さること先日、詩の同人合評会に参加した。

そこはとてもお世話になっている同人で、自分は正式のメンバーではないのだが、会には遊びに来ていいよとの贅沢なお墨付きを与えてもらっているような感じである。どこまで甘えていていいものやら。

なのだが……

詩の同人は全国各地にある。それ自体が星座のネットワークのようだ。だけど、昔ながらの伝統的な同人団体は、メンバーの高齢化・地域の過疎化により、ちょっとずつ減っているというのが現状だと思う。

Aという団体も高齢化の波は免れない。でも活気がある方だと思う。

だけど……少し、いくらなんでもその態度はないだろ、という方も参加しておられた。それから、提出される作品の質にどうしてもバラつきがある。正直、この人とこの人はいつもいい詩をもってこられるが、何人かの方はコメントするのも難しい類の作品を持ってこられる場合が、どうしても目につく。

僕にとっては、そのいつもいい作品をもってこられる何人かの方だけをチェックしていればいいじゃないか、という気もする。一方で、全体としての、合評会、同人団体としての質というものを考えてしまう。

自分の作品はよくもわるくも浮いてしまう。現代詩志向だからだ。

元々、年に何回も開かれる場ではないので、そんなにお邪魔させていただく機会もないのだが、全ての会に参加させていただく必要もないのかもしれない。

先ほど言ったように、現代詩の同人団体は星座のようにネットワークが全国津々浦々で張り巡らされており、中には遠方からでも見学できるオンライン対応を実施しているようなところもある。

同人にも、十人十色が成り立つというわけだ。それはまあ、当たり前の話である。

自分の作品へそれはなるほど!と思わず唸ってしまう的確なコメントをくれる方が毎回いて、その方たちのコメントを頼りにこれから参加しよう。

会場の、最寄駅からの最短ルートも発見したので通いやすくなった。

さあ、しかし、これからの活動をどうするか。実は(というほど大した詩書きでもなんでもないが)詩を書かない日が続いており、そういえばSNSでの創作アカウントも何日も開いていない。先日のオフライン合評会はやる気スイッチが入るきっかけになるかと思って参加したが、どうやら提出作品への具体的な修正点を得られた、のみに留まるかもしれない。

詩の投稿を続けている以上、新しい詩を毎月書いていかなければならない。よく言われるように、でかかったケチャップソースが一気に吹き出るように、ある短い期間に詩がたてつづきに生まれるような書き方をしており、それ以外はひたすら沈黙、書けない・書きたくないという期間の方が長い。でも、詩になりそうだなというアイデアがひらめいたらそれらはちゃんとメモしている。実際、アイデアだけのメモが4割5割と増えてきた。

詩が書けない・書きたくないという謎の枯渇期間に身を浸すうちは、短歌をやってみようかという解決策を思いついた。創作モチベーションの何らかの形での継続である。これまで、断続的に思いついた短歌は、utanka(あるいはutakata)というサイトにまとめて投稿していた。自分の短歌がまとめて閲覧出来て管理もしやすいからである。

だけど、どこかに送ってみようかなーとも。モチベーションにもなるし、短歌はまだまだ素人の域を抜け出せていないという実感があるけど、投稿作品が落選の憂き目にあうことにはもう十分に慣れているので、違うフィールドで気長にやってみたい。とりあえず、ネットでもできる企画と、角川の『短歌』のバックナンバーと今月号を注文した。短歌の商業誌、安くていいな。

たぶんこのブログに何人かの方が読者として追加してくださったみたいで、PCからだとどう確認すればいいか分からないのですが、ありがとうございます。

素性を微妙に隠しつつ、情報を限定的にしつつ、自由に気ままに不定期更新していこうと思います🌟

 

 

僕はもう30代後半であるので、立派な中年だ。

昨日からスピッツばかり聴いている。元来、"B面集"であるスピッツの『色色衣』(2003)という素敵なアルバムに、「青春生き残りゲーム」という癖の強いかっこいいロックナンバーがある。

 

↑「青春生き残りゲーム」のライブバージョンはYoutubeにはなかった……

 

それでなんとなくあれである、「中年生き残りゲーム」。たまたま思いついた粗野な言葉にしては、ドーン・オブ・ザ・デッド感、ゾンビ感がすごい。

なんとなく、本当に中年生き残りゲームで苦しみ始めるのは40代に入ったあたりからなのだろうなと思っているのだが、最近はのほほんと生きつつも、今日はちょっとつらいことがあった。

のほほんと暮らしていると、いや暮らしている中で、面倒なことやあまり直視したくない事柄をなんとなく放置してしまう。僕は先延ばし癖のエキスパートでもある。いつかはやっぱり現実的な要請(提出期限が迫ってくる書類があるとか)が、のほほんとした生活意識を不意打ちのごとく食い破ってくる。

 いくつか今月中に分散してやろうと思っていたことを、月末のあと2、3日でバタバタとこなさないといけない。そして今はam2:21。とほほ……

大切な人と喧嘩もしてしまった。のほほんとしすぎてやらなければならないことを放置していたり間に合わなかったりできなかったことがいくつかあるので、この喧嘩は不毛なやり方だったかもしれないけど、自分としてはふたたび気を引き締めて雑事や生活に取り組んでいかねばならないなと。反省。彼女のいい口はちょっとショックを引きずってしまったが、いつも彼女がしっかりしているし偉い。そういう人がいるだけでどれだけありがたいことか、自分はちっとも分かっていない。

 

 

 僕はすぐに生活、生活と言ってしまうのだが、いったいあなたの言っている生活って何のことだいって聞かれたこともあった。要は日々の暮らしである。それも、仕事、雑事、家事、そして自由時間。自由時間をもっぱら趣味の時間と捉え、その時間の為に生きているようなもので、それら全てを含めて、僕の怠惰なルーティン、まとめて僕の「生活」である。

 

考えたいことがある。意識と無意識の話だ。

そうした僕の生活は、多かれ少なかれ「意識」と結びついている。意識的に行動している。意識的に起き、自転車に乗り、意識的に仕事をし、意識的に買い物をする。最近読んでいる人類学者・思想家の中沢新一の本の中に、フロイトの無意識論の再考を促すことが書かれてあったのだが、そういう意味での(無意識の対立項としての)意識である。

 何回も言っているようにそこまで傷ついた日々を送っていたわけでないので、僕の無意識に特に滾るような暗い情念の力が溜まっていたわけではないと思う。しかし、日々の生活は、そうしたのほほんとした場合だけではない。当たり前だ、どうしようもなくそうなのだ。直視したくないことと向き合う必要もある。その、「直視したくない事柄」は、たとえばできれば仕事したくない弱い自分の心、とか、未来に結びつかない貯蓄残高のこととか、高齢化する親のこととか、色んなレヴェルのものがある。そういう事柄は、のほほんとした日常の中にあって、単に忘れられているか、忘れようとしている。別に無意識の領野に移行するわけではない、脳の片隅に閉じ込められるだけだ。

 多くの事が日々やってきては過ぎ去っていくわけで、僕たちの意識はそのことにいちいち向かっていく。その中で、なるべく後回しにしたいこと、とりあえず直視できない事柄を、そうして意識の外に置く。それは、無意識に移行するわけではなかろう。でも、なんとなく、潜在意識、と呼ぶべきものには、潜在意識の湖みたいなものには、ポトリポトリと、黒い血のようなものが垂れていくのだろうか。そうして脳内は段々と疲弊していく。汚れが蓄積する。なんとなく、毎日の生活を回すための意識の向け方、注意力が散漫になってくる。無意識はPTSDとか抑圧の回帰などの精神分析的/病理学的な「症状」とセットで語られることが多いけど、そういう無意識ではなく、一般用語としての「潜在」する、脳の奥底や影に身を潜める"意識たち"が、汚れてきて、脳そのものの働きを危うくしていく、ということがあるのではないか。

 それらすべては、僕の根本的な先延ばし癖のせい、か。そう結論できる気もしてきた。

僕のADHD気質は、そういう闇深くて、生活をうまく回すためにはあまりに悩ましい障壁であり続けている。今度の精神科の主治医には、このブログでまとめたようなことをもっと整理して相談してみようか。やっぱりこの先延ばし癖、直視したくないという回避・逃避ムーブはやばいと思う。

脳が疲弊しているサインでもあるかもしれない。運動しよう。筋トレ、ストレッチ、ランニング。頭がパンパンだ!

 ※ロイトの意識/無意識論はあまりに粗雑ですが、とりあえず中沢新一の『レンマ学』を読んでから、またフロイトのお勉強などをしてみたいです。前意識とかもあったもんな、フロイトによる図式の変遷。

 

 

胸に火を灯そう もがき続けてよう

初めてを探している

あまりに暗い夜 中途ハンパな毒

手が届きそうな明日

ああ 狂いそうな時をひきずって

新しい十字路を目指す

横にある快感や あつらえた偶然に

寄り道したりしながら

 

スピッツ/孫悟空 より抜粋 (『色色衣』に収録)

X、もとい旧Twitterと詩界隈の関係は興味深い。

元来、自由にテキストを呟けるSNSと現代詩の相性はいい。詩をそのまま呟きとしてツイートしている人はたくさんいるし、自分もそのようなことを目的として創作アカウントを設けた。

 

昔のTwitterはもっと自由だった。

悪く言えばカオス、よく言えばレッセフェール(?)。今と違ってインプレッション数(注目数)も表示されていなかったし、「見ようと思えば」フォロワーのいいねや他人とのやり取り(リプ)が閲覧できただけで、昨今のように過剰な相互監視の連絡網に置かれることはなかった。でもそういう未来を胚胎していたんだね。

 

僕が創作アカウントを始めた頃は、もうすでにSNSでのお作法が詩界にある程度浸透していたのだと思う。お作法というのは、意思疎通におけるマナーのことでもあり、SNSを基軸にしての関係構築・そのネットワークのことである。そうして今は、小説家にしてもずいぶんたくさんの人が、それこそ駆け出しの若手から大ベテランまで作家名でXやInstgramをやっている。そしてそれらよりはるかに狭い世界の現代詩だから、令和に入るか入らないか以前の頃から、旧Twitterを中心とする詩人間での交流は緩くしかし確実に出来上がっていたのではなかろうかと推測する。

 

……自分の心と静かに向き合っている人が多いので、優しい世界だと思う。何より、見事な詩の言葉に自分の心が洗われる。

だけどもちろんそんな言葉ばかりではない。いわゆるポエムと呼ばれる類のものもあるし(でも僕はけっこうポエムが好きだ、疲れた心を優しい言葉で癒しているんだなあと思うと自分も共に癒されたいと思う)、攻撃的な言葉を吐く詩人もそれなりにいる。

だけど基本的には優しい世界。

でも、みんなすごく活発!なので、宣伝や集団的熱気に立ち会うこともしばしば。これは正直疲れる。といっても、僕も何かを作った折には宣伝はしないといけないわけで。お互い様だと思う。

情報の渦だ。だから、はじめにも書いたようにSNSと(現代)詩の相性は悪くはないが、それだけに適宜距離をとってのめり込みすぎないようにするのが大事だと思う。僕の場合は、月に1週間から10日ほどは創作アカウントから離れている。残りの20日はけっこうのめり込んでいる気もするけど。

 


京都のポケモンセンターに行った時の写真。

 

丸一年半、このブログを開いていなかった。前回記事をみるとトマス・ピンチョンの『重力の虹』の上巻を買っただの読んでいるだのの報告をしているのだが、2026年の1月現在、その上巻を読み終わったまま下巻には手を付けられずにいる。読もうと思えば読めるのだろうが、なんとなく読んでいない(稚拙な日本語だこと)。

 読書の話でブログを再開したかったわけではないのだが、ピンチョンの『重力の虹』以外にも、浩瀚な書物をいくつか手前において、「お前はいつ読むんだ」と無言の圧力をかけられている気もする。ジャン・ジュネ『恋する虜』、エドゥアール・グリッサン『カリブ海序説』、高橋源一郎『DJヒロヒト』、小川国夫『ヨレハ記』『イシュア記』、現代人類学の重鎮であるフィリップ・デスコラ『自然と文化を超えて』などなど。本当にいつ読むんだろう。

 

今は中沢新一の『レンマ学』を読み進めている。3/5くらい。

 

最近はそこそこ充実している。生活も安定しているし、書いている詩がちょっとずつうまくいき始めていると感じる。長らく課題であった詩人の方々とのネットワークも広がってきた。そのなかで、自分の書く詩にあくまで集中することが大事なのだろうと感じる。

できたてホヤホヤの詩の投稿サイトを試しに利用してみた。詩誌への新人作品欄に投稿する気はないもののどこかしらに発表したい詩をたまーにnoteに挙げているのだが、noteでは中々コメントがもらえないため(といっても、これもまたごくたまーに反応をもらえることはある)、noteで発表した反響の少ない詩を試しに1つ投稿してみた。

作品を投稿するにはポイントみたいなものが必要らしく、それには他の方の投稿作品へのコメントだったり、ポイント自体の投げ銭だったりという、サイトを有効的に使用すればするほどポイントが付与されるような仕組みなのだと思う。とても面白いと思う。

 

ネット詩、というジャンルがある。

現代詩の話を知らない方にはなんのこっちゃ、の話であるが、2000年代(2000-9、いわゆる「ゼロ年代」だ)、当時のインターネットを中心とした投稿詩サイトがいくつか誕生した。00年代と言えば僕は中学生から大学生の成長期間にあたり、その頃は投稿詩なんて世界は微塵も知らなかったので、後付けの話であるし、いまだに詳しいことは分かっていない。

ただ、ひとつ、間接的に知っているサイトがある。「文学極道」だ。

いわゆる、「ブンゴク」という略称で知られている、旧2ちゃんねるのような掲示板形式を利用した現代詩の投稿サイトであるが、これらを利用し、実際にそこそこの地位を築いていたこともある2人の詩人を知っている。

その2人が今何をしているかは知らない。詩を書いているのか、もう今は書いてない気がするのだが、とにかく連絡先も何もかも消えてしまった。SNSも検索しても一向に見あたらない。

2014年頃、その2人と知り合った(あくまでオンライン上の話)。2人は当時、文学極道において新人賞やその次点といった成績を過去の年におさめていた。その時も投稿中であった。その2人の会話を通じて文学極道のトップページに飛んでみたが、とてもおそろしそうな場所だと思った。当時の僕は詩を書いていなかったし、興味はあるけど、ここに投稿するのはさぞ覚悟がいるだろうな、と思って、別にめちゃくちゃ詩を書きたいわけでもないしそのまま文学極道のアドレスを開くことはなかった。

 それでも、その2人の詩を読む機会は何回かあった。とてもかっこよかった。こういうのが詩なのか、と思った。その時の憧れは、現在に至っても忘れられない。

 

 今、自分が真面目に詩を書くようになって、もしあの頃ブンゴクに身を置いていたらどうなっていたであろうか、と思う。当時の僕は小説家になりたくて、しかも初めて大江健三郎や古井由吉といった戦後文学の存在を知って触れる程度にすぎす、文学的素養の基礎の基礎を齧り始めているぐらいで、碌な詩はできていなかったであろう。それでも、ブンゴクに身を置いていた(そしてしらばくして去ったらしい)当時の2人の詩をちょくちょく思い出していた。あの硬質で自在な雰囲気……そういったものへの憧れが、無意識の領野で僕を現代詩のセカイに連れ出したのかもしれない。

新しい投稿サイトにはそのような空気を少し感じる。と同時に、ブンゴクが途中で自滅してしまった崩壊から少しでも身を守るように、現代的な、令和の時代に即した配慮を、サイトの宣言文から感じる。

初めて投稿した作品に、コメントつくかなあ。つかないかもしれないな……

 

現代詩、ネット詩の歴史に確かに身を置いていたふるきつわものたち。

どうか元気でやってますように。

 

トマス・ピンチョン『重力の虹』上。結局下巻は下半期に持ち越しに……

 

 こないだの記事は5/30。大体一ヶ月に一回書いてるのだろうか。とすれば一ヶ月のまとめみたいなものとしても使えるが……

 

6月は「再開、仕切り直し」みたいな月だった。本当に仕切り直し。安直な仕切り直しではなく、これからの人生を少しでも充実させるための。

コロナウイルスの脅威に世間も僕も慣れ始めてから、社会がコロナを忘却し始めた現在まで、とことんいいことがなかった。というより充実感に欠けていた。何を頑張れば、この人生をどうしていけばいいのか、見当がつかなかった。もしかしたら過去の記事でも吐露していると思うのだが、たとえばコロナに一回罹り、インフルが流行ったときに無事に罹り(インフルに罹ったの7,8年ぶりか?)、そして引っ越しのゴタゴタがあった。仕事は不調で、食生活もみだら、とかく不健康だった(精神的にも肉体的にも)。

 ありきたりだ。ありきたりな、よくありそうなちょっとした不運だ。でも弱い僕は、そのちょっとした不運にボロボロになる。まぁこういう自分が愛しくはあるんだが(ほんまか?)

 

 そういう意味では、5月から6月にかけて、ここ3年間くらいで一番調子が良かった。精神的にだ。

「こうやっていけばいい」というのが掴めた。仕事と趣味の両立のモチベーションが定まった。

 

ただ、まだ定まっただけで、実は、今月は趣味の方面ではモヤモヤしている。創作も。創作こそを現実的に活かしたいのだが、まだなーんにも。ただ、下準備、環境づくりなどは、少しずつ、しかし確かに揃ってきている。

 

 色々な読書や、映画・アニメ鑑賞が、創作の糧となればいいのだが。それは、非常に遠回りで、間接的なものだ。直接活かせるものではない。そういう意味では自分がやってきたことは何も変わってないし、むしろそこには静かな自負を持っているのだが、いかんせん、創作のほうが、何の結果も出せていない。少し、心が急いているのかもしれない。

 

 しかし、文章を書くことは面白い。先月ここにブログ投下してから、他の媒体でもあまり書いていなかったので、やっぱブログとかエッセイとか新鮮。

 

 僕は詩を書いている。いまんとこ、月に3篇の詩を書いて、あるところに投稿するということを、再開した。5月から。

3篇を完成させるのも難しい。常にストックを作っておきたいが、中々そうもいかない。投稿するのは何篇でもよいので、たとえば2つか1つにするとか、それでもいいのだが、とにかく「何かしら真剣に書いたものを毎月投稿する」という状態を1年、12ヶ月続けたい。

 

去年の10月から始めたのだが、結果が何もなくて、投稿自体は1月でやめてしまった。その結果である3月号、なんにもならなかったことを確認して、失望してしまい、冬の間は詩を書くことすら躊躇われた。実際に出来たのはひとつかふたつくらい(それも満足の行くものではない)。だけどまた4月5月と春めいてきて元気が出てきたので試しに書いてみたら、やっぱり楽しいしできれば投稿もしたいなと思って、再開した。

 

 来年の3月まで続けたいね……毎月凹むんだろうか。凹むんだろうなぁ。つらいなぁ。

 

というのは弱音で、まぁ、日々の生活はそう落ち込んでばかりもいられない。平常、たまに非日常を頑張って楽しむのみ。

 

今月、ピンチョン以外の小説は読了できなかった。哲学書とか、エッセイとか、そういうのばかり読んでいた。

来月の読書目標。特にないが、『重力の虹』下巻は読了しておきたいなぁ。そして、遠藤周作もあと何冊か読みたい。

 

問題は哲学・人文書関係。キリスト教関連の著作が少しずつだが揃ってきた。聖書も読みたいのだがな……

 

マンガ。今は沙村広明の『波よ聞いてくれ』にドハマリしている。はやく最新刊まで読みたい。

 今月、頑張って7巻セットの『風の谷のナウシカ』を読み終えた(素晴らしかった)ので、また大作にも挑戦しなきゃなーほんと何読もう。

 

アニメ。とにもかくにも物語シリーズ、新シーズン!!!8888 今は物語があるので、毎日癒やしを与えられているようなものだ。推しの子の第二期も楽しみ。OPEDはどうなるんだろう。

 

映画鑑賞。ホラー系、シネフィル系。6月はたぶん一本くらいしか映画観てないので、さすがに来月は数本は観ると思われる。思うだけ。

 

 

 

どん。ゴールデンウィークに入ってからは少ししんどかった。僕は読書のペース(と質、充実感をおぼえながら読書できているかどうか)で日々のテンションが決まりがちなのだが、4月後半はSF小説に没頭していたのもあり、それが少し落ち着いて、何を読むか困っていた。結局ゴールデンウィーク期間は詩集を読んでいたと思う。明けてからまた調子が良くなり始め、劉慈欣の『三体』を読み始めるとあぁやっぱSFって面白えなぁ~とドハマりした。今はまたSFからは離れているんだけど。

5月は基本的に調子が良くなる(晴れている日が多いから)。今年も然り。しかし、ところどころで下がる時もあった。

 

そのうちのひとつが、胃腸の状態がひどくなっているかもしれないという不安感だった。珈琲を飲みすぎてアレルギーにでもなってしまったのか、飲むと体の調子が悪くなることを反省し、三年かそれくらい前に珈琲をやめたのだが、それが今度は牛乳がよくない、あとパンも良くない、みたいなことが増えてきて、心配だった。17日に大腸カメラの検査をしたのだが、なんと一つも異常がなかった。ポリープもなし、炎症のような状態も残っていない。綺麗な腸ですねと言われてしまった。しかししんどかったぜ。お尻から突っ込まれるファイバー? もうしばらく受けたくない。2リットルの下剤もまずかった。

このまま健康診断を今年こそは受けて、ハッキリさせようと思う。

やはり精神的なものに全てが左右されがちというか、検査結果が無事だったということで安堵したのか、それ以降、なんとなく調子が良いようにも感じる。一度、調子に乗ってパンを続けて4つ食べたところ、しんどくなったので、やはりパンはダメかもしれない。食べるとしても間食がてら一つ。こういうのはしっかり守ったほうがいい。

 

大腸検査をきっかけとしてなのか、5月の後半はとても調子がよかった。前向きな姿勢が何事にも取れるし、読書も充実、スキマ時間にアニメ鑑賞やゲームも進む。僕の生き方は時間に恵まれているから。西尾維新原作のアニメ「物語」シリーズ、現在「セカンドシーズン」第11話まで視聴した。夏からの新シリーズに間に合うだろうか……  ゲームは相変わらずポケモン。

 

 これから復権というか、より良い生き方の指針がうっすら見えてきたような気もする。今後どんな働き方にすればいいのか、その傍らで詩をかくことの意義づけとか。働きつつ、詩を書く。読書をする、趣味を大切にする。やることは多分変わらないだろうに、「この生き方がずっと続けられるかもわからないし、何もかもがよくわからない」とさえ思ってもいたから、かなり上向いたと思う。

 

 的確な体調管理。健康志向の生活習慣化(課題ありすぎ)。

 

しかし、文章を書くということは、自分の中の爆発力みたいなものを誘引するみたい。ブログ(noteも含めて)も冬の間はあまり書けていなかった。というか、4月はほんとつらかったな……。

自分の中の起爆剤みたいなものも意識しつつ、健康な生活習慣を少しでも志して、あとはブログ記事を書いたり詩を書いたり、その支えとなる読書や他の趣味を大切にする。働くことの充実感とやりがいも思い出したい。頑張っていこうと思う。

前回の記事をみたら三月だったので、何も書いてなかったんだなぁと反省。というのも、このブログを旧Twitterでリンクしていたのだ。僕は基本的に文章を載せるときはnoteを使って、こっちのamebaはより個人的な、ほんとに狭い範囲でのお気持ち整理や読書の随感といった風に使っていた。元々旧Twitterのリンク先はnoteにしていたはずなのに……元通りにすればいいのだが、なんとなくそのままにしてみる。

 

このブログ、冒頭に何らかの本の写真をアップしてそれに一言コメント書いて、肝心の文章そのものにももどこかでその本にまつわるエピソードを挟み……とやっていたが、それもめんどくさい。書影を撮ることは基本的に面倒だ。だからAmazonの写真などを使っていたのだが、本の話なら別にどこでもできるのである。

 

三月、四月は、ほとんど文章を書けずにいた。それはひとえに、現代詩を書くことに自信を失っていたからだと今なら振り返ることができる。

昨年の十月から一月まで、『現代詩手帖』に書いた詩を投稿していた。何かしらの応募に詩を投稿するのは初めてだったので、期待半分諦め半分だったが、気持ちが焦ってしまい、四か月連続で何も音沙汰なしで、完全に自信喪失を喰らってしまった。

現代詩手帖は現代詩を扱う雑誌の中でも一番著名で、それだけに新人投稿のレベルも高い。それは、どれでもよい、発刊されている雑誌の新人投稿欄(最後の頁に近い)を見れば、一目瞭然というくらいに骨太な作品ばかり選ばれているからである。一か月の間に選ばれるのは10作。選外佳作(こちらは名前と作品名のみ)が15~20ほど。毎月900作品ほどの投稿があるという。

二月号(投稿したのは二か月前、つまり十二月に投稿したもの)まで、佳作にも入っていなかったことに愕然としていた。実は三月号を確認していない。がっかりし続けることにお金を払うのもどうかとは思うので、今度図書館に行くときに確認してみたい。そういうまともな思考を失うくらい、投げやりな気持ちになっていた。

 

もともと、去年の十月から投稿を初めて、一年間つまり十二か月は頑張って続けようと思っていた。作品を規定の枠組みに直して印刷して封筒で送るというのも面白いけど中々大変なものではある。

今月からまた再開した。と同時に、幾つかの公募にも自分の作品を送ってみた。

 

今年の公募としては(もしかしたら例年かもという気がするのだが)、夏がアツい。僕の地元の市の文学賞と、県の文学賞の〆切がほぼ同時にある。それぞれ三篇まで送っていいことになっている。併せて六篇を書いて選ぶということも、今から考えなければならない。それでも基本的には詩を書くことは楽しい。楽しいけど、クオリティ低いな……と思ってしまうものについては、それ以上改善の余地があるのか、あったとしてあくせくしながら書き足したり削ったりするわけだが、この作業が全てだと思うのだ。結果的にどうしても、出せない、出す気にならない作品というのもある。

 

現代詩手帖の毎月投稿はペースメーカーになる。ハッキリ言って、詩の投稿を始めた人にとって一番の登竜門である気もしなくはないが(他には、「詩と思想」、あとはこちらも多ジャンルにわたる芸術・文化人を毎月特集する著名な「ユリイカ」といった雑誌が詩の投稿を毎月受け付けている)、また頑張って一か月に3,4つほど、自信のある詩を完成させていきたいものである。投稿を継続していきたい。

 

小説が全く書けなくなった。このことについてはまた別に思い出してみたい。代わりに、長めのエッセイを書きたいと思うようになった。それもまずnoteから始めればいいのだが、上に書いた通り三月・四月はnote投稿もほぼない感じになってしまった。noteも文章書きのいいリハビリになる。エッセイと呼べるようなものを中心に載せていきたいなぁと思っている。詩は……なるべく投稿用に……(消音)

 

いいエッセイを書くことは難しい。というか、書くのは楽しいのが当たり前で、そうではなく人から見て面白いかどうかが極めてアヤしいからだ。自分語りばっかりだとね……芸能人や野球選手でもない、一般人の自分語りを文章にしても、それはそれで日記と呼べばいいんじゃないか。そういうことを思いつつ、エッセイとは何かみたいなことを最近はちょっとずつ考えている。でも一番重要なのは今は現代詩。

 

 

W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』。外文界隈では有名な作品だが、初めてゼーバルトに触れた。これは最近読んだ本の中でもぶっちぎりの読書体験だった。ゼーバルトの散文には極めて高い詩的な格調がある。しかし、それは詩には留まらない。文学としての骨格が力強く通っている。このような強度を携えた小説は、小説であることを超えて「散文」としか呼びようのないものになるのかもしれない。これはちょっと普通には体験できない読書だった。面白い。

 

それでは、また。

 

本がなかなか通読できない。個人的な話、小説はこれに限らないのだが、特に哲学書である。ちなみに新書などを読み込むのも遅い。

前回、人類学の本を積んでますという記事を書いているのだが、今は読んでない。デスコラの『自然と文化を超えて』が難しすぎるため、副読書を何冊か用意したのだが、日が経つとともにどんどん興味の矛先があちこち飛んでしまい、今は小説を読んでいる。

 

こないだの記事ではこんなことを書いていた。

 

1,柄谷行人『力と交換様式』を通読する

2,東浩紀『訂正可能性の哲学』を通読する

3,中沢新一の『レンマ学』か、それに準ずるような大澤真幸や鷲田清一の評論を一冊読む。

4,人類学の読書を少しでもいいから進める

5,新書をあと2冊読む

 

これを今年の目標とするようだ。これに、

 

6, その他 を付け加えてもいい。おそらく、上半期で達成したいことだった気もするのだが、今の調子では残り三か月で↑は無理そうである。しかし、通年だったらいけるかも。

 

というのは、いろいろ気を散らしていた間、ドゥルーズの『シネマ』と江川隆男の『すべてはつねに別のものである』を読んでいた。とてもいい時間だったのだが、江川は別にしても『シネマ』はじっくり読むものだ。この大著対策にも副読書を一冊用意してある。

 

最近、映画熱が一定程度続いているので、そういった意味で『シネマ』は刺激をくれる。何言っているのかめっちゃ難しいけど。ドゥルーズを通しつつ、イタリアのネオリアリズモが自分なりに理解できたらいいなぁと画策している。

 

デ・シーカを三本見た。フェリーニはまだ二本。ヴィスコンティの『若者のすべて』は本当に素晴らしかった。

まだまだだ。

 

イタリア映画に関する評判高い新書を一冊持っているんだけど、サイレント期から濃密な記述があるので、デ・シーカらが登場するまで読むべきか……?と思って、10頁くらいで止めている。

 

あと、イタリア映画だけ見ていてもネオリアリズモの衝撃や映画史におけるインパクトは理解できないだろう。これは間違いない。だから、フランス戦前派の映画を漁るのも悪くないなぁと思った。アマプラやU-NEXTにごろごろ転がっている。今やサブスク席巻時代にとって映画鑑賞はだいぶハードルが低くなったなぁと思う。

 

映画の話になってしまったが、今は小説を読んでいる。小説と映画鑑賞のために、人文書を紐解く時間がない。こうして振り出しに戻る。

 

小説は、日本の戦後作家を中心に読みたい。具体的には、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、大江健三郎、大岡昇平、その他もろもろ。これが第一の軸。あとは海外小説。古典から現代ものまで幅広く。今はゾラを続けて読みたいという欲が少し芽生えている。今読んでいるのは『ナナ』。

 

SF小説も積んだし、日本の現代作家の小説だって積んだけど、いつターンが回ってくるのやら。そろそろ青地図は書いたので、とりあえず上半期はこういう感じで読書を進め、結果的にどうだったか、六月終わりに振り返ることができるといい。

 

もう三月も後半だぜ。

松村圭一郎『旋回する人類学』2023、講談社

 

 

おそらく現代人類学の本を読むことは、人文知を愛し更新したい者にとって最も最適な道の一つだろう(と思う)。松村圭一郎さんの(岡山大学に勤務中らしい)著作、『旋回する人類学』という本をほんの100頁読んだだけでも、人類学がこの50年あたりで何回も批判・継承・刷新を繰り返してきたことが書かれている。レヴィ=ストロースや中沢新一の名前を挙げるだけではもう時代遅れなのだ、彼らはクラシカルなものとして未だに再読や研究を重ねる知の偉人であって、特に「存在論的転回以降の人類学」は、人文知の最先端にあるのだろう。ホットなものとしての人類学という言い方は少し嫌だが、「人間とは何か、他者とコミュニケーションする(あるいはしたがる)人間とはどういう存在か」「他者は理解可能か」などといった「倫理学」と直接結びつく重たいテーマ、かつ伝統的な西洋哲学が必死に求め続けてきたテーマが重なるので、なるほど21世紀に生きる私たちにとって最重要な課題の一つなわけである。

 

人類学は未開と呼ばれる人々の共同体に赴くだけではない。むしろ、理系のラボや裁判所に出向いて私たち欧米由来の文化そのものにハンマーを擲つような人類学もあるとのことだ。それってすごくないですか。

 

レヴィ=ストロースや中沢新一への愛から始まって、短期間で以下の書を用意できた。

 

一つ目がさきほどの『旋回する人類学』 ……現代人類学のガイド役になればいいなと思って買った。

二つ目 『現代思想』総特集 『人類学のゆくえ』 ……安定の青土社・総特集シリーズ

 

三つ目 100分de名著シリーズ ……中沢×レヴィ=ストロースという古典の最良解説アンチョコ本(アンチョコ言うな)

 

四つ目 クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』 ……満を持して名著の中の名著を購入。楽しみ。未読のレヴィ=ストロースで積んでいるものがあと二冊ある。

 
他にもいくつかあり、特に、雑誌『現代思想』にハマるきっかけとなった2010年1月号の『特集レヴィ=ストロース』という貴重本を実家から持ってきた。中沢新一もたくさん積んである。が、一番の目的はこれである。
 
五つ目 フィリップ・デスコラ『自然と文化を超えて』
 
このデスコラの著作こそが、現代人類学の「存在論的転回」という潮流を生み出した、ターニングポイントとなった書らしい。松村さんの本にも紹介されてあるに違いない。訳者の小林徹さんの本を依然読んだことがあってそれもすごくよかったので、満を持して(何回言うねん)。
 頑張って1/6くらい読み進めてみたのだが、歯が立たない。実はこれ、発刊された当初からずっとほしくて、いつもお金がないないと言って優先度を下げてきたんだけど、それくらい以前から読みたかった。この本を通読するために、他の本を買っているのだ。
 
というわけで今年の人類学関連の読書は、このフィリップ・デスコラの『自然と文化を超えて』を通読するのが最大の目的。それに応じて、入門書や初心者向けのNHKブックス、そして中級レベルの雑誌や邦訳原著を読んでいこうと思う。

 

他に映画の本の話もしようと思ったがあまりに長いのでここでやめ。

高橋源一郎の新刊(2024.2.29刊)

 

さて、はて。先日、高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』とアンデシュ・ハンセンというスウェーデンの精神科医の『メンタル脳』を読んだ。一応どちらも新書サイズであるがおよそ新書らしくない。『メンタル脳』なんかは読書が好きという人であれば一時間以内に読めるようなものだと思う。そこを期待して買ったのだからいいのだけれど。

要は、人間の脳は原始時代からあまりアップデートされておらず、携帯のアラート音や自動車の荒い運転、病気や人間関係の不和などをいちいち命の危険=高ストレスに感じてしまう現代人の(苦)悩に対する処方箋を考える、といったような本だ。脳は賢いが、意外に単純でもあるのだ。そういうことが知れただけでも良かったかな。ただこれだと、養老孟司の本を読んでいた方がよかった気もする。

 

高橋源一郎からは日々影響を受けている。小説家としても面白いし、何よりエラいんだ、この人は。日本文学の行く末を何よりも、作家として永らく過ごしてきた身として責任感を背負って、それでも愉しく真面目に活動している。初期はあんなにデタラメな(最大限に褒めてます)小説を書いていたのに。どんな人が、日本文学を担うような大きな作家になるか、まったく分からないものですね。

 

三月になったが、今年は日本の戦後文学を中心軸に読みたいと思ったのだった。特に吉行淳之介や安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作といった「第三の新人」の小説群(大量に積読された哀れなるものたち)。他にも、大岡昇平、福永武彦、辻邦生、小川国夫、倉橋由美子、武田泰淳&宮本百合子などなど、たくさん古本を所持しているので、積読を崩してドップリ戦後のドロドロネチネチした小説に浸かってみたい。今年はそういう、日本文学ターンの時期にしてみたい(少なくとも上半期は)。

 

海外小説は控えめでいくか。いまんところ、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの傑作小説『半分のぼった黄色い太陽』を半分で止めてしまっている。あまりにも面白く凄くて……天才だな、この作家はと思った。文章の硬質性とかではなく、物語の構成力がすごい。ものすごく細かいところにもフォーカスをあてられるのに、なんだかナイジェリア社会全体を俯瞰しているようなアディーチェの細やかさが伺える。「傑作小説」といってしまったが読み終わった頃には「最高傑作」なんて言っているかもしれない(他にアディーチェ読んだことない癖に)。

あと、ゾラの『ナナ』と『ジェルミナール』が僕を待ち受けている。ナナはまだ読み始めたところでストップかけているが、ゾラ面白すぎね? まぁ、ゾラ、それから『半分のぼった黄色い太陽』くらい重厚な小説をあと一つくらい読めたら上半期はそれでバンバンザイだな。あと三か月しかないし……

 

困ったのは、人文系である。これは目標を立てたい。

1,柄谷行人『力と交換様式』を通読する

2,東浩紀『訂正可能性の哲学』を通読する

3,中沢新一の『レンマ学』か、それに準ずるような大澤真幸や鷲田清一の評論を一冊読む。

4,人類学の読書を少しでもいいから進める

5,新書をあと2冊読む

 

こんなことを箇条書きで書いていくと、とても三か月では無理な気がする。小説に6割、それ以外に4割の重心で読書を進めたいので、基本的には小説読みが楽しみだが、積みに積んだ人文書をどうにかしてあげたい。知識と教養にも繋がるように。

 

一応、月ごとに最低限の目標を決めるか。今月は……どうしよう(おい)

 

寝ます(';')