4 片端の人間にならないこと

 個性は、必ずしも、均衡をもって成長するものではない。しかし、全体として社会的進歩にどれだけ参加し、どれだけ協力したかが、その人の成長の度合いのはかりである。このことはすぐにはわからない。しかし、歴史はかならずこれを決定して、その人びとのあるべき歴史的地位をきめる。大洋に浮かぶ粟粒のようなわれわれの個性でも、歴史は、かならずあるべきところにおく。自分のことは自分ではよくわからない。自分では、どのようなことをして、どのように生きるかを、精一杯に考え、全力をあげて行う外にない。その成否と評価は歴史にまかせておけばよい。歴史はこれを必ず決定する。しかも正確に決定する。しかし、永い時間を必要とする。何十年何百年かかるばあいもある。それでは頼りないという人があるだろう。しかし、それは仕方がない。それより外に人間には自分の生涯の事業を、自分がなんのために生きたかを、測る方法はないのだから、仕方がない。
 いまたいへん偉い地位にあるような人、たいへんな人気をえている政治家、思想家、芸術家でも、歴史は永い間作業してそれぞれの歴史上の地位を決定する。どれだけ人間の歴史に貢献したかを正確に決定する。いまどんなにみじめな地位におかれている人でも、歴史が高い地位を与えなければならぬと思えば、ちょうど適当なところまで引き上げる。どんなに華やかな舞台でおどっている人でも、なんの容赦もなく、冷酷に引き下げる。
 たとえば学者の場合に、ある専門ですぐれていることは大事である。しかし、たんなる専門家は、じつはほんとうの専門家ではない。専門家で同時に、この専門を蔽う識見の広さをもっている人でないと、ほんとうの専門家にはなれない。自分の専門でお世話になった先生たちのことを考えてみると、やはり人間として立派な人、より広い識見をそなえていた先生に、いつまでも尊信の念を失わない。
 社会科学はもちろん自然科学も、それらの各部門がおたがいに関係なく孤立しているものではなく、相互に深く結びついているものである。というより自然界の現象の相互、社会の諸現象の相互、自然と社会の相互は、すべて統一され連続している全体をなしている。さらに、これら諸現象にかかわる科学と芸術、政治等等その他人間のなす一切の行為も、人間の歴史のなかに連続せる全体をなしている。それらのことがらは、各各ちがった特殊性をもちながら、しかも全体として人間の行為である。
 個人は、これらの全分野に専門家として通暁することはできない。しかし、政治しか知らない政治家、物理学しか知らない物理学者、絵をかくことしかできない画家、音楽しか知らない音楽家、経済学しか知らない経済学者等等の人びとの間には、話は通じない。人間としておたがいは片端である。人間としての片端が、ある専門についてすぐれた専門家になれるわけはない。自然と社会の全体が、相互に区別されながら統一されていることをわきまえた人間にして、つまりこのような世界観を身につけた専門家にして、専門家といわれる。相関係した全体のなかの専門であるからである。自然と社会の相互関係から孤立しては専門はないからである。つまり、人間をわきまえない専門家は、真の専門家になれないということである。逆にいうと、すべての専門は、1人の人間の成長と完成とのために役立たなければならない。しかし、またこれを卑俗に考えて、人間の完成などのお説教に堕すると、それは専門家でもなく、人間として成長もしないということである。一生を通じて学ぶことはあまり多きにすぎ、自分の成長は遅遅として進まない。これはいまさらいうまでもないことであるが、そのように勤めることが、人間の生涯というものであろう。どこまで全体としての人間になって死ぬかは、これを歴史にまかせる外はない。

5 夾雑物のない鉱石はない

 マルクスは「社会生活は本来実践的なものである」といっている。すべての科学、芸術が、社会生活のためにあるということである。したがって、本来科学も芸術も、、社会生活のなかに生きなければならない。それが実践というものである。これは、当然のことであるが、時として人が忘れている。元来科学も芸術も、人間の生活のなかから、豊富な経験のなかから生まれたものであるから、それが人間の生活とかけ離れることがおかしいのである。人生に生きないということがおかしい。しかし、人生にどう生かすかということは、そんなやさしいことではない。
 読書したり、原稿を書いたりして、さていっぷくというとき、煙草を吸わない私は、よく鋏を持ち出して、庭の木を剪定する。果物をいく本か植えているので、季節になると、たとえば桃の剪定をやる。誰に教わるわけでもないので、桃の剪定についてまず本を読む。そしてどのような枝をどのように切るかを頭に入れて、桃の木の前に立つ。ところが、実際に剪定しようとすると、さてどの枝をどこから切るかまったく判断ができない。もう一度本をひろげて読む。また木の前に立つ。またわからなくなる。といったようなことをくりかえしながら、曲がりなりにも剪定ができるようになる。初めは、剪定などしないで、自由放任しておくほうが、よほど桃は実をつける。桃をならせるにも、こんなものである。世の中にむずかしくないものなどは一つもない。やはり、理論は実践のなかでしかものにはならない。
 医学理論は、若いお医者さんにきくことにしているが、実際からだを診てもらうほうは、老練のお医者さんにする。すっきりした理論は、若いほうがてきぱきと説明してくれる。しかし、知識が生きて動くうちに、わからないことがいっぱいあることを知る。老練な人は、それを知っているから、病気をみても「割り切って」説明しない。
 社会主義運動でも、労働組合運動でも似たようなことがいえる。若い人びとは、すっきりした党やすっきりした組合指導を求める。今日の社会主義運動のなかにも、労働組合運動のなかにも、すっきりしないことが多すぎるから、若い純真な人びとが、すっきりした党や組合を求めるのにも充分の理由がある。しかし、すっきりした党や組合はすぐにでき上がるものではない。明治以来100年にわたってわれわれすべての日本人を教育したのは、支配階級の学校であり、著書であり、新聞雑誌であり、今日ではラジオ、テレビである。
 プロレタリアートを論ずる。しかし、純粋に理論的に論ずるプロレタリアートの歴史的任務を、なんの夾雑物なくたずさえているプロレタリアなどというものはいない。しかし、プロレタリアートの歴史的性質は、ブルジョワ階級の教育宣伝で蔽われがちながら、どんなプロレタリアのなかにも生きている。
 夾雑物のない鉄鉱石などというものはない。しかし、必ず鋼鉄をつくりだすことができる。鉄の性質と、どうして夾雑物を排除して鋼鉄をつくりだすかを教えるものは、われわれの鉄に関する理論である。夾雑物のなかにあるプロレタリアートの社会主義的精神が、どういう性質であり、これをどのように育てていくこと、つまり純化していくことができるかを教えるものは、理論である。
 理論がどうしてこのようなことができるか?理論もまた日常経験の集積に外ならないからである。ただの集積ではない。われわれが経験する事態の底に横たわっていて、どの事態にも共通に存する法則の理解である。あらゆる形で存する事態は、それぞれの特殊な性質を持っている。だから、この法則は、この特殊性によってゆがめられている。どの事態もこの法則で動いているが、しかし、それぞれの事態の特殊性で具体的な姿をとっている。
 だから、この法則を理解しないでは、その事態の本質はわからない。しかし、この法則を抽象的に理解しただけでは、あらゆる事態を具体的な姿で理解したことにはならない。この法則の理解、つまり理論を学ばなければ、社会主義運動にしても労働組合運動にしても、なぜこのような運動が存在し、また、このような運動は、どのような方向に動く歴史の流れのなかで、どのような地位を持っているものなのか、判断ができない。これは日常の事態をみただけではわからない。つまり、歴史の法則を理解しないではわからない。今日の歴史は、すべてこの法則にしたがって流れているのだから、われわれの前に新たに生起する事態と、この法則を知らないでは理解できない。したがってまたこの新しい事態に正しく対処する方法もわからない。

6 歴史的法則を担うこと

 歴史の法則は、かならず自己を貫く。これを押しとどめようと努力する人間を、さいごにはかならず排除して、自分を貫徹していく。資本主義を永遠ならしめようという努力は、一時成功するように見えても、歴史の法則の前に無力であることを必ず証明して、みじめに敗北する。このことを歴史は証明している。
 われわれが個性として成長するということも、じつは、この歴史的法則にどのようにわれわれが対処して生きるかということと離すことのできない関係にある。歴史は、いわゆる立身出世を必ずしも高く評価しない。歴史は、大臣や社長や国会議員になることを、必ずしも尊いとはしない。人びとが歴史の流れのなかでどう生きたかによってのみ評価する。だから、そこら辺の大臣や社長は、まもなく忘却の中に消えるが、あのように貧乏したマルクスの姿は、歴史の発展とともに、ますます大きくなり、地球を蔽うている。マルクスは、あのような貧困と苦労の中で、心の貧乏をすることがなかった。歴史の流れのなかで、先頭をきって泳いでいるという確信を持ったからである。この確信が貧困のなかで心のゆたかさを生んだのである。必然の法則を学び取り、自分の意志でこれにしたがうことが、歴史をつくることである。人間の自由のたのしさは、歴史的法則にしたがって行動している、という確信から生まれる。自然と社会の法則にしたがわないで、人間には正しく生きる方法はない。
 心のゆたかさ、人生の喜びは、歴史を背負っているという確信からのみ生まれる。だから、真の社会主義者は、楽天的である。どんな貧乏、どんな抑圧のなかでも、いまにみておれ、おれの考えの正しいことがわかる、という確信は、歴史的法則の確乎たる認識からしか生まれない。こんな意味でも、人間は社会的動物なのである。社会のなかでしか正しさは実証されない。だから、歴史的法則に対する確信は、態度の正しさの確信なのである。社会主義者が楽天的な所以である。人間の成長というのは、くそまじめで、卑俗的な倫理観で、つっつかれた田螺のようにちじこまっている人間になることを意味してはいない。おおらかで、何を見ても何を経験してものびのびとたのしくなることである。歴史を背負っているという確信が強ければ強いほど、万物がたのしい存在になる。ことに歴史の流れをせきとめるためにするあらゆる妨害とたたかう苦労のなかに、つきないたのしみの泉を発見する。マルクスが、「強さ」と「ひたむき」と「たたかうこと」のなかに、幸福とたのしみと倫理とを見出しているのは、このようにして、よく理解できる。
 歴史的発展の法則を理解することが、学ぶことの中心の課題であるといっても、これを実際の生活のなかに生かすことができなければ、われわれの成長はない。社会生活は本来実践的であるからである。人間自身が歴史をつくらなければならない。しかし、勝手気ままにつくるのではなくして、そのとき与えられた歴史的条件にしたがってしかつくれない。この条件が、一定の時代の歴史の流れを決定する。歴史的法則は、この条件で定められた流れの方向を定めるということができる。
 日常の経験をこの法則で理解し、このなかで対処する自分の態度をきめるということは、そんなにやさしいものではない。われわれ自身が誤りをおかす人間であり、日常の経験は、法則を包んだ複雑多岐の性格のものであるからである。だから、われわれは誤りをおかしながらしか進歩しないものである。レーニンは誤りをおかさない人間は、何もしない人間でしかない、という意味の言葉を述べている。これはわれわれのやった誤りを、正当化する言葉にしてはいけないが、私のような平凡な人間は、誤りをおかすことを恐れていたら、何もしなかったにちがいない。自分の67年の生涯を顧みて、なんという誤りの集積であろうか、と思う。しかし、そのなかにも、少しずつは成長したように考えられる。
 桃の選定の事を考えてみても、本で理解した剪定の理論が、実践に生きるためには、いく度か、桃が花と実をつけないような失敗をしている。しかし、いく度かの失敗のあとに、桃が美しい花をつけることに成功した。白桃の味を味わうこともできた。誤りをおかすことを恐れて、本を読んだだけで実行しなかったら、この花と実は生まれなかった。桃の木も枯れたかもしれない。私は、学ぶということを考えるとき、いつもこの自分の例を思い出す。本を読んで理論をおぼえただけでは何の意味のない。
 歴史をつくることもそのとおりである。消極的受動的であっては何も学ぶことにならない。学ぶということはたたかうことである。対象につかみかかることである。寒鮒のようにつめたい水の中で餌が流れてくるのを、じっとまっていて、口もとにきたときぱくりと口をあけて食うというようなやり方では、学ぶことはできない。自然と社会のあらゆる対象に向かってたたかいを挑むことである。静かなるたたかいもあれば、きわめて烈しいたたかいもある。独り静かに本を読み、考えをこらしていることは、いわば自然と社会にいどみかかる闘争の準備段階である。真実に社会を知るということは、社会に生きるということである。学ぶということは、知識が、個人となって社会の中で動くということである。知識をただ暗記することではない。学ぶということは、学んで行うことである。