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武術散策  私説・武術体系  目的論



 僕にとっての武術の理論体系を素描してみようと思う。ただこれは僕にとっての武術体系なので、全ての武術の、というわけではない。

 まず根源的な武術の目的論の定義から始める。僕の武術の目的は『護身』が最初の基本である。
 これを抽象的に考えると即ち「自己の、他者からの自由を確保すること」となる。これをさらに敷衍することで、武術を『自由のための理念・技術の体系』と位置づけることができる。
 ではこの『自由のための体系』は、その意味を基本から拡大したとき、その可能性をどのように拡張できるだろうか。そのためには、「自由」の定式化をさらに延長させる手続きをとることになる。その事によって、

・「自己の、他者からの自由」 ・「他者の、他者からの自由」
・「自己の、自己からの自由」 ・「他者の、自己からの自由」

 という、まず基本的な四分類ができる事になる。ではそれぞれの内容を、具体的に省察してみよう。


・「自己の、他者からの自由」
 …まず最も基本的なことは、他者の暴力からの、物理的意味での護身である。他者の暴力の抑圧手段による不自由から解放されること。これが最初の基本である。しかし抑圧手段は物理的手段によるとは限らない。
 物理的手段を「背後」にもつ脅迫的手段や、社会的な意味での「悪い結果」(例えば上司という権利を利用したハラスメントや、得意先や顧客という立場を利用した不当要求が例である)を想起させることによる抑圧方法もありうる。これらは非物理的手段による抑圧である。

 この意味での非物理的手段による抑圧にまで対策を考えるならば、それは普段の振舞い方や、社会への関わり方、人間関係の作り方までがその視野に入れられなければならない。このような前提の上で、「自由」を確保することが武術的な課題となる。
 しかし人間は多かれ少なかれ社会に属し、その中では支配・非支配のような関係性のなかで生きている。この支配性を全て脱却しようというのは無理であるばかりでなく、その欲求自体が過大な桎梏となるとすら言える。

 ここにおいてはその関係内の立場において、いかに「自由」を獲得するかという事が課題となる。武術のなかで徳目の教育が意味を持つのは、この次元の話であると思われる。


・「他者の、他者からの自由」
 …これは他者が、更なる他者(第三者)から抑圧を受けている状況を助けることをまず意味する。と同時に、これは他者本人が、第三者から身を守れるようになる技術を教授する、という事にも関わってくる。
 自身が身を守るだけでなく、他者にその技術を教授するということは、ただそれが「使える」だけでは不十分である。この事は認識として、武術を深く理解していることの必要性を意味する。その意味ではこの目的は、原理や指導法の認識ということに関わってくることになる。

 またこれは自身の選択する戦闘理論はさておいても、その護身の技術のために視野を広くすることが望ましいと思われる。自身に合った戦闘理論は、自身の気質や体型、理解度に合わせて構築される。
 しかし被教授者は、自身とは体型も気質も異なる者であり、その理解の仕方も異なる。できたら深い認識で多様な技術を包含してるのが望ましいし、その理解の糸口も多様な方面からアプローチできる多面性があるのがいいと思われる。この事は自己武術の「独断性」を自己批判できるだけの批判力を有する、という事に結びつく。


・「自己の、自己からの自由」
 …人は様々な欲望や衝動を持つ。特に男性は支配欲や攻撃衝動が強い。この衝動に身を任せること、その欲望を満たすことが「自由」と受け取られがちだが、そうではない。例えば過度の肥満や、アルコール依存などが進行すると、最終的には自分で自立的な行動が取れないような状態に陥る。
 このような意味で、その衝動や欲望に身を任せるのは、むしろその欲望や衝動に「囚われている」と言えることになる。つまりそれは「自己自身」の奴隷、ということである。この意味で、「自己」から自己を自由にすること、それがこの三項目の意味である。この意味ではこの衝動や欲望を抑制あるいは操作する技術を身につけること、その正体をよく知ることが武術的課題となる。

 しかし自己を捉えてるのは、その衝動や欲望だけではない。その生まれ育った環境による影響が事象の判断において、ある偏向や無知を作っているかもしれない。
 このような文化産物を一般的に「制度」と呼び、広い意味で使う。法制度のような具体的なものに限らず、慣習や偏見などもそこに入ることになる。これは環境による拘束要因で、このような「制度」から自己を自由にすることもまた課題となる。


・「他者の、自己からの自由」
 …これは他者自身が、前項のような衝動や欲望から自由になることを意味している。これは二つの場面で想起される。一つは指導者が被指導者に対して、そのような衝動抑制の技術を教授する場面である。

 もう一つはこれは、戦いの場面、その最中である。戦いのさなかにおいて相手の攻撃衝動を無化してしまう。これは言わば戦いの場において、他者を「救う」ということにも近い。そのような事が可能だろうか? 
 しかし古来の剣豪、合気道の到達点とは、本来そのような境位を目指すものであり、その次元が目的となる。これが「活人剣」という概念や、相手の邪気の「浄化」と言う発想につながる。


 以上のように「自由」を鍵概念として、僕の武術の目的論を概覧してみた。ただしこれは『護身』を基本とした、「僕の」武術体体系であり、その対概念である「反僕の」武術体系もまた同時に想定しうる。それは『護身』ではなく、殺傷、つまり『制圧』それ自体を目的とした武術である。そちらの方を考察してみよう。
 この場合、行動主体は必ず「自己」になる。また抑圧対象は「他者」しかないので、バリエーションは多くない。

・「他者への、自己を介した抑圧」・「他者への、他者を介した抑圧」


 という感じである。少し考えてみたい。


・「他者への、自己を介した抑圧」
 …これは物理的、非物理的な方法で他者を抑圧するという事である。最も直接的なのが、物理的暴力に訴える方法だが、前記したように抑圧手段は物理的手段には限らない。

・「他者への、他者を介した抑圧」
 これは第三者への命令によって、他者への抑圧を実行するケースを指す。場合によっては戦略論などは、この範疇に入るのかもしれない。考察が必要である。

 とりあえず僕の武術論の体系と、反僕の武術体系を目的論的に考察してみた。これはあくまで基点である。ここから、具体的な内容に入っていくことになる。
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  • 社会と人間  学生大麻事件ついて



     NHKの『クローズアップ現代』は、急増する学生間の大麻つにいての報道だった。慶応に続いて早稲田でも逮捕者が出たわけだが、大麻が学生の間で急速に広まっている現状があるという。

     まず驚いたのは、大麻に関しての法律の抜け穴である。大麻を栽培したり、売ったり吸ったりするのは違法だが、「種」ならそれは問題ないそうだ。大麻の種は七味とうがらしの中などにも入っていて(炒ってある)、種は取引しても法に引っかからないのである。
     そこで学生たちは、アシのつく売人からの買取を止めて、自家栽培に乗り出すのである。この大麻の種は雑誌やネットで、普通に販売してるらしい。専用の投光機などを使うと、室内のダンボール箱や押入れのなかなどで自家栽培できるようになる。それを仲間うちだけで売り買いするのである。

     呆れたのは大麻をやり、栽培にも手を染めた学生の言い分である。「コミュケーションが苦手で友達も少なかったが、大麻をやると友達ができる。くだらない事でも笑いあえるし、結束感みたいなものが強くなる」という。
     ここで興味深いのは、この学生たちの友情に対する感覚の薄っぺらさである。「笑い合う」だけの関係が友人といえるだろうか? マジメな話や重たい話をしてこそ、友人なのではないだろうか。それに大麻のようなマヒ感覚によって作られる結束感ってなんだ? 犯罪者の結束感のような「共犯感覚」か。

     これは僕が以前に書いた日記、『仲間意識って?』に通じる話でもある。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=826602983&owner_id=16012523
    そのような仲間意識は、「仲間の間には実は何らの信頼もリスペクトもない」と僕は以前にも書いた。
     しかし大学時代に深刻な議論や、激闘に近い恋愛をしてきた僕としては、彼らの感覚を到底理解できない。学生ってのはもっと楽しくて、もっと苦しい、充実したときを過ごせる時間のはずである。

     大麻のことを「タバコや酒よりマシ」などと言って流布させてる人間がいるようだが、とんでもない話である。大麻の「無害性」については、ウィキペディアの記述もかなり凄い。
     NHKの番組では、大麻栽培をしていた学生は精神的理由で休学していた。また別のリハビリ施設通院者は、普通にCDショップからお金を払わないでCDを持ち出そうとして、捕まったという。常習癖とともに現実感覚の欠如が見られ、社会復帰の困難が症状になって現れている。

     これに対して、大学側では生徒の代表を研修したり、大麻被害についての授業を単位認定するなどして対策をたてようとしているという。しかし一方で、このような大学側の対策に、学生からは批判の声もある。 「ごく一部の人のやってることで、自主的に勉強しに来てる学生にまでそういう事をさせるのはどうか」「自己責任でやることだから、大学がやる必要はないのではないか」というのがその言い分である。

     僕はこれを見て、そのいかにも知的ぶったスタイルの物言いにまた腹が立った。「自己責任」といえば聞こえはいいが、ようは「自分とは関係ない。やりたい人はやれば」と言う態度である。
     これは一見合理的なように見えて、そうではない。例えば彼の恋人あるいは大事な友人が、ふとしたはずみで麻薬に手を染めて判断能力が低下したり、マンションから飛ぶなどして死んだとしても、まだ彼は「自己責任だから」「「オレには関係ない」と言えるだろうか?

     あるいは自分やその恋人が、麻薬中毒の人間に暴行や殺人などの被害にあったとして、それでも「オレには関係ない」と言ってられるのか。さらに言えば将来的に自分の子供ができたとして、その子供が将来的に社会に参入したとき、麻薬がすっかり流布する社会のなかで麻薬中毒患者になったとき、それでも彼は「自己責任だから」と言ってられるのだろうか?
     結局のところこの「自己責任」なる言葉は、麻薬を放置する側にも麻薬をする側にも便利な言葉である。吸う人間は「自己責任」で吸うのだろうし、売る人間も「自己責任」で買う者にしか売らないと言いぬけられるだろう。しかしこの自己責任が、他者に実際的に被害を及ぼすことをこの言葉は看過しているのである。

     だが、しない側もする側も、この「自己責任」と言う言葉を使うところに現代の倫理的課題の問題点があると思われる。それは裏返せば「他人のことには責任はとらない」という態度だ。「自分は自分で精一杯、他人のことまで面倒見てられない」というメンタリティが浸透していないだろうか。
     ここにはまた、あの均質主義も関係している。それは「他者」に関与することはない「自己」だけが浸透する世界である。そこには他者を守ったり、導いたりする「強者」はいない。逆に守られたり、導かれたりする弱者もいないのだ。

     ここにいる「自己」とは、均質主義のなかにある差異のない「個人」である。この「個人」は互いに干渉せず、優劣も競わず、「自己責任」で自分の生き方を決定する人間である。
     だがこのメンタリティが児童の養育放棄や、「いう事をきかない子供」への虐待などを生んでいると言ってもいい。子供とは徹底的に弱者であり、また親に依存する存在である。このワガママで無力な子供の依存に耐えられない親が増えている。それは『他者』というものに向き合えない、脆弱な自我の現れなのだ。

     保護者は被保護者を守り、責任を取る。強者は弱者を助け、また未熟な者を導く。そして人はなるべく守られる側から守る側になるように努力をし、導かれる者から導く者へと成長していくのである。それが人の生き方である。
     こんな事は一昔前なら、僕みたいな若輩がわざわざ言う必要はないほどの、当たり前のことだったはずである。しかし脆弱な自我が求める「仲間意識」が、「大麻」や「虐待」と表裏一体の現象と気づかなければいけない。これは非常に入り組んだ構造なのである。 
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  • 社会と人間  格差社会の実体



     ある資料を見つけたので、それについて書いてみたい。「格差社会」と言う言葉が浸透して久しいが、その実体はどうなっているのだろうか? そういう実感が、一般に暮らしてるなかにあるだろうか? 恐らくは「ネットカフェ難民」などのニュース情報でしか、そのイメージを持たないのではないのだろうか。

     資料と言うのは1998年と2006年までの、所得者数の推移表である。その比較において、98年から06年の間に、いかな社会を日本が遂げたかが判る。ではその表を、簡単ながら出してみよう。人数の単位は千人である。

       年間所得    1998年  2006年   推移

        100万以下  3294   3605   311増
     100万~200万  4639   6623  1984増
     200万~300万  6783   1984   397増
     300万~500万 14705  13813   892減
     500万~700万  8281   7172  1109減
    700万~1000万  5178   4211   967減
    1000万~1500万 1995   1655   340減
    1500万~2000万  394    364    30減
    2000万~2500万   79    112    33増
       2500万以上    98    111    13増

     表をパッと見ただけでは、なんのことか判らないかもしれない。この表が意味してるのは、少なくとも98年から06年の間に、中間所得層と呼ばれる年収300万~1500万くらいの世帯が減少し、代わりに年収300万以下の世帯と、年収2000万以上の世帯が増えたことである。
     特に注意すべきなのは年収200万以下の世帯が1000万人を超え、98年に比べて220万人も増加したということである。そのうちの4分の1は年収100万以下の「ワーキング・プア」層である。

     しかしこうして貧困層が増大する一方で、社会の中枢を支えるべき中間所得層は減少している。そしてそれに加えて、年収2000万以上の富裕層は、一方で増大しているというのが現状なのである。
     しかし富裕層の増大率が僅かなのに比べ、中間所得層の減少、貧困層の増大は過大なものがある。富裕層が増えたからと言って、社会が豊かになったとは到底言えない進行状況である。

     この表の進行状況を受け取るならば、日本は経済的に、空洞化しつつあると言ってよいだろう。僅かな富裕層が増え、貧困層が拡大、中間所得者層が薄くなる。これが日本の「格差社会」の実体で、それは日本経済全体の低迷化も物語っている。これが小泉政権時代の経済推移だったことも付け加えておく。
     そもそもこれが何のための記事の表かと言うと、実はこれは国民保険に関するニュースのための表なのだった。簡単に言えば国民皆保険だったものが、保険負担が大きすぎて滞納、未払いの末の無保険世帯が増えているという話なのである。

     その記事よると国民健康保険の滞納の末、保険証の有効期限が切れ、医療費全額自己負担になる「被保険者資格証明書」が交付された世帯が33万世帯に登るという。
     深刻なのはその世帯に住む子供たちの存在で、中学生以下の子供がいる世帯数は1万8240世帯。そこにいる子供たちは3万2903人になるという。

     これは以前にとりあげた群馬の上毛新聞の記事とも呼応している。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=982655522&owner_id=16012523
     群馬では保険証のない子供が1500人いるというが、群馬ではよく調査士、対策を練っているほうだろう。
     「自己責任」なる言葉が、親を選べない子供に適応できるだろうか。こういう流行文句を使って、新自由主義的政策を支持する人にはよく考えてもらいたい。そして本来、全ての国民を救済するはずの健康保険が、年金を払った上でないと払えないという仕組み上の不都合もあって、負担過大になっている現状を考えなければいけないのである。
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  • 日々の事  山梨のおみやげ


     山梨に行ったときのおみやげが、今日の夕飯。というわけで、これが山梨名物「ほうとう」である。ちなみに普通は鍋なんかで作らず、うどんみたいに丼に盛るものである。

     「ほうとう」は、うどんやきしめんのような小麦粉麺だが、どうも地元や歴史考証では「うどんの一種」とは見ないらしい。「麺」というより、「すいとん」に近いものと見做されているようである。
     麺の形態はうどんよりコシがあり、きしめんより太い。「だんご汁」のように野菜をたっぷり入れるのが特徴のようだが、かぼちゃを入れるのが特に一般的らしい。普段あんまり食べることはないので、おみやげに買ってきた。

     で、最後の写真は「いなごの甘露煮」。うちはこれが非常に好きである。いなごは昔の日本の農家では、たにしやどじょう同様に、貴重なたんぱく源として摂取した。無論、現在のはみやげ物なので、すごく甘く煮てあって美味しく食べられるようにしてある。
     いなごの姿がそのまま見れるので、「えっ」と思うかもしれないが慣れればなんという事はない。味は正月などに食べる田作り(ごまめ、とも言う。ニボシの甘煮)とほぼ同じである。しかし食感はエビのようなサクサク感があって、これが実に美味しい。ご飯とつけ合わせると、とてもいい。

     今日はご飯ではないので、いなごはいらなかったのだが、写真を撮るついでに出してみた。ちなみに、ほうとうは美味しかったが、奥さんは量を間違えて煮すぎてしまって食べ切れなかった。
     「明日のお昼に食べるもん!」とか本人は言ってるが、明らかに分量ミス。明日の僕のお弁当が、やたらと太い冷えた麺類でないことを祈る。
     
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  • 日々の事  どうでもいいのだが…



    男性がステータスを感じると思うことランキング
    http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=669179&media_id=45

     いや、もう寝ようと思ってなんとなく最後に開いたニュースがこれだった。一位・車? 車なんてお金出せばどんな人でも買えるじゃん。それがステイタスなの? よく判らない。

     面白いのは「ちょっと意外だったのは、《腕っぷしの強さ》や《肉体美》など、身体的な要素が伸び悩んだことでした」ですって! 武術家が大半のマイミク諸君にはイタい話。いーじゃないのベツに、メタボ予備軍より腹筋割れてたほうがいいっしょ! 戦えないより、戦えたほうがいいでしょ!
     あ~、ダイクマさんが言ってた「武術を選んだ人は、マイナー」ってこういう意味だったのかなあ。僕は全然、メジャーなつもりだったのに。かるーくショック。

     そんな不平をもらすと奥さんが横から覗き込んで、「じゃあ、何をステイタスに感じるの?」と聞いてきた。僕は即答で返す。

    「頭のよさ」「ふーん」「顔のよさ」「ふーん」「…何だよ、その顔は。まるで縁がないと言わんばかりじゃないか」「まあ、みなまで言うまいが」

     それはともかくとして、「頭よさ」も「顔のよさ」も入ってないことに改めて気が付く。え? マジで? 肉体美は一応入ってるのに? …うーん、そうなのか。しかし、そうなると…

    「…もしかして、僕って男に好かれないタイプ?」
    「今頃、気づいたの?」

     フッフッフ。かるーくショック。もう寝る。
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