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 教育という。われわれの果たすべき教育の中心問題は、決して学校教育ではない。労働者階級をいかにして、社会主義革命の階級として自覚させるかということである。三千数百万から四千万に近い近代的労働者階級が、いかにして具体的にわが国の歴史を推進する階級として成長するか、ということである。マルクスは、教育もまた教育される、といった。労働者階級の教育活動の中で、社会主義的先進分子もまた教育され、成長しなければならぬ。
 青年マルクスがいったように、「・・・歴史は、世の中全体のために働いて、自分自身を気高くして行く人を、最大の人物となずけるのである。・・・われわれが最も多く人類のために働きうる地位を選んだとしたら、その人の肩にどんなに多くの重荷がかかっても、これで挫折するようなことは、決してあるまい。それは、すべての人のためにする犠牲に他ならないからである・・・」。自ら、「最大の人物」と名づけられる必要など微塵もない。自分の行為が、すべての人のためにする犠牲となることに、人として最高の生きがいがあるだろう。労働者階級の革命階級としての自覚のための教育活動が、現時代代における最高の教育である。われわれは、労働者者階級の社会主義社会の実現を通じて全人類のために働いているのである。少なくとも働こうとつとめているのである。レーニンがいうように、ここに政治が教育と結びついているのである。
 政治が教育とほんとうに結合するには、教育は労働者階級の階級的団結をつくり出さなければならない。そのためには、教育が労働者の職場と密接な関係において行われなければならない。生産点において、広い意味で労働者が働いている場所で、教育が意識的計画的に行われなければならない。この教育は、労働者階級の歴史的地位、その社会主義革命の階級としての意義を明らかにするために、行われるものである。教育は、労働者階級の階級闘争のモラルに、したがって、階級闘争の利益に従属するものでなければならない。
 しかし、階級闘争の利益とは、つねに、労働者階級の一般的な利益であって、ある労働者の、あるいはある労働者グループの利己的な利益のことではない。

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 私たちに、できるというのではない。しかし、それができるように努めることはできる。それは、口にすること、言葉に出すことは、必ず自分でも為すことである。その言葉に行動の裏づけがあることである。大言壮語することは、誰にもできる。しかし、その言葉に沿って行動することは多くの人にはできない。しかし、そのように勤めることは誰にでもできる。レーニンの言葉に迫力があるのは、その言葉の裏にその言葉のとおり行動しようという意志があるからである。
 マルクスが高等学校を卒業するとき書いた作文のなかに、こういう文句がある。
「しかし、地位を選択する場合にわれわれを導くべき主な道しるべは、人類の福祉ということとわれわれ自身の完成ということである。この二つの利害は、お互い敵対して闘うものであり、一方は他方を否定するはづのものであるというように考えるのは誤りであって、人間の天性は、その時代の完成と福祉のために、人間が働く場合にはじめて自己の完成をも達成することが出来るようになっているものである、と考えるのが正しい。
 もし人間が、自分のことだけを考えてことをなすならば、たとえ名のある学者、たいへん賢い人、すぐれた詩人ていどのものになることはできても、決して完成した、真に偉大な人間になることは出来まい。
 歴史は世の中全体のために働いて、自分自身を気高くしてゆく人を、最大の人物と名づけるのである。....われわれが最も多く人類のために働きうる地位を選んだとしたら、その人の肩にどんなに多くの重荷がかかっても、これで挫折するようなことは決してあるまい。それはすべての人々のためにする犠牲に外ならないからである。だから、われわれは、渇して貧弱な、狭小な、利己的な喜びをたのしみにするものではなく、われわれの幸福は、万人に属し、われわれの行為は、静かに、しかし永遠に生きることをやめず、そしてわれわれの灰は高貴な人間の熱い涙で濡らされるであろう」(マルクス「職業選択に当面する青年の考察」『マルクス・エンゲルス全集』第16巻、改造社版、14~15項)。
 マルクスのこの17歳のときの作文を、私は何か天才的傑作と思っているから、しばしば引用するわけではない。私はマルクスの生涯が、この若き日のマルクスの予言どおりであったことに、心を強くうたれるのである。自分の一生の終わりをどんな人間でも予言することは出来ない。人の一生は棺を覆うて後に定まる、といわれる。マルクスの一生は、自分でのべたように定まった。予言ではないが、予言であることになった。歴史がそのように定めたのである。 
 マルクスやエンゲルスにしても、レーニンにしても、深く考えて、歴史の発展を洞察した。そしてそれだけではない。率先してその方向に動いた。歴史は、与えられた条件にしたがって動くものではあるが、動いて行く者自体は、人間である。歴史は人間がつくるものである。
 人間には二つの大事なことが与えられている。歴史の流れを知ることと、この知ったことを忠実に行うことである。私は『資本論』をいろいろに解釈することも大事であると思う。しかし、『資本論』が論理的に命ずることを、恐れずに引き出し、これを馬鹿正直に行うことは、もっとも大事であると思う。むろん、われわれのような凡庸な人間に、『資本論』の命ずるところをことごとく、十全に行いうるものではない。しかし、先にのべたように、行うことに努めることはできる。行うように、おのれを鞭撻することはできる。教育とは、そのような人間をつくることであり、教育者はそのような人間でなければならない。             


 われわれの行為の焦点は、階級闘争である。それは単純なものから複雑なものまで、鋭角的なものから鈍角的なものまで、多岐な要素を含んでいる。今日の社会で、歴史を前進させる力は、階級闘争をおいて外にない。より高度の知識、より高い教養、より高い芸術、より高いモラル、それらいっさいのものを現実に生む条件と力は、階級闘争である。歴史的発展をつねに支えるからである。歴史的発展に立ちふさがる壁をけやぶる力であるからである。人類を、より高い段階に推し上げる力であるからである。
 したがつて、教育もまた階級闘争の一つの道具である。人口の0.4パーセントばかりの人間の、人間支配の存続のための教育と、人口の圧倒的多数、ことに労働者階級のための、その階級のたたかう力と、これを組織するための成長とに奉仕する教育とである。いいかえると、歴史的進歩の障害となる教育と歴史的発達を促進するための教育である。
 数学や化学は、いかなる社会にもなければならぬものである。われわれは、それを教えているというだろう。しかし、自然科学の符号が、どんな社会で用いられるかにしたがって、その役割をことにする。資本主義社会では、それらは人間の人間による搾取、人間の人間の上に及ぼす支配、人間を奴隷の境遇におとす「科学」となる。人間の自由を抑圧する道具として用いられる。
 ことに国家が独占資本主義の時代に、とくにおく面もなく、恥も外聞もなく、立ち現れはじめたことは、資本主義の存在が危うくなり、独占資本の競争が激烈となり、資本主義の矛盾が、資本の合理化として、労働者階級その他一般勤労大衆の窮乏化として作用して、社会主義革命の危険がさし迫ってくるにしたがって、つまり社会主義革命の主体的行動者の姿が巨人のように現れるにしたがって、あらゆる防衛の方法が講ぜられる。
 直接の弾圧の外に、多種多様のいわゆる思想攻撃が考案される。
 思想攻撃の道具を一般に「教育」と名づけてもよい。本来、教育は、つねに人間社会をより高く成長させるための、個性の全面的な発展のための手段であるはずである。このような歴史的使命を果たすためのものである。資本主義の成長過程で、封建的なものを破砕し、人類の進歩の血路を拓きつつあった時代には、教育は、よくその使命を果たした。しかし、帝国主義の時代、資本主義の最後、独占資本の支配する時代には、その没落を防衛するために、教育は、人類を進歩させるものから、進歩を抑圧するもの、人間の意志と精神を堕落させるものに転化した。
 芸術も道徳も、人間育成のものから、人間喪失のもの、人間陵辱のものに転化している。精神をいっさいの根源とする思想にもとづいて、人間を空ろなもの、肉欲的なもの、動物的なものに転化している。人間を尊崇し、引き上げるような格好をしながら、人間を侮辱し、ないがしろにしている。毎日の新聞、テレビ、週刊誌等々を見るがよい。
 汽車や電車のなかに、おびただしい新聞紙と週刊誌が、ちらかっている。読み捨てられて、紙屑と化している。しかし初めから紙屑以上のものであったか!初めから、人間を非人間にするために、出版されている。最新の最大の輪転機が、人間を馬鹿にするために、廻っている。厖大な、天を摩する建物が、人間の智慧を押しつぶすために、建てられている。芸術という名で、女性を動物にする詩や絵が描かれている。いっさいの工場や機械が、人間の血と肉とを吸い尽くすためにある。
 これらすべては、人間の智慧が生んだものである。それが資本の私有制のもとでは、人間を非人間にする役割を与えられる。文部省は、かって非人間の生産を、近代科学と科学技術のせいにした(「期待される人間像」)。もしこれが、ほんとうに、近代科学と科学技術の生むものであったとしたら、文部省は、「全共闘」の学生とともに、大学の建物を破壊し、研究室を廃墟にしなければならぬ。文部省は、何故「大学法」をつくらなければならぬか。今日の大学を資本の利潤のためにもたなければならぬからである。資本が、侍女を必要とする。資本の従順な人間材料を必要とする。資本主義は、むべなるかな、人間を人間資源とよぶ。意志を持つ人間でなく、物化した人間である。
 人間を物として取り扱う。人間は、窮極まで物として追いつめられた人間として、資本に報復をはじめた。あらゆる種類の非行である。あらゆる犯罪の激増である。殺人である。ブルジョアまたは小ブルジョア大学生の無目的な「ゲバ棒」である。大学生は、資本主義の破壊を社会一般の破壊と間違えている。大学生は、自分たちを非人間にした人間に対して、非人間として復讐している。大学生は、何を破壊すべきかを知らない。彼らを物化した資本主義社会を破壊する代わりに、安田講堂を、研究室を破壊した。資本の大学は、大学生に何を為すべきかを教えなかった。文部省は、今日の人間の破壊すべきもには、資本の支配する社会体制であることを教えようとしない。「全学共闘」派の大学生たちもこれを知ろうとしない。資本主義を破壊する力を持つものは、学生ではなく、生産点で働き、これを掌握することのできる労働者階級である。社会主義者の当面の努力は、学生が、真実に労働者階級に結びつくことに注がれなければならぬ。また、労働者階級に、社会主義社会の実現のためには、何を為すべきかを教えなければならない。すべての勤労大衆の中核として、独占資本を孤立化させる政治戦線を構築することである。

 

4 片端の人間にならないこと

 個性は、必ずしも、均衡をもって成長するものではない。しかし、全体として社会的進歩にどれだけ参加し、どれだけ協力したかが、その人の成長の度合いのはかりである。このことはすぐにはわからない。しかし、歴史はかならずこれを決定して、その人びとのあるべき歴史的地位をきめる。大洋に浮かぶ粟粒のようなわれわれの個性でも、歴史は、かならずあるべきところにおく。自分のことは自分ではよくわからない。自分では、どのようなことをして、どのように生きるかを、精一杯に考え、全力をあげて行う外にない。その成否と評価は歴史にまかせておけばよい。歴史はこれを必ず決定する。しかも正確に決定する。しかし、永い時間を必要とする。何十年何百年かかるばあいもある。それでは頼りないという人があるだろう。しかし、それは仕方がない。それより外に人間には自分の生涯の事業を、自分がなんのために生きたかを、測る方法はないのだから、仕方がない。
 いまたいへん偉い地位にあるような人、たいへんな人気をえている政治家、思想家、芸術家でも、歴史は永い間作業してそれぞれの歴史上の地位を決定する。どれだけ人間の歴史に貢献したかを正確に決定する。いまどんなにみじめな地位におかれている人でも、歴史が高い地位を与えなければならぬと思えば、ちょうど適当なところまで引き上げる。どんなに華やかな舞台でおどっている人でも、なんの容赦もなく、冷酷に引き下げる。
 たとえば学者の場合に、ある専門ですぐれていることは大事である。しかし、たんなる専門家は、じつはほんとうの専門家ではない。専門家で同時に、この専門を蔽う識見の広さをもっている人でないと、ほんとうの専門家にはなれない。自分の専門でお世話になった先生たちのことを考えてみると、やはり人間として立派な人、より広い識見をそなえていた先生に、いつまでも尊信の念を失わない。
 社会科学はもちろん自然科学も、それらの各部門がおたがいに関係なく孤立しているものではなく、相互に深く結びついているものである。というより自然界の現象の相互、社会の諸現象の相互、自然と社会の相互は、すべて統一され連続している全体をなしている。さらに、これら諸現象にかかわる科学と芸術、政治等等その他人間のなす一切の行為も、人間の歴史のなかに連続せる全体をなしている。それらのことがらは、各各ちがった特殊性をもちながら、しかも全体として人間の行為である。
 個人は、これらの全分野に専門家として通暁することはできない。しかし、政治しか知らない政治家、物理学しか知らない物理学者、絵をかくことしかできない画家、音楽しか知らない音楽家、経済学しか知らない経済学者等等の人びとの間には、話は通じない。人間としておたがいは片端である。人間としての片端が、ある専門についてすぐれた専門家になれるわけはない。自然と社会の全体が、相互に区別されながら統一されていることをわきまえた人間にして、つまりこのような世界観を身につけた専門家にして、専門家といわれる。相関係した全体のなかの専門であるからである。自然と社会の相互関係から孤立しては専門はないからである。つまり、人間をわきまえない専門家は、真の専門家になれないということである。逆にいうと、すべての専門は、1人の人間の成長と完成とのために役立たなければならない。しかし、またこれを卑俗に考えて、人間の完成などのお説教に堕すると、それは専門家でもなく、人間として成長もしないということである。一生を通じて学ぶことはあまり多きにすぎ、自分の成長は遅遅として進まない。これはいまさらいうまでもないことであるが、そのように勤めることが、人間の生涯というものであろう。どこまで全体としての人間になって死ぬかは、これを歴史にまかせる外はない。

5 夾雑物のない鉱石はない

 マルクスは「社会生活は本来実践的なものである」といっている。すべての科学、芸術が、社会生活のためにあるということである。したがって、本来科学も芸術も、、社会生活のなかに生きなければならない。それが実践というものである。これは、当然のことであるが、時として人が忘れている。元来科学も芸術も、人間の生活のなかから、豊富な経験のなかから生まれたものであるから、それが人間の生活とかけ離れることがおかしいのである。人生に生きないということがおかしい。しかし、人生にどう生かすかということは、そんなやさしいことではない。
 読書したり、原稿を書いたりして、さていっぷくというとき、煙草を吸わない私は、よく鋏を持ち出して、庭の木を剪定する。果物をいく本か植えているので、季節になると、たとえば桃の剪定をやる。誰に教わるわけでもないので、桃の剪定についてまず本を読む。そしてどのような枝をどのように切るかを頭に入れて、桃の木の前に立つ。ところが、実際に剪定しようとすると、さてどの枝をどこから切るかまったく判断ができない。もう一度本をひろげて読む。また木の前に立つ。またわからなくなる。といったようなことをくりかえしながら、曲がりなりにも剪定ができるようになる。初めは、剪定などしないで、自由放任しておくほうが、よほど桃は実をつける。桃をならせるにも、こんなものである。世の中にむずかしくないものなどは一つもない。やはり、理論は実践のなかでしかものにはならない。
 医学理論は、若いお医者さんにきくことにしているが、実際からだを診てもらうほうは、老練のお医者さんにする。すっきりした理論は、若いほうがてきぱきと説明してくれる。しかし、知識が生きて動くうちに、わからないことがいっぱいあることを知る。老練な人は、それを知っているから、病気をみても「割り切って」説明しない。
 社会主義運動でも、労働組合運動でも似たようなことがいえる。若い人びとは、すっきりした党やすっきりした組合指導を求める。今日の社会主義運動のなかにも、労働組合運動のなかにも、すっきりしないことが多すぎるから、若い純真な人びとが、すっきりした党や組合を求めるのにも充分の理由がある。しかし、すっきりした党や組合はすぐにでき上がるものではない。明治以来100年にわたってわれわれすべての日本人を教育したのは、支配階級の学校であり、著書であり、新聞雑誌であり、今日ではラジオ、テレビである。
 プロレタリアートを論ずる。しかし、純粋に理論的に論ずるプロレタリアートの歴史的任務を、なんの夾雑物なくたずさえているプロレタリアなどというものはいない。しかし、プロレタリアートの歴史的性質は、ブルジョワ階級の教育宣伝で蔽われがちながら、どんなプロレタリアのなかにも生きている。
 夾雑物のない鉄鉱石などというものはない。しかし、必ず鋼鉄をつくりだすことができる。鉄の性質と、どうして夾雑物を排除して鋼鉄をつくりだすかを教えるものは、われわれの鉄に関する理論である。夾雑物のなかにあるプロレタリアートの社会主義的精神が、どういう性質であり、これをどのように育てていくこと、つまり純化していくことができるかを教えるものは、理論である。
 理論がどうしてこのようなことができるか?理論もまた日常経験の集積に外ならないからである。ただの集積ではない。われわれが経験する事態の底に横たわっていて、どの事態にも共通に存する法則の理解である。あらゆる形で存する事態は、それぞれの特殊な性質を持っている。だから、この法則は、この特殊性によってゆがめられている。どの事態もこの法則で動いているが、しかし、それぞれの事態の特殊性で具体的な姿をとっている。
 だから、この法則を理解しないでは、その事態の本質はわからない。しかし、この法則を抽象的に理解しただけでは、あらゆる事態を具体的な姿で理解したことにはならない。この法則の理解、つまり理論を学ばなければ、社会主義運動にしても労働組合運動にしても、なぜこのような運動が存在し、また、このような運動は、どのような方向に動く歴史の流れのなかで、どのような地位を持っているものなのか、判断ができない。これは日常の事態をみただけではわからない。つまり、歴史の法則を理解しないではわからない。今日の歴史は、すべてこの法則にしたがって流れているのだから、われわれの前に新たに生起する事態と、この法則を知らないでは理解できない。したがってまたこの新しい事態に正しく対処する方法もわからない。

6 歴史的法則を担うこと

 歴史の法則は、かならず自己を貫く。これを押しとどめようと努力する人間を、さいごにはかならず排除して、自分を貫徹していく。資本主義を永遠ならしめようという努力は、一時成功するように見えても、歴史の法則の前に無力であることを必ず証明して、みじめに敗北する。このことを歴史は証明している。
 われわれが個性として成長するということも、じつは、この歴史的法則にどのようにわれわれが対処して生きるかということと離すことのできない関係にある。歴史は、いわゆる立身出世を必ずしも高く評価しない。歴史は、大臣や社長や国会議員になることを、必ずしも尊いとはしない。人びとが歴史の流れのなかでどう生きたかによってのみ評価する。だから、そこら辺の大臣や社長は、まもなく忘却の中に消えるが、あのように貧乏したマルクスの姿は、歴史の発展とともに、ますます大きくなり、地球を蔽うている。マルクスは、あのような貧困と苦労の中で、心の貧乏をすることがなかった。歴史の流れのなかで、先頭をきって泳いでいるという確信を持ったからである。この確信が貧困のなかで心のゆたかさを生んだのである。必然の法則を学び取り、自分の意志でこれにしたがうことが、歴史をつくることである。人間の自由のたのしさは、歴史的法則にしたがって行動している、という確信から生まれる。自然と社会の法則にしたがわないで、人間には正しく生きる方法はない。
 心のゆたかさ、人生の喜びは、歴史を背負っているという確信からのみ生まれる。だから、真の社会主義者は、楽天的である。どんな貧乏、どんな抑圧のなかでも、いまにみておれ、おれの考えの正しいことがわかる、という確信は、歴史的法則の確乎たる認識からしか生まれない。こんな意味でも、人間は社会的動物なのである。社会のなかでしか正しさは実証されない。だから、歴史的法則に対する確信は、態度の正しさの確信なのである。社会主義者が楽天的な所以である。人間の成長というのは、くそまじめで、卑俗的な倫理観で、つっつかれた田螺のようにちじこまっている人間になることを意味してはいない。おおらかで、何を見ても何を経験してものびのびとたのしくなることである。歴史を背負っているという確信が強ければ強いほど、万物がたのしい存在になる。ことに歴史の流れをせきとめるためにするあらゆる妨害とたたかう苦労のなかに、つきないたのしみの泉を発見する。マルクスが、「強さ」と「ひたむき」と「たたかうこと」のなかに、幸福とたのしみと倫理とを見出しているのは、このようにして、よく理解できる。
 歴史的発展の法則を理解することが、学ぶことの中心の課題であるといっても、これを実際の生活のなかに生かすことができなければ、われわれの成長はない。社会生活は本来実践的であるからである。人間自身が歴史をつくらなければならない。しかし、勝手気ままにつくるのではなくして、そのとき与えられた歴史的条件にしたがってしかつくれない。この条件が、一定の時代の歴史の流れを決定する。歴史的法則は、この条件で定められた流れの方向を定めるということができる。
 日常の経験をこの法則で理解し、このなかで対処する自分の態度をきめるということは、そんなにやさしいものではない。われわれ自身が誤りをおかす人間であり、日常の経験は、法則を包んだ複雑多岐の性格のものであるからである。だから、われわれは誤りをおかしながらしか進歩しないものである。レーニンは誤りをおかさない人間は、何もしない人間でしかない、という意味の言葉を述べている。これはわれわれのやった誤りを、正当化する言葉にしてはいけないが、私のような平凡な人間は、誤りをおかすことを恐れていたら、何もしなかったにちがいない。自分の67年の生涯を顧みて、なんという誤りの集積であろうか、と思う。しかし、そのなかにも、少しずつは成長したように考えられる。
 桃の選定の事を考えてみても、本で理解した剪定の理論が、実践に生きるためには、いく度か、桃が花と実をつけないような失敗をしている。しかし、いく度かの失敗のあとに、桃が美しい花をつけることに成功した。白桃の味を味わうこともできた。誤りをおかすことを恐れて、本を読んだだけで実行しなかったら、この花と実は生まれなかった。桃の木も枯れたかもしれない。私は、学ぶということを考えるとき、いつもこの自分の例を思い出す。本を読んで理論をおぼえただけでは何の意味のない。
 歴史をつくることもそのとおりである。消極的受動的であっては何も学ぶことにならない。学ぶということはたたかうことである。対象につかみかかることである。寒鮒のようにつめたい水の中で餌が流れてくるのを、じっとまっていて、口もとにきたときぱくりと口をあけて食うというようなやり方では、学ぶことはできない。自然と社会のあらゆる対象に向かってたたかいを挑むことである。静かなるたたかいもあれば、きわめて烈しいたたかいもある。独り静かに本を読み、考えをこらしていることは、いわば自然と社会にいどみかかる闘争の準備段階である。真実に社会を知るということは、社会に生きるということである。学ぶということは、知識が、個人となって社会の中で動くということである。知識をただ暗記することではない。学ぶということは、学んで行うことである。