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 私は、こんな大きな題をかかげたが、いまここでこれを解決しようという大それた志望をもっているわけではない。私が各地の社会党の支部や労働組合にではいりしている間に、またその「学習活動」に参加しているうちに、感じたことを述べるだけである。羊頭をかかげて狗肉を売るのそしりは免れないかもしれないが、しばしこれで我慢していただきたい。
 労働組合をまわっても、各地区の社会党をまわっても、きわめて広い意味に考えた「学習活動」がまことに不足していることを考える。そして、時とすると、その不足をすら感じていないほど低調であることがある。勿論私は、長時間労働による疲労や低賃金を考えないで言っているわけではない。そのようなことを考慮に入れても、やれることをやっていないということである。その原因の一つは労働組合や社会党支部の幹部が、学習の必要をまだまだ切実には感じていないということにある。
 それでも労働の社会科学的な知識はずい分進んできた。進んだ組合では「おや!」と思うほど高いのを感ずることがある。社会科学の理論は、まだ頭にはいりやすい。論理の問題だからである。しかし、論理が実践となって動くには、人間が土台である。頭だけでなく、全身の人間である。考えるだけでなく感じ、分析するだけでなく、行動において総合する人間である。すべての芸術は、この人間をつくり上げるのに寄与するはずである。社会党や労働組合では、このことが極めて不充分に考えられている。ここでは、多くの場合、文学も絵画も劇も映画も、すべてただ「娯楽」として取扱われているにすぎない。
 娯楽が悪いというのではない。碁、将棋、マージャン、パチンコだって、人の性格をつくるのに、その行動の一要素となるのに寄与しないというのではない。ただ、皮膚の上をなでる程度の寄与は、芸術の血肉となる程度の寄与と雲泥の差があるというだけのことである。文学といい劇と名づけるから、それは芸術であるわけではない。だから、これを「娯楽」として取扱う精神からは、「娯楽」にすぎない文学や劇や絵画が選ばれる。ここからは、人々の生涯に深い永続的感激を残すものは除外される。
 労働者が面白がりさえすればいいではないか、という議論がある。しかし、その日本の労働者を百年の間教育してきたものは何かというと、主として封建的なものを混入し、ブルジョア社会に適応するように馴合させられたイデオロギーである。労働者は、決して本来労働者があるように教育されてきたわけではない。人類の歴史的発展が、一定の時代に、近代的労働者階級というものを生んだ、そして、これに一定の歴史的性質と、したがって社会主義社会を創造する歴史的に果たすべき使命と果たしうる力とを与えた。それは偶然にそうなったのではなく、歴史がそうせざるを得ない地位においたのである。ここから近代的労働者階級の歴史的な階級的な性質が生まれるのである。しかし、この本来の性質は、そのまま表面にあらわれているのではない。労働者は、資本主義社会の胎内にある。資本家社会の資本家に奉仕する教育にいく重にも包まれている。この皮を一枚一枚はいで行くことが、社会主義者の文化活動である。

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 労働者が今日の社会でそのまま身につけている教養は、資本家に仕えるようにつくり上げるためのものである。それは極めて複雑な形をしており、あらゆる種別のものであるが、すべて、人間を資本家社会用に変色させるようにできている。だから、ありのままの労働者が、今考え、感じることは、労働者のもちうる本来の姿からは遠いものである。労働者だから労働者的に考えるとは限らない。資本家社会的に考える労働者が、今日でもどんなに多いことか!資本家社会は労働者をそう育てるのである。
 社会主義者の仕事は、それが政治家であれ、思想家であれ、芸術家であれ、この本来の労働者の芽を発見し、成長させ、彼ら自身の歴史的な使命を達成させることである。彼ら自身の本来の階級意識をあるべき模様に織り成すことである。
 労働者は、初めは資本家社会におけるその社会的地位、その低い生活水準、その低い文化をどうにもできない宿命として受け取っていた。だから、彼等は、浪花節や股旅ものの愛好者であった。自分自身にできない夢を、ある強い人間によって実現させるのである。こうして彼は、しばし現実を忘れるのである。彼らの自主的精神とその組織的行動力に対する自信が、彼等の胸に宿るまでは、チャンバラ映画のファンであるだろう。
 私は、先頃私の学生の頃、日本の社会主義運動に活動し、その勇敢さに目を見張った老いたるアナーキストたちと会い、話す機会があって興味深かった。その素朴な人柄に好感が持てぬわけではなかったが、同時に、これでは近代的社会主義運動にはならなかったであろうことを思った。その行動を貫いたものは、浪花節的英雄主義であった。それは、個人主義的な小市民的反逆であるにすぎない。そして、この浪花節精神は、今後も、労働者階級の組織が強化されて、組織された活動と組織された社会に生活するモラルが確立されるまでは、時折現れて労働者階級の運動を阻害するであろう。
 したがって、労働者階級の組織的ソリダリティの精神が、現実における組織活動と共に成長するにしたがって、アナーキストの浪花節的英雄主義が凋落していったのは当然であり、かの時代に活躍した「英雄」たちが、運動から脱落して行ったのも、また自然の成行きであった。

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 明治時代、大正初期の社会主義運動は、いわば日本の労働運動の神話時代である。運動者は、「大衆」について語ったが、その「大衆」は現実には山の彼方にあって、大衆的な組織に掌握されていなかった。社会的条件はすでに存在していたから、「大衆に」について語ることはできたが、猛烈な弾圧は、運動が大衆的に伸長することを妨げていた。したがって、運動は多かれ少なかれ悲壮な様相を呈した。運動者は勇敢であったにちがいないが、彼等の決死の突撃も資本主義そのものの根幹にふれるものではなく、資本主義はびくともしなかった。戦前の運動の物語は、確かに壮絶ではある。したがって、浪花節的英雄主義の温床ともなっている。
 私は、今日社会主義運動から脱落している古い闘士の語るのをきいていると、日本の歴史条件の生んだよさと悪さを目の当たりに見るような気がする。この人達が、しばし捨て去った過去の情熱を追って語るのは、「国定忠治」かなにかにききほれていでもするかのように見える。この人々が、浪花節だけを運動と思い込んで、今日の成長しつつある若き運動者のやり方に無理な非難をはじめると、そこに、古き運動者の限界が見える。この人々はその浪花節的精神がどんなに、日本の社会主義運動を妨げていたかを知ることができないのである。彼等が何故運動から脱落しなければならなかったかすら、反省することができないのである。今日の社会主義的文化運動の最大の目標は、労働者に対して浪花節的精神に代わるべき組織と計画的、意識的行動の精神を与えることになければならない。労働者運動において浪花節精神は、時として労働者階級の社会変革を否定する無力感の上に改良主義となって現れ、時として、少数精鋭によってのみ社会変革が可能だと考えるブランキスト的英雄主義となって現れる。浪花節精神は、このように社会主義運動の右翼抵抗主義と極左的な冒険主義として、今日なお活動している。
 近代労働者階級の本質的な生活感情と知識とモラルは、資本主義が生み出した大規模な近代的大産業の組織性と計画性とによって資本主義の教育をはねのけて育っている。彼等の日常生活は、この近代産業の発展の中で行われているからである。ところが近代産業の所有形態は、その発展を、労働者階級の不安定な生活の発展として遂行する外ないという矛盾を含んでいる。だから、社会主義的文化運動は、この矛盾を明らかにして、これをテコとして、近代労働者階級の組織と計画性の精神を引用し、これを充分に展開することであるに外ならない。そして、この仕事は、先ず、労働者の本来の意識の発展の障害となっている浪花節精神との闘いから始められなければならない。私が労働組合や社会党について、話をすると、しばしばその不準純さやだらしなさや、彼等のおかす過ちについて非難をきく。この非難者たちは、多くは労働者が普通の人間であることを忘れている。労働運動が、このような事情のもとにすべての人並みの弱点を持った人間によって行われることを忘れている。労働運動は現実にないクリストや孔子やお釈迦様が行う運動ではない。だからこそ文化運動の必要がある。労働者自身も、このような個人としての弱点に絶望して、自分たちの運動に消極的なまたはニヒリスト的な態度におちいることがある。
 日本資本主義はおくれた発達をした。したがつて、西欧の文化がとったような個人としての人間の分析を、冷静にあくことなく追究する時代を、短かく、しかも早急に乗り越えてしまったという事情をもっている。個人の文学的分析は、とくに日本の労働者にとって必要であるかもしれない。そうでないと強靭な個人は生まれない。そうしないと社会主義運動を浪花節的にしか理解できなくなる。
 私自身の経験から言うと、あくせくし、僅かの金銭や痴情にひきまわされる個人の姿を、自然主義の文学を沈読することで学んだのは大変よかったことのように思う。しかし、労働者に対して、いまさら自然主義の文学を推奨すべしというのでないこというまでもない。どういう文学を、どういう絵画、どういう映画を、ということは、社会主義者の大きな関心でなければならない。われわれの『社会主義文学』の任務の大なることを思う。