1 すべては疑いうる


 楽しい音楽をかなでるようになるには、骨身を削る精進が続けられる。どんなことでも、刻苦することなく身につくものはない。自然科学であれ、社会科学であれ、これを学ぶにはそうたやすい道があるわけではない。『資本論』の著者も「学問には坦々たる大道はありません。そしてただ、学問の急峻な山道をよじ登るのに疲労困憊をいとわないものだけが、輝かしい絶頂を極める希望を持つのです。」といっている。
 マルクスのように、自分の生涯の事業に心魂を傾けつくした人も少ないだろう。もhちhろん、歴史上幾多の天才たちが、芸術や学問や政治のために、身を粉にした。しかし、彼のように偉大な事業と貧困と苦悩と闘争とが結合している場合もまれであろう。われわれは天才だけがなめたような苦しみを、まねる必要はない。おそらくできもしない。しかし、われわれも、われわれなりに苦労しないでは何事も自分のものとはならない。
 多くの人が中学校時代にこんな経験があるだろう。台数や幾何や英語を学ぶとき、はじめは面白くやさしいが、少し進むと、前に教わったことを忘れたり、新しく複雑な条件が出てきたりして、面白さより苦しさが多くなる。この苦しみを少し我慢してやっていると、いつのまにか、いつのまにか小天地が開けるような楽しいところに出る。しばらくするとまた暗黒がくる。次にまた陽が差す。このようなことが積み重なって、いつかある程度の語学の力や数学の力ができている。
 学ぶ道は一般にこのようである。私はときどき、早く経済学に熟達する法を聞かれることがある。私は、学問に近道はありません、と答えるのを常とする。どの道でもまったく無駄のない方法はない。経済学を学ぶにぜひ読まなければならぬ古典がある。しかし、それだけ読んだからとて経済学に熟達することはできない。古典に比べるとはるかにつまらない本もたくさん読まなければならない。それは、たくさんの無駄を踏んでいる。だが、たくさんのむだにじかに触れてみて初めて、むだがむだであることがわかる。
たとえば、リカードの「経済学原理」はあまり大きな本ではない。この本の精髄をつかむということが、決してリカードの本だけを読んで達成されるものではない。読まねばならぬリカードの解説本や彼を祖述した本はたくさんある。そんな本といっしょに、さらにリカードを批判した、彼と立場の違った本も読まなければならない。このようにしていると、リカードのあの小さな本一冊を理解するのに、たくさんの大きな本を読まなければならなくなる。そしてその中に誤ったこともむだなこともいっぱい書いてある。
 あとでのべるように、経済のことをわかるのに、経済だけを勉強すればよいというわけではない。たとえば、帝国主義といわれる現代を理解するのには、経済の範囲を勉強しただけで済ますわけにはいかない。政治、法律、軍事その他、芸術、文化などを学ぶ必要がある。また人類文化のあらゆる領域をみわたしうるのでなければ、歴史というものの意義を真に理解することはできない。
 法律学にある程度熟達するのにも、政治、経済その他社会現象の一般的な知識なくしては、不可能であろう。現代においては、人類の行動は、法律という形式でなされるのをつねとするからである。歴史学を学びたいと思う人があるだろう。歴史は、社会生活が発達してきた有様を、人間という主体の行為としてえがくものである。
 この点で理論的諸学科とちがっている。主体として行為する人間は、社会生活の一つの側面だけではなく、あらゆる側面を備えた総合的な存在である。過去の社会的人間を描くのであるから、史料を読まなければならぬ。しかし史料は一切のことについて語るものではない。史料は、それ自体としては、ばらばらなものである。これによって、当該時代を構築しうるためには、彼は理論的能力を持っていなければならないだけでなく、経済、政治、芸術、その他いっさいの社会生活を理解し、これを有機的に結合しえなければならぬ。さらに、史学は、過去の社会生活を構築しうるだけでなく、かかる社会的人間として行為する歴史的個性をえがかなければならぬ。この意味では、歴史家は芸術家でもなければならぬ。
 理想的にいうならば、歴史家は、たんに科学者であるだけでなく、ある意味では、政治家や芸術家の心を持っていなければならない。そうでなければ、歴史という人間の行為はえがかれない。このように考えてくると、一つの専門を学ぶものは
、その専門以外のもろもろのことについて感心を持っていなければならぬことになる。一見むだなようないろいろの本を読まなければならない。どんなに計画的に一生を終わろうとしても、それはできないことである。人は自分だけで生きているのではないからである。計画的に生きることは、少しもむだをしない生活をしょうとすることであるが、こんなことを極端におこないうると考えると、せまっくるしい専門家の小さな専門眼ができることに終わる。あまりに専門的な専門家は専門家ではない、という逆説がなりたつ。
 個人が自分のまわりを見とおす力は小さい。学問はその力を大きくするものであるが、この学問を学ぶのに無駄なく力を支出するということは、なかなかできがたい。だから、なんの役に立つかはっきりとみとおせるわけではないが、興味の赴くままに、いろいろの本を読んでいい。つまりはじめから囲碁の名人のように何目かの先を読むことはできないのだから、むだらしい石を打つことも仕方がない。
 ただ、学問が囲碁と違うところは、その人が、のちにある程度学問を会得したときには、それまでにむだに打たれたと思ういっさいの石を生かすことができる点にある。学問はあとになって、それまでにやったいっさいの事を生かしうる。むだのことだったようなものが、何かの役に立ちうる。知識は死ぬものではない。ただ、それを生かすか、死せるものにしてしまうかは、あとでどの程度に学問を自分のものにするかにかかっている。
 学問を自分のものにするには、その専門とするもの以外のいろいろなことを知らなければならぬが、同時に専門にえらんだ対象の中にまっしぐらに突入する精神も欠くべからざるものである。敵陣を突破する軍隊のように、一本深いくさびを打ち込まなければならぬ。そしてそれが展開するとき敵陣が破滅するように、科学が自分のものになる。そして、このくさびが開きうるためには、あまり狭小な専門家でなく、いろいろのことを学んだ専門家である必要がある。ここでむだでなくなるのである。
 学ぶとは本を読むことだけではない。世の中の実際からも学ばなければならぬ。どんな高速な学問のように見えていても、直接にか間接にか、世の実際の中に生きないものはない、と考えて学ばなければならぬ。この実際の中に生きるということを、あまりに性急に単純に考えると、ひからびたうすっぺらな知識しか得られない。学問においては、あらゆる専門が全体として世の中に生きるようになっていて、どれか一つだけですぐ社会のためになるかならぬかを決めることはできない。そしてどの一つでも、社会の全体を理解するに必要なのである。
 だから、世の中で実際にどういうことが起こっているかを、注意深く見る習慣を持っていなければならぬ。日常の事象を問題にし、解答しうる能力が、学問をすることから出てこなければならぬ、また学ぶことがこのようにして、高く広い意味で社会的実際的に役に立つものになる。だから新聞のあらゆる面に注意しなければならぬ。世間話の中にすら学ぶべきことはころがっている。
 ただ、新聞の記事や世の中のうわさの中には、きわめて多くのあやまりがあるし、意識的な宣伝があるから、ここではやはり、聞く耳、読む目をみがくつもりでいなければならぬ。同時に、われわれの学識が豊かになると、このような耳や目ができるのでもある。
 かくして、学ぶものにとっては「すべては疑いうる」という精神が本質的な重要さを持つ。それは、納得のいかぬことがらにはつねに疑いをもつことである。もちろん、われわれに納得がいくということは、そのときのわれわれの学問的能力によることでもある。われわれは、そのときわれわれの持っているもので、新しい何かを判断する以外に仕方がない。われわれの知識が高くなれば、先に納得できたものが納得できなくなり、先に納得できなかったものが納得できるようになる。ただそのようなすべての場合に、つねにすべては疑いうるという精神が貫いていなければならぬ。
 学ぶものにとっては、今正しいと思っていることが、明日は正しくないことを発見しうるという反省がともなっていなければならぬ。つまり、われわれの知識はたえず発達するものであることを、いかなる場合にも忘れてはいけない。したがって、学問には絶対的な権威はない。神様のように、無条件にその前にひざまずかなければならぬものはない。誰がいったことでも、そのままで絶対的な権威を持つことはない。学問は、もちろん真実を追求するものであり、かつ真実を追求するものは、われわれのように具体的な相対的な個々の人間である。彼はあやまりうる。しかし、このあやまりうる「彼」をとおしてでなければ、真理には達しない。
 だから、すべては疑いうる、ということは、決してわれわれが真理に達しえないという、ニヒリズムではない。また真理はつねに相対的であると考える相対主義でもない。
 絶対的真理が相対的個人またはその集団によって明らかにされていかなければならぬということである。相対的個人を通してでなければ、不動の真理は実現されえない、ということの意味である。つまり、絶対的な真理に近づいていく無限の道程における心構えである。相対的個人を通して、真理が明らかにされていく以上、このような「疑いうる」精神が必要なのである。「疑いうる」ということは、かくして、学問を発展させる精神である。いわゆる批判的精神のことである。批判的精神なくして学問は存在しない。