こんにちは、こんばんは!

寒さは増してきましたが、冬至を越えて日が長くなってきましたね✨それと同時に、野の草花は少しずつ顔を出し始めています。寒さの中に、春を感じる季節になりました😊


今日はまたマレさんがとても大切なお話をしてくださっている動画をシェアします。何度も申し上げますが、私には支持政党はありません。


ちょうど、“罪=悪ではない”という話と、“人それぞれ”の注意点について書こうと考えていたところで最適な動画と出会えたので、シェアします。

 



動画の中で、罪の性質やその語源について分かりやすく解説してくださっています。


今回のブログは内容がたくさんつまっているので、あらかじめ道筋を書いておきますね。

①性罪説の当たり前さと罪悪感の大切さ
②罪悪感についての2方向への刷り込み
③何に対する罪なのか
④今後の世界と聖書の関係

これらの4つに触れていきます。



①性罪説の当たり前さと罪悪感の大切さ


私は聖書の立場である性罪説はとても腑に落ちていたのですが、確かに、“罪がある”と言われると、悪人と言われているように感じる方もいるかもしれませんね。


なぜ腑に落ちていたかというと、“完璧な人間がいない”のが当たり前で、その中で一つ一つ成長していって、それでも繰り返したり間違ったりしてしまうのが人間だと思っているからです。
でも、間違うのが当たり前だから何でもよし、ではなく、その都度、内省をしながら成長し、成長に疲れたらまた休み、そしてまた何かきっかけを掴んで成長していく…

勉強や習い事をイメージするとわかりやすいですが、そうやって繰り返していくうちに上達していきますよね。人間も同じたと思うのです。ですから、“例外なく誰しも間違う性質がある”という意味で腑に落ちていました。

そして、「あぁ、間違ってしまった…」という罪悪感って、とても大切な感性です。例えば、人のことを叩いて怪我をさせてしまっても悪びれないとなったら大変ですし、そんな人ばかりになったら秩序のある社会ではなくなってしまいます。過度な罪悪感は心身に悪いですが、この感性自体は人間にとって、とても大切なものです。



②罪悪感についての2方向への刷り込み


近年は、罪悪感を植え付けるようなものと、罪悪感を書き消したり無かったことにしたりするような思想の両方が流行っているように見えます。

前者は例えば「失礼クリエーター」なんてことばも出てきたくらいで、「その人の善意」よりも「作法」にばかり注目させる風潮がありました。また、逆に「成功者」と呼ばれる人たちを持て囃してそればかりを良しとするような風潮もみられます。勿論、成功している人の努力はあると思いますし尊敬するところもありますが、人生は終わるまでわからないですし、善し悪しの秤は私たちのものではありません。
誰の秤だかわからない「成功例」に目を向けさせることにより、そうでない自分を悪く扱うような無意識を刷り込み、自己肯定感を下げる、そして、その誰かの秤の上に乗せてからめとる……はぁ、書いていて、ろくでもないなぁと思ってしまいました。


後者だと、何でもかんでも「人それぞれだから何でもアリ、自分がそう思ったらそうなんだ!」とか「善悪はない」とか、「あなたがあなたの神様です」とか…「自分軸」なども、行きすぎるとただの失礼や自己中心性という落とし穴に行き着きます。


こういった観点から、過度な罪悪感は不健康だけれど、罪悪感という感性は悪いものではなく、寧ろ完璧でない私たちには大切な気付きであり感性であると言えるのです。


③何に対する罪なのか

では、何に対して間違うのか。その“何”が大事なのですよね。


法律に対して間違うと犯罪になり、ルールに対して間違うとルール違反になり…テスト問題に対して間違えば誤答になります。

でも、例えば校則で、“(日本人の髪は黒だからという前提のもと、染めてはいけないの意味で)髪は黒でなければならない”というのがあったとして、元々茶色い髪の毛の人がいたとします。この人は悪いでしょうか。

また、テストでも、習っていない方法で回答してはいけないとされている学校があったりします。習っていない方法で正答したら誤答になるのは、果たしてどうでしょうか。

法律だって中央集権になったら人権なんか無くなりますから、従うことで良心に背くことも有り得るでしょう。


このように、何に対して誠実であるかの“何”の部分を間違うと、凄く虚しいことになります。


人が作った基準やルールは変わりますし、時に間違います。


では、「良心」とか「義」はどこから来るのでしょう?
何を基準に私たちはその感覚を持つのでしょう?




④今後の世界と聖書の関係

これから来る時代は、これらのことが問われる時代になるでしょう。なぜなら、もう始まっているからです。もうご存知の方もいますよね。


例えば、重篤な副反応が出て死に至る場合もある💉を強制的に打たせる権利は、誰にありますか?誰にも無いですよね。
憲法改正の話が出ていますが、法改正したら何でもやっていいと思いますか?改正草案は「個人として」ではなく「人」として尊重される人権に変わることが書いてあります。この意味を分かりやすくするなら、「ヒト」とカタカナにしたらイメージしやすいでしょうね。


ね、もう、始まっているんです。
秩序(義)がどこにあるかが問われる時代が。


色んな事実を掘り下げていくと、世界の見方は変わらざるを得ません。

人々は良心で生き、責任ある職の人たちはその職務をそれなりに善良な心で行って、世界はより良い方向に向かっている……それらが幻想だと気づくでしょう。もちろん、全部が悪いわけではないですし、だからこそまだ保っている部分も大いにあるでしょう。しかし、現実は厳しいです。


領土やお金や覇権を争う世界をみた時に、「人間の欲」にうんざりするでしょう。

でも、もうすこし踏み込んでいくと

これだけ世界を動かせる人たちが、お金や覇権を、既に持っていないはずがないんですよね。
もう持ってるのに、もう既にメディアコントロールができているのに、何がしたいのか。

つまり、もっと奥に、違う目的があるんです。


実は、その部分が、聖書のことがわからないとわからない世界なんです。だからこそ日本で流行ってないんですよね。
これからの大事な時代に日本が関わってくることが示唆されているから、隠されていると考えたら、どうでしょう?


この部分が知りたい方は、マレさんのバイブルリアリティーの受講をおすすめします。FBアカウントがあれば、月4500円で過去動画も全部みられるので、頑張れば節約して色々知ることができます。
お世辞抜きに、破格です。情報量が半端ないですし、おかしな陰謀論やスピは入っていないのでわかりやすいです。去年の9月10月のとか、12月のとかがもしかしたら分かりやすいかもしれません。最初からみたほうがいいですが、この辺の内容は比較的入りやすいのではと思います。



聖書は「キリスト教の経典 」と思う方が日本人はほとんどだと思いますが、違います。

なぜなら、聖書はイエス・キリストが誕生する前からあるからです。
旧約聖書の時代がそれにあたります。そして、旧約聖書と新約聖書は繋がっています。イエス・キリストは、旧約聖書を用いて、腐敗した宗教家たちと戦いました。


例えば、マタイの福音書21章12節に
「それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。」

とあります。神聖な場所を、その時代のその土地のひとたちがお金儲けの場所にしたんですね。しかも、神聖な場所と知っていて。


この場面、腰掛けや台を、イエスはおとなしーく、カタン、と


倒したと思いますか😂?恐らく違いますよね(笑)


このように、この世の権威と戦ったのがイエス・キリストなんです。そして、聖書の精神を純粋に継いでいる派は、なぜか、歴史的には異端と見られています。そして、その根は今でも続いていて、それが未来に繋がっていくのです。






かなり色々な内容を詰め込んでしまいましたが、
まとめると


・聖書の性罪説は、人間を悪と決めつけるものではないこと
・罪悪感という感性自体は、完璧でない人間が平和を維持するためには必要な感性であること
・それらを過剰に取り扱ったり、成功という秤のPRをすることでそうでないものを良しとしない刷り込みをしたり、書き消したり無かったことにするような風潮があること
・何に対しての罪なのかを考える
・その「何」に対して誠実に生きるのかが問われる時代がきていて、Keyは聖書であること
・聖書と宗教はイコールではなく、イエス・キリストは宗教家と戦ったこと
・そしてその戦いは今も、そして未来にも引き継がれるということ


これらのことを書きました😊



長文を読んでくださり、ありがとうございました🙏
まだまだたくさん書きたいことはあるのですが、また、書いていきます。


もしよろしければ、また遊びにいらしてください🍀