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武術散策  新しい事



 ダイクマさんから柔術技法を習ってるときには、それほど今までの自分の技術との差異というのは感じなかった(質の差はあったけど)。実際、今までの技術の応用もかなり使ってたわけである。
 しかし太極拳を習うと、かなりその身体運用に根本的な違いがあることに気づいた。双方の技術確認のために、少し観察してみたい。

 非常に大きな違いと感じたのは、太極拳が「後ろ重心」を使うことである。実はそれまでの僕というのは、ほとんど後ろ重心になることがなかった。合気道でも「四分六で前」と言われていたし、剣術においても「浮き身」をかけるために僅かな前重心を維持する。
 しかし太極拳では、「片方(後ろ)の足に10:0で重心を移して、移動する」と教わったのである。これには太極拳の戦術、戦闘理論に深く関わった術理である。

 後ろ重心にある時、それは相手を崩して比較的距離が近いときである。その時、後ろ重心にある自分の身体は、完全な「安全圏」にいる、というところに意味がある。そこで相手が技を離脱すれば仕切り直すし、技がいけるようだったら、今度は0:10で重心を逆に移動し、最大限の威力を発揮するのである。
 この事の典型的な術理が、「背後を盗む」ということである。相手と接近したときに、重心を片足で支えられる体勢になり、そこから足を伸ばして相手を背後を「盗む」。そこで相手が反応できなかったら、打や投げなどの技を入れるのである。

 この術理に必要なのが、股関節の割りである。今までの僕は、膝抜きを多用するため、膝の柔軟性と反応は自動化されている。しかし「背後を盗む」ためには、膝だけの割りではダメで、股関節の割りが決定的に重要になる。股関節の割りができてないと、片足でしっかりと身体を支えられないからだ。
 あまりにできない僕のためか、この前の練習日の後に、ダイクマさんがこれについて考察してくれてる。ちょっと参考にしていただきたい。http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-79.html#comment134

 股関節の割りは沈墜勁にも使われる。沈墜勁といえば震脚だが、実はこれも新しい動きとして教わることになった。それまでの僕は、平起平落型の足裏全面着地か、踵着地から踏み込む震脚を練習していたのである。
 これは八極では全面着地を習い、形意の劈拳では踵着地を指導されたことに由来している。しかしダイクマさんが多用するのは、実はつま先着地、踵震脚なのだ。ただ形意の先生のビデオを見てみると、ちゃんとつま先着地、踵震脚の「発勁練習法」をビデオで紹介していた。根本は同じという事である。

 しかしつま先着地、踵震脚は、注意深くやると確実に骨盤部の重心が前足に乗る、実に合理的な歩法であることが判る。恐らく必要なのは骨盤から上の、全重心をきちんと技に乗せることで、どこから着地するかとかはそんなに問題ではないのかもしれない。しかしつま先着地は、意識化という点では、実に効果的と思われる。
 この重心移動を、打撃にも投げにも応用する。それが太極拳である。これは前記した後ろ足重心にも関連するが、後ろから前への重心移動で技をかけるとき、つま先着地の歩法はその「後ろから前」の重心移動の意識化に極めて適切なのだ。

 太極拳の套路を見ると、その他つま先をあげての移動などが見られる。これも後ろ重心とともに行われる動作だ。実はずっとすり足移動を多用してきた僕にとって、これも新しい動きなのだ。
 太極拳の技の一つである 攬雀尾 (らんじゃくび)は、両足平行立ちのところから、すっと片方の足への後ろ重心を取ることによって、中心を攻撃してきた相手の手をかわす。この時にもつま先を上げて後ろ重心を取り、その後、つま先を上げてフリーになった足で相手の背後を盗む。

 しかしつま先を上げて移動することと、つま先着地とは別段矛盾はしない。移動したのちつま先を着地して、重心を前に移しながら踵着地である。この時に興味深いのは、太極拳では技のおりに、相手を浮かすように「上に」崩しておいて、そこから下に沈墜して相手を崩すのである。
 実は僕は「下方向」の動きに意識が行き過ぎていて、「上に」崩す動きが不得意である。僕の習った合気道が、どちらかと言えば「下方向」の沈身と斬りを重視する系列だったので、ずっとそれでやってきたのだった。しかしこの「上に崩す」意識が足らないのが、柔道がなかなかうまくならない理由の一つでもある。

 しかし相手を「上」に崩しておいてから「下」に落とすというのは、実は合気系武術でも極めて重要な術理なのだ。特に大東流などは、この意識化を徹底的にやっている。人間はまず「浮かし」てから、その後に「落とす」。これが自然な術理である。僕はこの理合を、ようやく意識化しつつあるのである。

 今までやってきたこととかち合う部分もあるかもしれないが、僕は新しい術理をまるごと身体に入れてみるつもりである。その上で「僕の」戦闘理論として融合されたものが、自然に身体から出てくるだろう。
 それまではこの「新しい術理」に眩暈にも似た喜びを覚えつつ、ひたすら邁進、鍛錬するつもりなのである。
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  • 日々の事  ロック、西沢渓谷を踏破する!



     昨日は山梨県の塩山の奥、西沢渓谷に奥さんとロックと一緒に行ってきた。山梨の方では八王子より冬が先に来るのか、もうかなり山は落葉していたが、色づいた山々のなかを心地よく歩いた。

     西沢渓谷というのは大小様々な滝があるというので有名な景勝地である。比較的軽装でも登れるし、紅葉シーズンには人気のトレッキングコースという事である。往復で3時間ほどという案内だったが、実際にはもうちょっとかかるかもしれない。
     山に入っていくとひんやりとした空気が身体を包んで、歩いてほてる身体を心地よく冷やしてくれた。渓流の水は澄んでおり、また複雑な岩場に生まれた滝の景観が目に面白い。

     哲学者カントはその美学において、自然美を感じる心を「崇高」を感じる意識に結び付けて論じた。しかしカントの論議では、実は崇高なのは自然そのものではなく、人間の超越性を求める感覚に結び付けられる。そこで最終的には「自然に対する人格の優越」という風に話がいってしまう。
     しかしこういう論議を見ると、やはり理性第一主義の西洋的精神世界なのだな、と感じざるをえない。自然の造形と言うのは実に驚きに満ちており、その類稀な形象性は「理性」という秩序によって把握できる範囲を必ず凌駕している。それに何より自然美とは、我々人間が「自然の一部」でしかないことに、その感受性の根源があるような気がしてるのだ。

     よく「山の懐に包まれる」という言い方をするが、山に入ると確かに気持ちが落ち着く。根が田舎者なせいか、都市部に出るより山が見えるところが好きだ。無論、山で暮らす、というのは非常に大変なことなのだが、それでも深き緑や紅葉した峰を心が求めるところがある。
     余談だけど「紅葉」というと葉が紅く染まることを意味してるし、人気があるのは五つに分かれたモミジの葉が、鮮やかな紅に染まるような光景だと思う。確かにモミジはそのまま「紅葉」と書くくらいで実に繊細で美しいと思う。しかし僕は秋が来ると、黄色に柔らかく装いを変える樹木も好きなのだ。

     万葉集のなかで、僕の好きな柿本人麻呂の歌にこういうものがある。

     「秋山の黄葉(もみじ)を茂み惑ひぬる 妹(いも)を求めむ山道知らずも」

     意味の大略は、「秋山の黄葉が繁っているので、迷ってしまった妻(妹とは妻のこと)を探そうにも、山道が分からない」というものになるそうである。緑の葉がおい茂る夏や、紅く色づく葉に覆われた森と違い、黄色く染まる森の中は、秋の澄んだ陽射しを柔らかく受け入れる。その明るい森のなかで、迷った奥さんを探している。

     実はこれは人麻呂が亡くなった奥さんを想って作った歌である。妻が死んだことを「山に迷う」と仮託している、というのが一般的な読み方なのかもしれないが、僕はもう少し違う感じも受ける。
     奥さんは山に迷うような人だったのかもしれないし、またそういう事があったのかもしれない(ふと見失う、と言う程度のレベルで)。そういう奥さんとの過去の想い出を回想しながら、そこで一緒に人麻呂本人も「惑って」いるんじゃないだろうか、などと考えるのだ。

     僕はこのしんみりとした切ない歌が好きで、この歌に人麻呂の奥さんに対する、「激しさ」によっては表現されないような、深い愛情を感じるのだった。そして、この歌によって初めて「黄色の山」という美観を好きになったのである。
     無論、紅く色づく山も抜群に映えることは疑いもない。京都の最も美しい風景は、よく作られた庭園に植えられた紅葉が落とす、池の水面への一枚の紅の葉だと思っている。美観と言うのは、色んな種類のものがあっていい。

     それはともかくとして、西沢渓谷は登りは結構岩場なども多かった。しかしそこをロックはものともせず、どんどんと先にたって登っていく。ジャックラッセル・テリアは確かに運動力の高い犬種だが、これほどとは思わなかった。
     驚いたのは、かなり危険だと思われるような岩場でも、ロックは行けると踏んだらジャンプして岩に乗ってしまうことである。人間だったら一歩一歩安全確認をして、ゆっくりと登っていくところである。しかし動物というのは、「できる」と判断したら迷いがない。その自然動物のような俊敏さを、ロックは失ってなかった。

     やたらと早いペースで進むロックに追いつくために一生懸命に登っていて、ふと発見したことがある。それは顔を斜面に寄せるように近づけて、股関節を柔軟に使うと早く登れる、ということだ。
     股関節を柔軟に使う、というのは、折りしもダイクマさんに指摘された僕の課題点でもあった。こういうところでも、その身体運用が効力を発揮するのである。奥さんに教えると奥さんのペースも上がったので、ある種の「技法」と言っても過言ではない。

     以前に山と武術の関係について日記に書いたことがある(『山ごもりについて』http://mixi.jp/view_diary.pl?id=747566679&owner_id=16012523)。あそこでは書かなかったが、実は群馬の赤城山に登ったとき、僕らは二人して「凄い山登り名人」を目撃した事がある。
     僕らがえっちらおっちらと汗を流してひどい岩場を登っていると、なんだか後ろから「シャンシャン、シャンシャン」という鈴の音が聞こえてくるのである。「なんだろう?」と思って振り返ると、一人の老人が、『走るようにして』岩場を凄いスピードで駆け上がってくるではないか!

     その邪魔にならないように道を譲ると、老人はリュックを背負ったその姿で、全くスピードを落とさずに僕らの横を通り過ぎていった。「…え~っ!」あまりの速さに驚きの声を上げた僕らだったが、僕は頑張って追いすがってみようと試みた。しかしすぐに息が切れて上りきれず、あっという間に老人は影も形も見えなくなってしまった。
     あまりの事にビックリした僕らだったが、「忍者の子孫かな?」などと話しながら小一時間も歩いていると、今度は前から「シャンシャン、シャンシャン」とあの鈴の音がする。「まさか!」そのまさかで、今度はまた凄い速さで、山を老人が駆け下りてくるではないか!

     僕らがえっちら登ってる間に、明らかに老人は山頂まで行って折り返してきたのである。そしてそのまま凄い速さで降りていってしまった。この老人の事を僕らは「赤城の忍者」と勝手に名づけているが、とにかく尋常なスピードでなかったのは確かである。どこにでも「達人」というのはいるものだと思った。
     それで思うのだが、昔の文献記述で、「~日で~山を越え」みたいな記述に合い、現代的な考証でそれが「ありえない」とするような場合もあるが、それは山歩きの早さの目算を現代人が間違えてる面もあるだろうと思う。

     少なくともあの老人なら、現代の常人の三分の一以下で山を踏破してしまうだろう。その事について僕は、あの老人の速さを「赤城をホームとし、その山で繰り返し練習してるため、安全なルートなどを瞬時に見分ける能力がある」という事と結びつけて考えていた。
     しかし今回ロックによって判ったことは、少なくとも「登り」においては、何らかのコツがあり、それを体得すればかなりの速さで岩場なども登れる、ということである。つまり固有の状況に通じている面もあるだろうが、一般的な技術でもある、ということだ。

     昔の山伏や忍者などは、ロックのように相当早く、山を登ったのではないかと思う。実際、山伏たちは、現代の登山家のように登山用の道具も使っていた。それと同じ意味で「身体運用」のレベルでも、「技術」があったのではないだろうか? 現代では「赤城の忍者」が、それをその身に実現してるのだ。
     しかしロック君は行きはよかったが、帰りの下りではすっかり疲れたらしく「抱っこ」と目で訴えかけてくる。ところどころ通してあった鉄製の橋が恐いらしく、その度に僕が抱きかかえてわたった。…フ、まだまだ子供だな。帰りの車では、ロックは正体を無くすほどに眠りこけていた。

    西沢渓谷のアルバム http://mixi.jp/view_album.pl?id=23886438
    西沢渓谷のロック http://mixi.jp/view_album.pl?id=23887615 
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  • 武術散策  初めての事



     理解したことは言葉にできるが、理解できてないことは言葉にできない。…というわけで、今回は原理的な話はなし。

     今回は初めての事が多くて、理解が全然及んでないのだ。で、順に初めての事を書いていく。今回はまず礼法を習った。立ってるところから正座をする。内容的にはこれだけなのだが、これが深い。これは初めての体験だった。
     そしてこれからがメイン。ついに太極拳の套路を教えてもらった。しかも八手(拳譜的には6かも。ちょっと要確認)も。ちょっと最初にしては多すぎたかもしれない。僕は空手の型や套路などを比較的覚えてるので、こういう事には慣れているのだが…どうも勝手が違い難しかった。

     套路の分解をやると、なおいっそう驚く。…太極拳とはこういうものかと初めて思った。はっきり言うが、太極拳とは極めて危険で恐ろしい武術である。今回初めて、その凄みを感じた。
     今まではダイクマさんは、どちらかと言えば柔術的な技法を教えてくれていた。しかしそれは太極拳のエッセンスを抽出して、柔術の型に応用したダイクマさん独自の技法だったのだ。その事が太極拳をやることで非常によく判った。

     その後で座り技。そして久しぶりに組み手もやってみた。注意してたのにまた前蹴りを貰う。悶絶である。それから今回はハイキックをもらった。いきなり昏倒…とは、ダイクマさんが手加減してくれていたのでならずに済んだが、これは初めての体験である。そうかあ~、ハイキックって組み、投げアリでやってても決まるんだあ。…驚くことしきりである。
     それからなんだか寝技にもつれこんだりして、離脱して立ち上がると何だか手が濡れている。ゲ、血だ! 確認すると鼻血が出ていた。今までに組み手で鼻血なんか出したことはない、これも初めての事である。多分、ダイクマさんから打たれた掌打か、寝技時での圧迫が原因だろうと思われる。

     それから練習後、一緒に練習していた一人が帰ったのでダイクマさんとサシで飲んだりした。これも初めて事である。これはすごく楽しみにしていたので、色んな事を話した。マンガの事などから始まり、武術と政治について、大儀と個人の関連など。話は硬いものが多かったかもしれないが、ダイクマさんが要所要所ほぐしてくれた。
     ダイクマさんは一つの世界認識を持っていて、それを自分の武術家としての態度にきちんと反映させている。そこにしっかりとした考えを持っている。そういう事を話せることがとても刺激的で、面白かった。

     飲んでる最中にふとダイクマさんが笑いながら「組み手は楽しかったでしょう!?」とか言ってきた。ゲ! そんな余裕など全然、こちらにあるわけがない。
     「ナニ、言ってるんですか! こっちは必死ですよ。これ以上、こんなことが続くと、ストレスで胃に穴が開きますよ!」と返してやる。ダイクマさんはニコニコと面白そうに笑っていた。ついつい長居して、ダイクマさんに促されるまで話してしまった。

     さてダイクマさんと別れて、慌てて帰宅に向かう。ちょっと今までにないくらい遅い。…と思ったら、なんとなく乗った電車が違う方面行きだった。寸前で気づいてギリギリセーフ。しかしふと電光掲示板版を見ると、「最終便」とかいう文字が大きく出てる。
     ゲ! 終電ってやつ? ワオ、初めてだ、そんなのに乗るのは。僕は基本的にこの間まで午前様もしたことがなかったので、終電になど乗ったことがあるわけがない。考えられない位に、僕にとっては遅い時間なのだ。

     しかし八王子に着くと、どうも小腹が空いた。ファミマによってオデンの大根とちくわなど買ってみる。もうちょっと食べとけばよかったかな、とか思った。
     コンビニのおでんは二度目である。しかし大根は初めての事なのだが、寒空になかなかいけた。自転車で帰る帰り道で、いつもの川沿いの小さな小道に出ると、ふと気づいた。僕らが「緑の小道」と呼んでるこの小道が、普段より妙に明るい。

     ふと見上げると雲ひとつない夜空に、満月が澄んだような静かな光を輝かせていた。こんなに明るい夜空を見るのは久しぶりだ。それは多分初めてじゃないが、この街に来てからこんな夜中に見るのは初めての事だ。
     別にそれほど生きてきた訳じゃないが、まだまだ初めての事に戸惑い、驚き、喜んだり少しジンとなったりする。そんな日々が送れている今は、結構いい時間だ。

     けど家に帰ったら奥さんはすっかり寝てて、ロックはもの悲しげにピスピス泣き始めた。これからはせめて、終電には乗らなくていいように帰ろう。すっかり寝息を立ててる奥さんの寝ぼけ顔に、そんな事を口にはしないが一応約束してみた。こういうことは初めての事ではない。 
      
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  • 日々の事  奥さんの恒例



     お酒はあまり強くないが、実は週に3~5日は飲酒する習慣の僕である。と、いうのも奥さんが毎年恒例で漬けてくれてる梅酒を、大概、食事どきに採ってるからだ。ちなみに奥さんは全く飲まない。

     何年か前から奥さんが毎年漬けてくれてるのだが、大体ローテーションが決まってきた。一番最初に漬けるのは梅である。その後にプラム、そしてグレープフレーツと続く。一番最後のグレープフレーツを漬けて、一ヵ月後くらいにグレープフルーツ酒が飲めるようになる。
     グレープフルーツ酒は結構、氷砂糖を入れてもらってもまだ苦い。ので、ロックで入れた後に、なおガムシロップを入れたりして飲んでいた。元来の酒飲みじゃないので、甘くないと「美味しい」と思って飲めない。子供の味覚である。

     一番後に漬けるのに、一番最初に飲めるのがグレープフルーツなのである。理由はよく判らないが、奥さんがそういうので、そうなのだろう。次に飲めるようになるのはプラム酒で、完全に漬ける順序と飲める順序は逆になっている。
     プラム酒は非常に甘いので、僕は大好きだ。今は梅酒を飲んでいるが、これを暖かい部屋でロックで飲むのが日課なのである。今年からは2瓶漬けてくれたので、かなりもちそうだ。

     冬になると奥さんの恒例になるのがリンゴケーキである。これは群馬に遊びに行ったときに、安く大量にリンゴが売ってるのでそれを買ってくるのだ。リンゴケーキ自体は奥さんによれば「インチキ法」で、ホットケーキミックスを使っているのである。
     フライパンで作るリンゴケーキは、実は意外にその円周が大きい。僕は甘いものが大好きで、ほとんど冷蔵庫におやつを欠かさないが、この時期はこれがあれば満足である。朝ご飯を食べた後とか、夕食後にちょいとパクつく。これが楽しみである。

     他にも奥さんの恒例、定番は色々あるが、この季節ものは実にありがたい。感謝・感謝の日々である。
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  • 作品を読む  山川イズム!



     山川啓介という作詞家がいる。多くの特撮の主題歌の作詞をした山川啓介だが、一般に知られる最も有名なヒット曲といえば、岩崎宏美の歌った『聖母(マドンナ)たちのララバイ』ではないだろうか。

     「さあ眠りなさい 疲れきった体を投げ出して」で始まるこの歌は、消費社会が本格化した1982年に空前の大ヒットとなった。この歌詞内容は、経済競争が激化した80年代において「男を癒す母性的女性」を歌い、「企業戦士」などと呼ばれたサラリーマンたちの心にビビッドに響いたのである。
     この歌のヒットには岩崎宏美の大柄で長い髪を持つどこか神秘的な外見も、その「聖母」的なイメージで後押ししただろうと思われる。それはいわばミケランジェロの「ピエタ」像にも似た印象だったと言ってもいい。

     ところでこれは「敗北」の歌である。歌われているのは戦って傷つき、疲れ果てた男の魂である。

    「この都会(まち)は戦場だから 男はみんな傷を負った戦士
     どうぞ心の痛みをぬぐって 小さな子供の昔に帰って 熱い胸に甘えて」

     この「敗北」は経済競争の上での敗北であると同時に、失われた「正義」の敗北でもある。むしろ「企業戦士」なるものが、学生運動という「夢」に破れた後のその後の学生たちの姿であることを考えなければいけない。
     山川啓介というのはこの『聖母たちのララバイ』では「敗北」を歌ったが、むしろその歩みは失われた「正義」に替わる新しい「正義」の準拠点探しだったといってもよい。僕はその足取りを、一人の「思想家」の思考の軌跡のように辿っていたのである。

     そのもっとも初期の現れは、「聖母」に先立つこと2年前の、八神純子の『Mr.ブルー ~私の地球~』に読むことができる。ここではその2番の歌詞をあげてみよう。

    「故郷(ふるさと)を聞かれたら まよわず地球と答えるの
     《争い》という文字が 辞書から消え去る その日まで」

     動画もアップしておくと、

    http://jp.youtube.com/watch?v=lLR_DhlCFeg&feature=related

    ※ただしこれはYOU TUBEで拾った、何故か『ガンダムOO』のオープニングとして作られてる動画である。あまりにもピッタリあってるので、感心しきりである。

     ここで歌われてるある種の「グローバル感」というのは、マルクス主義というものを通して、全世界的な意識を持っていた全共闘世代にとってはリアルな感覚の単位だった。山川啓介は「敗北」の後に、その「革命」の理論枠組みは捨てたが、その視野の単位は形を変えて残したといってもいい。
     
     山川啓介の「正義」の準拠点の開拓は、特撮の歌詞によって開花される。山川は『バトルフィーバーJ』『太陽戦隊サンバルカン』の主題歌の作詞も手がけているが、その理念性が最も顕著に現れた作品は、82年の『宇宙刑事ギャバン』だろう。

    「男なんだろ? ぐずぐずするなよ 胸のエンジンに火をつけろ」

     から始まる「男」を強調したその歌詞は、そこにグローバル感だけではなく、一つの「役割使命」をそこに託している。それは役割としての「正義」の、「あるべき姿」としての「男」なのである。
     この「男」が果たすべき使命は、2番の歌詞で構造的に明確化される。

    「悪い奴らは天使の顔をして 心で爪を研いでるものさ
     俺もお前も名もない花を 踏みつけられない男になるのさ」

     ここでは倒すべき「悪」が定義され、さらに正義の存在の「あるべき心構え」が語られている。それは「名もなき花=一般の弱者」を踏みつけたりしない、むしろそれを守れる人間になるのだという意志表明である。

     この論理展開は、次作の『宇宙刑事シャリバン』によってさらなる先鋭化を遂げる。これは少し長いが、実に本質を捉えた歌詞なので長く引用してみよう。

    「強いやつほど笑顔は優しい だって強さは愛だもの
     お前と同じさ 握った拳は 誰かの幸せ守るため」…続いて2番
    「夜空に輝く小さな星でも きっと誰かが祈ってる
     お前と同じさ 明日が今日より いい日になれと祈ってる」

     1番のラストフレーズは「俺たち男さ」だが、2番の方は「俺たち仲間さ」で終わる。「男」という、他者を守るために強くあるものと、そしてその守る対象への共同意識。この「山川イズム」と僕が名づけた、新しい「正義」の指針がここにはある。それは「敗北」の後に模索された、新しい倫理と態度のあり方だったのだ。

     この後の作品である『ジャスピオン』『スピルバン』の歌詞では、その「男」が、正義を行使するための「強さ」が強調される。ジャスピオンでは「俺が正義だ」と語り、スピルバンでは「俺の怒りは爆発寸前」となる。 
     しかしここにはまだ「男」「女」と言う役割分担と同時に、ある意味での性差別が残存している。80年代はそれでもよかったが、90年代に入り女性の社会進出が当然の社会が到来すると、さすがにそれは厳しい態度といわざるをえない。

     そしてまた「女性」と言う生来的に弱い存在ならば、それは「正義」たりうる事はできないのだろうか、という問いを呼び起こす。「女性」はいつまでたっても、「強者」に守られる存在なのだろうか。
     さらにそれは「強さ=正義」なのか、という疑問を呼び起こさざるをえない。真に必要なのは「強さ」だったのだろうか? それが本当に「正義」だったのだろうか。

     ここで一つの転機になるのが『世界忍者戦ジライヤ』の歌詞である。この歌詞では「役割」や「強さ」を捨て、もっと本質的な中核を掴もうとする意図が見受けられる。

    「この地球を抱きとめる そんなでっかい心が欲しい
     誰もみんな幸せに 輝いてる未来が欲しい
     戦うのさ お前の弱さと 若さの剣をうならせて」

     ここで戦う相手は、「心で爪を研いでるやつら」ではない。むしろそれは「自分の弱さ」に替わっている。それはどんな「弱さ」なのか? その弱さとは、「でっかい心」を持てない弱さ、自分のことばかりを考え「祈っている誰か」のことを考えられないような「弱さ」なのである。
     ここにおいて「戦い」とは、むしろ内面的なものになっていくのだろうか。しかし、そうではなかった。その力が、「誰か」を助けることに向かわなければ、それは単なる自己満足である。その力を「誰か」に向けること、特にその「命」に向けることが、次作の『機動刑事ジバン』では改めて取り上げられる。

    「光りが激しく降りそそぐ 生きてるわけを問いかける
     判っているさ愛するものを 自分を捨てても守るんだ」

     「光が激しく降りそそぐ」ほどの、自己の存在意義への問い。それは苛烈にして、厳格な問いである。その答えのなかに、「愛」が含まれる。「誰か」という他者を志向する愛がなければ、それは単なる自己強化、強者願望に過ぎない。
     他者を志向しないそのような「強者」とは、そもそも「心で爪を研いでる」ような者たち=つまり権力者や虐待者ではなかったか? その答えを、2番の歌詞において、山川啓介はこう表現している。

    「心に愛がなかったら ただのゲームさ戦いも
     君の微笑み美しいから 大きな敵にも勝てるんだ」

     誰が優位にたち、誰が損をするか? 真の「戦い」とは、そういう「ゲーム」ではない。それは「競技」や「市場」のゲームである。しかし真の戦いは、それらの外にある。

     『機動刑事ジバン』が終わって始まった『特警ウィンスペクター』は、「レスキューポリス・シリーズ」と呼ばれるものの第一作となった。それは今までの「悪を倒すヒーロー」ではなく、「災害において人々を救うヒーロー」という前代未聞の特撮作品となったのである。
     この番組側から提示された「新たなヒーロー像」は、山川啓介の歌詞にも影響を与えた。

    「みんなの微笑み戻るなら どんな辛さも超えるのさ
     地球を救え 勇気と知恵で 未来を救え 大きな夢で」

     これが1番の歌詞である。これは基本的に今までの山川イズムを踏襲した路線だと言ってもいい。しかし興味深いのは2番の歌詞である。

    「戦いの痛み苦しみは 俺たちだけが知ればいい
     地球を救え 悪の手から 未来を救え あやまちから」

     ここで注目すべきは、「あやまち」からも未来を救おうという、その姿勢である。それまで山川イズムの歌詞には、「あやまち」というものは出てこなかった。敵となるのは悪意を持つ「やつら」だけだったのである。
     しかしここでは未来を危機に落とす原因を、「悪」にだけ求めてはいない。そこに「あやまち」が介在しうることを認識し、そして「あやまち」からも未来を救いたいという、より踏み込んだ願いが込められているのである。

     ここにおいて「戦い」とは、単に敵対してるものとだけの戦いではなくなる。「あやまち」とは誰もが陥る可能性のあるものである。自分自身もまた「強く」なければ、その「あやまち」に陥るだろう。
     そのような「強さ」を、山川イズムは新たな時代の「正義」として提示した。そして歌詞を聴いて育った僕らの心に、その魂は宿っている。真に「名もない花を踏みつけられない」人間になるのは、実は「自己との戦い」ともいえる苛烈な道なのだ。山川啓介は厳格な態度で、その事を教えてくれたのである。

     最後に『宇宙刑事シャリバン』のED。「笑顔が優しい」強さを身につけられるように。

    http://jp.youtube.com/watch?v=y71M6LJ8Wb4&feature=related
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