新しい動画を公開しました。
私は、子どもの頃から安曇野が大好きです。
血縁である戦死した曾祖父が長野県の出身という縁があり、小さい頃から毎年のように家族で安曇野に出掛けていました。
北アルプスをみると、「帰ってきたなぁ」と思って嬉しさに涙が出ます。北アルプスが遠くなっていくと、「ありがとう」「また来るね」と思って涙が出ます。景色も、水も空気も、この土地を愛して住んでいらっしゃる方々も素晴らしく、良い思い出の沢山詰まった大切な土地です。
この歌は、大町から安曇野の早春の情景を歌った歌で、1913(大正2年)年に発表された唱歌です。「日本の歌百選」にも選ばれています。
作詞をした吉丸一昌さんは、作詞はもちろん、文学や教育に深く携わった方で、作曲をした中田章さんは明治から昭和初期にかけて活動した日本の作曲家でありオルガニストです。童謡や日本歌曲で広く知られている中田喜直さんとご兄弟です。
この歌の情景は素晴らしいです。しかし、単に安曇野の早春の情景を歌ったものではないと、私は思います。
この歌の歌詞を知ったとき、真っ先に思い浮かんだのが伝道者の書の3章でした。
[伝道者の書 3:1]
“すべてのことには定まった時期があり、
天の下のすべての営みに時がある。”
[伝道者の書 3:11]
“神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。
しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。”
引用:聖書 新改訳2017
※3:11の青文字をクリックすると、なんとちょうど伝道者の書のこの箇所が出てきます。正に神業ですね。私はそんなこと全く考えていませんでした。
鶯は時を知っているかのように鳴くし、葦は時を知っているかのように芽を出します。鶯も葦も、神の秩序の中で生き、私たちもその恩恵の中で生きています。
でも、私たち人間は、完全な自由意思とことばを持っています。植物は予定を立てて遠くに出掛けて帰ってきたりしないし、動物は法律を作ったり通貨システムを作ったり投資をしたりはしません。
人間と動植物は、どちらが偉いという意味ではなく、明らかに違う存在です。
それ故、自分の感情だけで行動をしたり、自分の思った計画と違うからと不満や不安を抱きます。
そのような人間の性質を知った上で、時を吟味しているかのように得意な歌の歌い時を待つ鶯に、信仰と忍耐を持って神の時を待つご自身の心情を重ねたのでは…私にはそのように聴こえたのです。
自分や世界を超越した存在と、その愛と義を知り、その存在の願っている「時」を、自分の思いを脇に置いて、心を込めて信じて待つ…
この歌から感じる力強さは、ここにあるのではないでしょうか。
この動画をつくるに至った経緯の中に、たくさんの奇跡がありました(動画コメント欄に記載)。この曲と共に、この素晴らしい神の御業をのこして伝えたいという思いが与えられ、この動画を作成しました。
アップロードをした後も、神の演出がありました。動画説明欄に記載した、[伝道者の書の3:11]の青い字をタップすると、動画の3分11秒に飛びます。なんと、その聖書箇所を引用した画面が出てくるのです。全く考えていなかったし、こんな粋な演出を私が考えつくはずもないので、神が現してくださったんだと思います。
神の御業は本当に素晴らしく、自分の力でやったんじゃないんだと再確認できたことが嬉しかったです😊
この動画をつくるにあたり神が示してくださった素晴らしい御業の数々と共に、不安定で激動の時代において、これらのメッセージが多くの人の心に届きますように。