昨年の夏二日ほど比叡山ですごす機会があった。ある労働組合の学習会で、これに私も参加したからである。自由な時間に、私は、よく山内を散歩した。おりから雨季に当たっていて、比叡のやまは雨に煙っていた。しかし、歩くのは楽しかった。ことに、二百年から四百年は生きてきたらしい杉が、亭々と天を摩して、まっすぐにのびている様は、口に出して言えぬ快さを感じさせるものであった。立ち並ぶ杉の巨木は、まことに美しい姿である。社会の理想は、すべての人々が太く強く真直にそびえ立つことなのだと、教えているようにもみえる。
 人間は自然の最高の産物である。しかし、この最高の産物が、時として最低の産物よりもひねくれて育つことがある。幼稚園にはいる時から「賢母」に訓練され、小学校にあがると一番になる競争を強いられ、中学校、高等学校と秀才の名を高め、父母の誇りの的となり、他人にはほめそやされ、大学は、いうまでもなく、一流の秀才大学を出て、そして大会社にはいって、いわゆる出世コースを泳ぐことになる。
 子供のときから一番になるために、他人を蹴落とすことばかり考え、勉強しない鈍才どもを小馬鹿にすることを覚え、秀才の誉れ高く、誉められる経験しかなく、お追従ばかり聴くものだから、虚栄心を鼻の先にぶら下げた、悪口に弱い、思い上がりのちっぽけな青白い男ができる上がる。外面はスマートだが、内心はやぼったい俗物根性に充満している。充満しているといいたいが、実は俗物根性にも徹し切れないのである。これを外面的な取りつくろったスマートなポーズが妨げている。何事にも不徹底な、したがって、無責任な男である。
 他人のこと、社会のことを考えていられない。会社や役所の事務などは、手際よくやってのけられる。学問や社会主義運動などというソロバンにのらぬものは、一生の仕事にはしていられない。「マルクシズムは、確かに一面の真理を伝えているが、世の中は複雑なのだから、その思想だけで押して行くわけにはいかない」というのが、この秀才たちの言い分である。
 秀才たちが、時として私の「資本論」研究会にまぎれこんでくることがある。彼らは、『資本論』の理解は、きわめて早い。一節を報告させて見るときわめてスマートにまとめてくる。一応には予想しうる質問にも、ちゃんと返答できる準備がしてある。まさに幼稚園から試験の答案を書くことに、もっぱら訓練された腕前である。勉強もよくしてくるし、言うことは気が利いているし、批判的精神もあるし、どんな立派な若きマルクシストができ上るかとたのしみにしていると、卒業期が近くなると、世の中は複雑であるという例の「理論」である。いろいろの思想を勉強して見たいという。もっともな言い分である。
 マルクシズムが、ギリシア以来の思想的潮流の正系の嫡子である、というようなことの根本的な理解はできていない。研究会での立派な報告は、いうまでもなく形のととのったものであったが、皮膚の下に理解のメスを入れることは、つねに秀才になる障害であったのである。
 秀才たちが、私どもの研究会に訣別して行くときに述べる言葉は、いろいろの言い方はあるにしても、大同小異で例の「論理」である。私は、そんなとき、
 「秀才に育てられた諸君が、『出世』がしたくなる、一流会社や一流役所の局長や部長になりたくなる。私が、それをどうしていけないなどというか。私はは、他人に生涯のコースを押しつけうるほど『偉い』人間とは思っていないし、またそういうことをしてもいいとも思っていない。ただ、諸君の言い分が気にくわんのだ。諸君は、なぜ、私は一生マルクシストとして行きぬくなどということは、もともと不安でできません、私は、やはり出世がしたいのです、平安な家庭を可愛い恋人とつくりたいのです、と言わない?それでよかろうじゃないか。私にそれでいけないとどうしていえる?その出世が、墓場に入る前にどんなちっぽけなものであるかを発見しても、また、果たしてその道で家庭の平安がえられるかどうか問題であるにしても、また、自分の家庭の平安だけを考えるという状態が、自分と自分の子孫、社会全体の人びとの家庭の平安、したがってまた自分の家庭の平安を、つねに脅かすものではないか、という問題があるにしても、私にいまのところこれしかできません。他人のことを、社会のことなど考えてはいられません、というのも、諸君の生き方であるとすれば、それを私にとやかく言う権利はない。なぜ諸君は、正直に自分の気持をいって、後味よく別れていかないのか、嘘の気持ちで別れると、人間はやっぱり正直なものだから、将来、僕とどこかで会ったようなとき、知らん顔をしなければならなくなる。僕は、数年もの間毎週一回は会っていた人びとが、僕を見て、こそこそと知らん顔でかくれるというようなことは 好きでない」
 こんなことを、言うことがある。

こういう人間もある。大学を出て関西のあるあまり大きくない工場の工場長をしている。彼は、学生時代からときどき私の所にやってきた。しばらく来なかったが、一昨年ぐらいに久しぶりでやってきた。 
「出張かい」ときたら、「いや、一年くらい東京にいるんですよ」という。
 なんのためだときたら、日経連で勉強しているのだという。
「へえ、第二組合つくりの勉強かい」といったら、「いや、そうでもないですがね、いまは団体交渉の実習ですよ」といって笑った。
 この男は、なまじっかマルクシズムの勉強などしていないから、私の前できわめてほがらかである。ときどきつまらん事を言って、私にこっぴどくやっつけられるが、その次には平気で遊びにやってくる。なかなか面白い話もしていく。
 あるとき、電話をかけてきて、今から友人を一人連れて行くがいいか、という。
いいという返事をしたら、二人でやってきた。ちょうど軽い神経痛で肩のところが少し痛かったので寝ながら話をした。彼の紹介によると、連れの人は、ある証券会社の支店長だという。私が株など買わぬ男だと知っているのに不思議な男をつれてきたものだと思ったが、世間話をしていた。そのうちに株屋さんが、「実は先生に紹介状を一枚いただきたいのですが」という。「誰にです」といったら、総評の「偉い人」にご紹介願いたいという。「なんのために会うのです。あなたの会社の組合を総評加盟にでもしようというのですか」と笑ったら、彼はおおまじめで、「総評には年々組合費が沢山はいるでしょう。それを労働金庫にねかしておかれるより、私どもに運用させていただくと、うんと増やしてさし上げますから、闘争資金も潤沢になると存じます。そんなことをおすすめいたししたいと思いますので、先生に紹介状をいただきたいのです」といった。
 私は起きなおって言下に、
「そんな用だったら、二人ともすぐ帰ってくれ。労働者の血と汗ににじんだお金をそんな馬鹿な、無責任なことに使えると思うのか。すぐ帰ってくれ」
 とどなりつけた。二人は、それでは、話はいたしません、といって、それから一時間ほど無駄話をして帰った。帰った後、しばらくは、この人達のドン・キホーテのような向こう見ずと、たくましい商魂と、丸太のような神経に感心していた。二人とも一流大学を出たのだが、やはり、訓練というか、大学で勉強しなかったことだけはたしかなようだが。
 秀才たちがいやがるのは、マルクシズムを勉強すればするほど、彼らの胃の腑の中に違和感が大きくなってくることである。彼らがどうしても消化できず、調和できないのは、マルクシズムの論理が要求する「実践」という要素である。神経の細い秀才には、この「実践」も、自分の性格や「家庭の事情」で、できるだけのことをして、できないところを「あやまる」というような正直に自分をさらけ出すことはできない。これには多少とも図太さを必要とする。こんなものは、お母さんの手厚い保護と教育のおかげで、もちあわせていない。真実から顔をそむけるほかはない。このようにして人間を喪失した一流官僚や一流会社員ができる。こおいうのと会ってごらんなさい。十分ぐらい話をしていると退屈になる。
 私は、これまでの自分の生涯を振り返って、いたづらに悔いのみ多いことを感ずるのであるが、ただ、もの心がついてから、馬鹿の一つ覚えのように一本の道を歩きつづけてきたことだけは、たのしい。そして、子供にお説教することのできなかった、子供に進むべき道を指図することのできなかった、ただ、子供の成長をおろおろしながら見守る外に術をもたなかった、小学校を出ただけの無知な母親をもったことに、少しの悔いもない。いな、むしろそれは私のもっとも楽しい想い出となっている。
 私は、京都で人工の極致ともいうべき中世の庭を見ることを楽しまないわけではない。しかし、それらの庭は、何の技巧もなく天空に突立っている一本の杉の巨木の悠々たる姿に及ばないように思う。それは、のびるだけのびた無技巧の自然の雄大さに劣る、ということである。
 亡び行く資本主義は、矛盾した社会のありのままの姿をさらけ出す自信を喪失している。支配者たちは、のびるだけのびようとしている働く人間の物質的精神的要求を押さえつける外に、自分を守る術を持たない。彼らの「人づくり」とは、ひねこびた自己を喪失した人間をつくることである。
 私は、駆け足をするように腕をかまえ、足だけを前後左右に無暗と動かすが、前進は決してしないあのツウィストとやらいう踊りを見ていると、没落資本主義の中に生まれあわせた青年の一部の人びとの気持ちが示されているような気がする。彼らは、せっかく出世を唯一の目的にして秀才大学にはいったが、彼らの出世そのものが怪しくなっている。また秀才となってひねこびることのできなかった青年たちが、エネルギーの放出に困っている。青年はどこにどのように、彼らの精力を放出したらいいかわからないでいる。だれも、どの政党も、この精力の使い方を教えてはくれない。少なくとも、このような青年に対して、活動の方向を指導することはできない。
 今日の社会の中で「出世」以上の視野を持つことのできないお母さんたちが、小学校の時から大学者も及ばぬほどに机にへばりつかせるようにして秀才たちをつくり出したことにしても、この母親たちや、できた萎縮した秀才たちを責め立てるのは可哀そうなことなのである。この社会でよりよく生きていこうという善き意志がつくり出した悪しき結果でしかない。 

私より若い友人に稲村順三というのがいた。戦後は社会党の党の指導部の一人で、いわゆる『左社綱領』をつくった綱領委員会の委員長であった。今生きていれば、むろん、社会党左派の中心人物であろう。私は、稲村順三と伊藤好道とを比較して、伊藤好道は、ふだんには役に立つが、いざという時に頼りにならなくなる危険がある、稲村順三はひるあんどんでふだんは役に立たないが、いざという時には、必ず役に立つ、といったことがある。伊藤君は若いときから才能のあらわれている人であったが、稲村順三は、不器用で、才人たちから小馬鹿にされたが、戦争中の態度も立派だったし、戦後は、日本社会党の左派の理論的中心となった。
 戦後の彼は、誰も小馬鹿になどできないまでに大物になっていた。左派社会党のいわゆる『左社綱領』は、彼が委員長として実現したものであった。彼は、戦後胃の状態が異様だった。綱領委員会で活動中、よく胃散を服用している彼を見かけたが、彼の病気はそんななまやさしいものではなかったらしく、その後、胃癌で死んだ。
 綱領委員会では、彼と私は、欠席したことはなかった。綱領草案ができてからは、彼も私もこれをもって全国をまわって党員に説明した。綱領を論議決定するための党大会では、彼は表に立って大会に説明し、私は舞台裏の一室にあって彼に協力した。二人ともこの時ぐらい張り切っていたことは少なかった。
 稲村順三は、北海道大学の予科を出て、東大の社会学科を卒業直前にやめた。学生時代から社会主義運動をやっていた。私が彼と会ったのは、多分昭和三年だと思うが、彼は、もう立派な闘士であった。それ以来彼の死まで、つねに考え方を同じくして社会主義の運動をつづけてきた。彼くらい運動の理論で私と一致した人は少ない。さらにまた、彼くらい永年にわたって歩調をともにして進んできた人も少ない。
 私はただ運動と運動上の意見で一致していただけでなく、彼の人となりが好きであった。われわれ二人の鈍才が、おのずから気が合ったとでもいうことなのであろう。
 戦争中巣鴨から出てきたわれわれは、さっそく食うに困った。私よりずっと若かった彼は、人びとの世話で農業会に職を見つけることができた。しかし、私は少し年長で指導者格とでも認められたからかどうか知らないが、職を得ることはできなかった。ドイツ語の私塾でも開いてめしを食おうかと獄中で計画して出てきたが、外はそんなに甘いものではなかった。最後に食う手段として、戦前から考えていた百姓をするほかになくなった。百姓するには、ただ、農業の本を読むことと体力にものをいわせるほかない。土地も、こんなことを見越して、遠く都心から離れて、家は小さいが敷地の広いところを借りておいた。穀物などは素人ではできないから、馬鈴薯を主として、さつまいも、南瓜などをつくった。
 しかし、こまったのは、いちばん大事な馬鈴薯の種芋を入手することであった。さいわい稲村順三が農業会にいた。彼は、北海道産の最上の種芋を私のために確保してくれた。私は、本来農業をやっているわけではないから、当時供出する必要がない代わりに、肥料や種いもの配給もない。稲村君は、ひそかに、したがって自分の首をかけて、私のために種芋を一表確保してくれた。ばれたら彼は首になるにきまっている。ときどき妻が戦争中は静かでよかったというが、人の訪れることもきわめて少なく、血を分けた叔父や叔母の中には、わざわざ私との絶交を宣言する者すらいた。稲村順三には、私の困っている生活を助ける義務などは、いうまでもなく少しもない。しかし、彼は自分の首の危険をおかして、私のためにじゃがいもの種を確保してくれた。稲村君から知らせがあると、リュックで運んだ。あるときは大八車で運んだ。種芋を運んだときの嬉しさは、言いあらわす言葉もない。一年は命がもつはずだからである。
 二人の鈍才の交友は、稲村順三の死とともに終わった。私は、愚痴をいうことは、あまり好きでないが、いまでもときどき、社会党に稲村君が生きていたらなあ、と言ってしまって、苦笑することがある。
 どんな人間でも成長する。秀才も鈍才も、もともとそんなにちがった素質なのではない。それは社会の性格がつくりだすのである。その社会のどういうところに位置して生涯を送るかということが大事なのである。それには自分の意志も関係がある。