
偉大なる名王者モハメド・アリ氏が死去!
3日(日本時間4日)米国アリゾナ州フェニックスの病院でモハメド・アリ氏が呼吸器不全のため亡くなった。74歳でした。
引退後はパーキンソン病を患い闘病生活を送っていました。
ボクシング史上初となる3度の王座に就くなど通算19度の防衛とともに数々の名勝負を残しました。
また、現役時代は「アメリカの魂」や「アメリカの顔」とまで呼ばれた偉大なヘビー級の王者だったのです。
そして、ボクシングというリアルで暗いイメージを独特の毒舌パフォーマンスでエンターテイメントさを取り入れた先駆者でもありました。
ここに、モハメド・アリ氏のご冥福を心からお祈りします。

モハメド・アリ氏は12歳からボクシングを始め18歳までにケンタッキー州のゴールデングローブで6度優勝。そのほか、全米ゴールデングローブ(ミドル級)で2連覇し、更に、全米体育協会(AAU)主催のボクシング競技でもLヘビー級で2連覇してオリンピック代表に選出。1960年のローマオリンピック(イタリア)でLヘビー級に出場して見事に金メダルを獲得して凱旋帰国となりました。
この時はまだ本名のカシアス・マーセラス・クレイJr.でした。
しかし、帰国して人生を変える出来事があったのです。
食事のためにレストランに入ると「ここは、黒人がくるところではない!白人専用の店だ!」と入店を断られ追い出されてしまいます。
そうです、米国は今以上に人種差別が激しい時代だったのです。
クレイは「金メダルを獲っても、何の意味もない!」とメダルを川に投げ捨ててしまいます。
後に、新聞記者からメダル獲得の感想を聞かれたクレイは「レストランで食事する価値もないメダルなんか川に放り投げたよ!」とコメントしたことから全米中から非難を浴びる大騒動に発展したのでした。
まだ、18歳だったクレイは次の東京オリンピックでも全米の期待がかかっていたものの、レストラン入店拒否に裏切られた気持ちが癒えず、アマチュアから身を引く決断をします。
そして、直ぐにプロ転向を表明。
オリンピックが終わって1カ月半後の1960年10月29日、ケンタッキー州ルイビルのフリーダム・ホールでタニー・ハンセカー(米国)と6回戦で戦い3ー0(5点法/30ー19/30ー24/30ー23)とフルマークの大差判定勝ちでプロデビューを飾ったのでした。
ここから、カシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)の歴史が始まります。

カシアス・クレイはデビューから連戦連勝を重ねていた。
1964年2月25日、米国フロリダ州のマイアミビーチ・コンベンションセンターでカシアス・クレイは19戦全勝(15KO)無敗を引っ提げ当時強打を誇っていたWBA・WBC世界ヘビー級統一王者ソニー・リストン(米国)に世界初挑戦するが戦前予想は賭け率7ー1でリストンの断然有利とされていた。
しかし、試合はリストンが6回終了時点で度重なる空振りで肩を痛めて試合続行不可能となり棄権した為、試合ストップのTKO勝ちでクレイが20戦目で新王者となった。
この試合の前に公言した「float like a buttefly,sting like a bee=蝶のように舞い、蜂のように刺す」のキャッチフレーズはクレイの代名詞となった。
そして、試合後イスラム教に改宗してカシアス・クレイからモハメド・アリと改名したのだった。



モハメド・アリは1967年3月22日、米国ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでゾラ・フォーリー(米国)の挑戦を受け対戦すると7回KOで下してWBA世界ヘビー級9度目の防衛に成功する。
しかし、モハメド・アリは同年ベトナム戦争への徴兵制度に反対して兵役を拒否したのだった。
「私は罪のないベトナム人を爆弾で殺すなんて出来ない。卑怯者と罵声を浴びても、ベトナムには絶対行かない!」と良心的兵役拒否を貫いたが、禁固5年と罰金5万ドルを科せられることになった。(その後、モハメド・アリは国を相手に闘い続け1971年7月、合衆国最高裁判所で逆転無罪を勝ち取っている)
フォーリー戦後WBAとWBCの王座剥奪に加えボクサーライセンスまで取り消されて3年7カ月もの長いブランクを作ってしまう。
この試合のできない間は人種差別による公民権運動にも参加した。
そして、ようやくライセンスが再発行され試合が組まれたのだった。
1971年3月8日、米国ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで当時WBA・WBC世界ヘビー級統一王者ジョー・フレージャー(米国)に挑戦したが15回にフレージャーの左フックでダウンを奪われたのが響き判定負けで初黒星を喫して王座返り咲きに失敗となった。
その後、アリはNABF(WBC傘下)北米ヘビー級王座を獲得した。
1972年4月1日、東京・日本武道館で日本のリングに初登場して当時29戦28勝(28KO)1敗の途轍もない倒し屋で人気のあったマック・フォスター(米国)とノンタイトル15回戦で戦い軽快なフットワークで圧倒的な強さを披露して3ー0(5点法=73ー65/75ー65/74ー66)の大差判定勝ちで日本のファンを魅了した。
1973年3月31日、カリフォルニア州サンディエゴのスポーツ・アリーナでNABF北米王座の6度目防衛戦でケン・ノートン(米国)と対戦すると1ー2の判定負けでキャリア2敗目を喫して王座から陥落。
しかし、1973年9月10日の再戦では逆に2ー1の判定勝ちでNABF北米王座を奪還している。
1974年1月28日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで以前判定負けしている無冠となっていたジョー・フレージャーとNABF北米ヘビー級王座及び世界王座挑戦者決定戦で戦い3ー0判定勝ちを収めて雪辱を果たし、NABF北米王座の初防衛に成功するとともに世界統一ヘビー級王者のジョージ・フォアマン(米国)への挑戦権を獲得した。
キンシャサの奇跡と呼ばれた試合!
1974年10月30日、ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)のキンシャサ・ナショナルスタジアムで当時WBA・WBC世界ヘビー級統一王者だったジョージ・フォアマンに挑戦。
もはや、アリは全盛期を過ぎて勝ち目はないと予想されていた。
試合は予想通り勢いのあるフォアマンに中盤までアリが攻められ劣勢を強いられた。
しかし、迎えた8回終了間際にロープに詰められフォアマンの左右を浴びてピンチに陥ったが、打ち疲れをついてアリが速いワンツーを叩き込むとフォアマンはリングに崩れ落ちた。
かなりダメージを負ったフォアマンは立ち上がれずカウントアウトとなるKO勝ちを収めて2度目の王座に就いた。
これが、所謂「キンシャサの奇跡」と名付けられた歴史に残る試合となった。



1975年3月24日、オハイオ州リッチフィールドのリッチフィールド・コロシアムで無名のチャック・ウェプナー(米国)と戦ったが意外にもウェプナーが善戦して15回まで縺れたが、終了間際にTKO勝ちを収めて初防衛に成功した。
この試合を観戦していたまだ駆け出しの俳優だったシルベスター・スタローンが感動してこの勝負をモチーフにして後に大ヒット映画となった「ロッキー」のシナリオを書き上げていたのは有名な話しとなっている。
1975年10月1日、フィリピン・マニラのアラネタ・コロシアムで4度目の防衛戦を3度目の対戦となるジョー・フレージャーと戦い何度も形勢が変わる壮絶な打ち合いとなり、結局アリが14回TKO勝ちで退けた。これでフレージャーとの対戦を2勝1敗とした。
この試合も歴史に残る一戦に数えられる。
その後、1976年6月26日、アントニオ猪木と異種格闘技戦で対戦するため2度目の来日。
日本武道館で3分15回のルールで戦ったが、お互い牽制しあったことから決め手のないまま15回引分けに終わりブーイングを浴びる結末となった。


1978年2月15日、ネバダ州ラスベガスのヒルトン・ホテルでモントリオール五輪(1976年=カナダ)のLヘビー級で金メダルを獲得した新鋭のレオン・スピンクスと防衛戦を戦いまさかの1ー2判定負けで11度目の防衛に失敗して王座から陥落となった。
しかし、1978年10月2日、ルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームでダイレクト・リマッチでスピンクスと戦い今度はアリが3ー0判定勝ちで王座を奪い返して3度目となる王座に就いた。WBCはスピンクスが剥奪されたことからWBAのみの奪還となった。
この後、アリは何故かWBA王座を返上した。
1980年10月2日、ネバダ州ラスベガスのシーザーズ・パレスでかつてアリのスパーリング・パートナーだったWBCヘビー級王者のラリー・ホームズ(米国)に挑戦したが、10回終了のTKO負けに終わり4度目の王座復活はならなかった。
1981年12月11日、バハマ・ナッソーのクイーンエリザベス・スポーツセンターでノンタイトル10回戦を世界ランキング上位にいたトレバー・バービック(ジャマイカ)と戦ったが、かつての軽快なフットワークも見られず精彩を欠いて10回0ー3(94ー97/94ー99/94ー99)の判定負けで2連敗となり、これを最後に引退となった。
引退して直ぐに国連の平和大使に任命されたものの、数年後に頭痛と両手足の痺れに悩まされ病院で診察した結果、パーキンソン病と診断された。
その後、長い間病と闘うことになる。
そして、1996年7月に開催されたアトランタ五輪(米国)で久々に公の場に登場して聖火台への点火者としての大役を任され震える手で点火すると大喝采を浴びて世界中の感動を呼んだ。

【モハメド・アリMEMO】
改宗前の本名:カシアス・マーセラス・クレイJr.
生年月日:1942年1月17日
出身地:米国ケンタッキー州ルイビル
階級:ヘビー級
身長/リーチ:190cm/203cm
スタイル:右・ボクサーファイター
【プロ生涯戦績】
61戦56勝(37KO)5敗
【獲得タイトル】
NABF(WBC傘下)北米ヘビー級王座
NBA(途中からWBAに移行)世界ヘビー級王座(第26代)
WBA世界ヘビー級王座(第2代・6代・8代)
WBC世界ヘビー級王座(第2代・5代)
【アマチュア時代】
ケンタッキー州ゴールデングローブ・ミドル級優勝
全米ゴールデングローブ・ミドル級優勝
AAU(アマチュア運動連合)ボクシング競技・Lヘビー級優勝
ローマ五輪(1960年=イタリア)Lヘビー級・金メダル獲得