座り直し、格子の下の枠から手を差し入れて彼が近づくのを待った。おばあさんが後から「先生、もうそれで結構です。それ以上なさらないでください」と、懇願するように声をかけてきたが、私はその声を無視し、祈りながら事の推移を見守った。
とうとう彼の手が伸びてきた。そして私の指に恐る恐る触れた。私がじっとしていると、さらに彼は近づいてきたので、手を深く差し入れて彼の頬をそっと手の甲で触れた。汗と汚れで重くなった髪の毛が、私の手を包んだ。しかしもう、異様な臭いは全く気にならなくなっていた。
彼は、私が伸ばした手をしっかりと握り、その手が自分の頬から離れないように押し付けた。うっとりとした目で、その温もりを感じ取っているようだった。そこで私は、もう一方の手を伸ばして彼の頭の上に置き、神の祝福を祈った。
『天地創造の神よ! 今、この方に、あなたの愛と慰めを注いでください。この世に生まれたことの意味を、ご両親に示してください。救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。』
天国で会おうね!
彼はじっとしている。冷えた頬が次第に温もりを帯びてきた。その時、一点だけが冷たくなった。見ると、涙が一筋、頬を伝っていた。そしてまた一筋。それは手から心にも伝わり、私の目からも涙が溢れ出した。頬に当てた手をそっと動かし、彼の涙を拭うようにすると、涙が溶かした汗と汚れでヌルッとした感触が伝わってきた。いつの間にか、おじいさんとおばあさんが私に寄り添うようにしてこの経緯を見つめ、二人もまた涙を流していた。
私はおばあさんに、「お母さん、タオルを濡らして持ってきてください。」とお願いした。そして、おばあさんが母屋にタオルを取りに行っている間、「お父さん。なんと柔和な顔ではないですか」と言うと、「こんな顔、見たことがありません…」と、泣きながら後は声にならなかった。
「お父さん、この息子さんにも心があるんですよ。愛情を求めているんですよ。体を拭いたり、頭を洗ってあげたり、着る物をもっと頻繁に換えてあげてください。」感染に気をつけながらも心を込めて、人として生まれてきた慰めと幸せを味あわせてあげるようにとお勧めした。
おばあさんが持ってきたタオルで荒れた顔をそっと拭くと、目を閉じてじっとしている。片方の手が、いつも私の手に触れているようについて回っていた。私はおばあさんを促し、そのタオルを手渡した。母は老いの手で、息子の顔、首筋、耳の裏を…と次第に拡げていった。「ごめんね! こんなこと長い間してあげないで…」声を上げて泣きながら、両手で息子の顔を包む様にして拭いていった。
別れ際、私は彼の手を両手で堅く握り、その心に届けとばかりに言った。「天国で会おうね! 必ず会えるから。あなたのご両親と一緒にね!」彼は、握った手を自分の顔に押し当てるようにしてから、そっと格子の外に私の手を送り出した。こんな心配りが彼の中にあるんだ! 私は深く感動した。
現状を何一つ変えて上げられないことに申し訳なさを感じながら、ご両親に託して別れを告げると、「先生、この事は決して誰にも知らせないで下さい。」と言われた。私はきっぱりと言った。「決して他言しません。お父さん、お母さん、せめて愛情が届く心遣いをしてあげてください。また来ることはできないかもしれませんが、いつも思い出してお祈りしています。お祈りすると、神様は答えてくださいますから。」 (次号へ続く)
(これは今から40年以上前の出来事だ。そして数年前、この家がもう廃屋になっていることを聞き、彼らへの実害は無いと判断して証させていただいた。)