本がなかなか通読できない。個人的な話、小説はこれに限らないのだが、特に哲学書である。ちなみに新書などを読み込むのも遅い。

前回、人類学の本を積んでますという記事を書いているのだが、今は読んでない。デスコラの『自然と文化を超えて』が難しすぎるため、副読書を何冊か用意したのだが、日が経つとともにどんどん興味の矛先があちこち飛んでしまい、今は小説を読んでいる。

 

こないだの記事ではこんなことを書いていた。

 

1,柄谷行人『力と交換様式』を通読する

2,東浩紀『訂正可能性の哲学』を通読する

3,中沢新一の『レンマ学』か、それに準ずるような大澤真幸や鷲田清一の評論を一冊読む。

4,人類学の読書を少しでもいいから進める

5,新書をあと2冊読む

 

これを今年の目標とするようだ。これに、

 

6, その他 を付け加えてもいい。おそらく、上半期で達成したいことだった気もするのだが、今の調子では残り三か月で↑は無理そうである。しかし、通年だったらいけるかも。

 

というのは、いろいろ気を散らしていた間、ドゥルーズの『シネマ』と江川隆男の『すべてはつねに別のものである』を読んでいた。とてもいい時間だったのだが、江川は別にしても『シネマ』はじっくり読むものだ。この大著対策にも副読書を一冊用意してある。

 

最近、映画熱が一定程度続いているので、そういった意味で『シネマ』は刺激をくれる。何言っているのかめっちゃ難しいけど。ドゥルーズを通しつつ、イタリアのネオリアリズモが自分なりに理解できたらいいなぁと画策している。

 

デ・シーカを三本見た。フェリーニはまだ二本。ヴィスコンティの『若者のすべて』は本当に素晴らしかった。

まだまだだ。

 

イタリア映画に関する評判高い新書を一冊持っているんだけど、サイレント期から濃密な記述があるので、デ・シーカらが登場するまで読むべきか……?と思って、10頁くらいで止めている。

 

あと、イタリア映画だけ見ていてもネオリアリズモの衝撃や映画史におけるインパクトは理解できないだろう。これは間違いない。だから、フランス戦前派の映画を漁るのも悪くないなぁと思った。アマプラやU-NEXTにごろごろ転がっている。今やサブスク席巻時代にとって映画鑑賞はだいぶハードルが低くなったなぁと思う。

 

映画の話になってしまったが、今は小説を読んでいる。小説と映画鑑賞のために、人文書を紐解く時間がない。こうして振り出しに戻る。

 

小説は、日本の戦後作家を中心に読みたい。具体的には、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、大江健三郎、大岡昇平、その他もろもろ。これが第一の軸。あとは海外小説。古典から現代ものまで幅広く。今はゾラを続けて読みたいという欲が少し芽生えている。今読んでいるのは『ナナ』。

 

SF小説も積んだし、日本の現代作家の小説だって積んだけど、いつターンが回ってくるのやら。そろそろ青地図は書いたので、とりあえず上半期はこういう感じで読書を進め、結果的にどうだったか、六月終わりに振り返ることができるといい。

 

もう三月も後半だぜ。

松村圭一郎『旋回する人類学』2023、講談社

 

 

おそらく現代人類学の本を読むことは、人文知を愛し更新したい者にとって最も最適な道の一つだろう(と思う)。松村圭一郎さんの(岡山大学に勤務中らしい)著作、『旋回する人類学』という本をほんの100頁読んだだけでも、人類学がこの50年あたりで何回も批判・継承・刷新を繰り返してきたことが書かれている。レヴィ=ストロースや中沢新一の名前を挙げるだけではもう時代遅れなのだ、彼らはクラシカルなものとして未だに再読や研究を重ねる知の偉人であって、特に「存在論的転回以降の人類学」は、人文知の最先端にあるのだろう。ホットなものとしての人類学という言い方は少し嫌だが、「人間とは何か、他者とコミュニケーションする(あるいはしたがる)人間とはどういう存在か」「他者は理解可能か」などといった「倫理学」と直接結びつく重たいテーマ、かつ伝統的な西洋哲学が必死に求め続けてきたテーマが重なるので、なるほど21世紀に生きる私たちにとって最重要な課題の一つなわけである。

 

人類学は未開と呼ばれる人々の共同体に赴くだけではない。むしろ、理系のラボや裁判所に出向いて私たち欧米由来の文化そのものにハンマーを擲つような人類学もあるとのことだ。それってすごくないですか。

 

レヴィ=ストロースや中沢新一への愛から始まって、短期間で以下の書を用意できた。

 

一つ目がさきほどの『旋回する人類学』 ……現代人類学のガイド役になればいいなと思って買った。

二つ目 『現代思想』総特集 『人類学のゆくえ』 ……安定の青土社・総特集シリーズ

 

三つ目 100分de名著シリーズ ……中沢×レヴィ=ストロースという古典の最良解説アンチョコ本(アンチョコ言うな)

 

四つ目 クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』 ……満を持して名著の中の名著を購入。楽しみ。未読のレヴィ=ストロースで積んでいるものがあと二冊ある。

 
他にもいくつかあり、特に、雑誌『現代思想』にハマるきっかけとなった2010年1月号の『特集レヴィ=ストロース』という貴重本を実家から持ってきた。中沢新一もたくさん積んである。が、一番の目的はこれである。
 
五つ目 フィリップ・デスコラ『自然と文化を超えて』
 
このデスコラの著作こそが、現代人類学の「存在論的転回」という潮流を生み出した、ターニングポイントとなった書らしい。松村さんの本にも紹介されてあるに違いない。訳者の小林徹さんの本を依然読んだことがあってそれもすごくよかったので、満を持して(何回言うねん)。
 頑張って1/6くらい読み進めてみたのだが、歯が立たない。実はこれ、発刊された当初からずっとほしくて、いつもお金がないないと言って優先度を下げてきたんだけど、それくらい以前から読みたかった。この本を通読するために、他の本を買っているのだ。
 
というわけで今年の人類学関連の読書は、このフィリップ・デスコラの『自然と文化を超えて』を通読するのが最大の目的。それに応じて、入門書や初心者向けのNHKブックス、そして中級レベルの雑誌や邦訳原著を読んでいこうと思う。

 

他に映画の本の話もしようと思ったがあまりに長いのでここでやめ。

高橋源一郎の新刊(2024.2.29刊)

 

さて、はて。先日、高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』とアンデシュ・ハンセンというスウェーデンの精神科医の『メンタル脳』を読んだ。一応どちらも新書サイズであるがおよそ新書らしくない。『メンタル脳』なんかは読書が好きという人であれば一時間以内に読めるようなものだと思う。そこを期待して買ったのだからいいのだけれど。

要は、人間の脳は原始時代からあまりアップデートされておらず、携帯のアラート音や自動車の荒い運転、病気や人間関係の不和などをいちいち命の危険=高ストレスに感じてしまう現代人の(苦)悩に対する処方箋を考える、といったような本だ。脳は賢いが、意外に単純でもあるのだ。そういうことが知れただけでも良かったかな。ただこれだと、養老孟司の本を読んでいた方がよかった気もする。

 

高橋源一郎からは日々影響を受けている。小説家としても面白いし、何よりエラいんだ、この人は。日本文学の行く末を何よりも、作家として永らく過ごしてきた身として責任感を背負って、それでも愉しく真面目に活動している。初期はあんなにデタラメな(最大限に褒めてます)小説を書いていたのに。どんな人が、日本文学を担うような大きな作家になるか、まったく分からないものですね。

 

三月になったが、今年は日本の戦後文学を中心軸に読みたいと思ったのだった。特に吉行淳之介や安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作といった「第三の新人」の小説群(大量に積読された哀れなるものたち)。他にも、大岡昇平、福永武彦、辻邦生、小川国夫、倉橋由美子、武田泰淳&宮本百合子などなど、たくさん古本を所持しているので、積読を崩してドップリ戦後のドロドロネチネチした小説に浸かってみたい。今年はそういう、日本文学ターンの時期にしてみたい(少なくとも上半期は)。

 

海外小説は控えめでいくか。いまんところ、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの傑作小説『半分のぼった黄色い太陽』を半分で止めてしまっている。あまりにも面白く凄くて……天才だな、この作家はと思った。文章の硬質性とかではなく、物語の構成力がすごい。ものすごく細かいところにもフォーカスをあてられるのに、なんだかナイジェリア社会全体を俯瞰しているようなアディーチェの細やかさが伺える。「傑作小説」といってしまったが読み終わった頃には「最高傑作」なんて言っているかもしれない(他にアディーチェ読んだことない癖に)。

あと、ゾラの『ナナ』と『ジェルミナール』が僕を待ち受けている。ナナはまだ読み始めたところでストップかけているが、ゾラ面白すぎね? まぁ、ゾラ、それから『半分のぼった黄色い太陽』くらい重厚な小説をあと一つくらい読めたら上半期はそれでバンバンザイだな。あと三か月しかないし……

 

困ったのは、人文系である。これは目標を立てたい。

1,柄谷行人『力と交換様式』を通読する

2,東浩紀『訂正可能性の哲学』を通読する

3,中沢新一の『レンマ学』か、それに準ずるような大澤真幸や鷲田清一の評論を一冊読む。

4,人類学の読書を少しでもいいから進める

5,新書をあと2冊読む

 

こんなことを箇条書きで書いていくと、とても三か月では無理な気がする。小説に6割、それ以外に4割の重心で読書を進めたいので、基本的には小説読みが楽しみだが、積みに積んだ人文書をどうにかしてあげたい。知識と教養にも繋がるように。

 

一応、月ごとに最低限の目標を決めるか。今月は……どうしよう(おい)

 

寝ます(';')

ででん!中村朝子さん個人訳によるパウル・ツェランの全詩集。Ⅱ、Ⅲも持ってます。人類遺産。

 

去年の年末に記事を書いてからずっと書けないままでいた。

とても、どんよりとしていた、一月・二月。確かに元旦から凄まじい幕開けで始まってしまった。石川県や福井県にいつか旅行に行きたい。将来楽しく趣深く観光できるほどに、無事に復興が進むだろうか。なけなしの募金をしつつ、毎日のニュース(NHKだけは断続的に能登半島震災のことを報じ続けている)に祈る想いを強めることが、遠方者にとってできる最低限のことである。

 

しかし、僕の不調はそれとは特に関係ない。なぜこんなにどんよりとした、にっちもさっちもいかない、煮え切らない、いかんともしがたい日々を過ごしてしまうハメになったのか。

 

僕の日々の充実感は、読書の充実感とけっこう比例している。というか完璧に比例関係にある。

何を読んでも、充実感が乏しいのだった。そしてあることに気が付いた。

去年、かねてより完読したかった三島由紀夫の『豊饒の海』と、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の頁を捲り終えることができたのだった。もっと達成感があるかと思っていたのだ。どちらかというと、「やれやれ、これでやっと完結か……」というどこか醒めた疲労感のようなものが多かった。

読んでいる間が一番楽しかった。

 

こう書くと、作品を最初から最後まで読み通すことが全てなわけではない、のかもしれない、と思う。僕の場合、やれ豊饒の海を読み終わった、失われた時を読み終わった、となると、「さて次はどんな大作にチャレンジしようか」となるのである。これではあまりに三島とプルーストが可哀そうではないか。本を次から次へと積むのは全て自分のせい。

だけど、同じその自分によって、大切に読み終えた偉大な小説の「深堀り」もできるのである。この二作はいずれまた再読しようと考えている。

 

さて、年が明けて一月、濁った頭の中で読み終えた本は以下の(たったの)四冊。

・政野すず子『流刻』(句集)

・フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

・芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』

・『パウル・ツェラン全詩集III』(中村朝子訳)

 

本は何かしら毎日読み散らかしていたというのに、読み終えたのはこれだった。しかも、『ペドロ・パラモ』と『河童・或阿呆の一生』については、読書会の課題対象のようなものだった。僕は課題というものを意識することがとても苦手だ。読書会(のようなもの)も思ったよりも面白くならなかった(あくまで僕の感じ方である)。

おまけに、僕は去年から地方の詩人協会なる文芸団体に所属することになって、「小説以外」の文芸作品を読んだり書いたりすることに俄然興味の矛先が向いたはいいものの、そのバランス感というか、もろもろが中途半端だった気がする。書くこととしての詩を意識しすぎたのだ。そして、パウル・ツェランというこの上なく素晴らしい詩人の豪華な全詩集をすべて読み終えたというのに、またしてもやってきた感情は「やれやれ、やっとすべての詩に目を通したか」という非常に醒めたおよそ人間らしくない怠慢な態度であった。

 

ツェランに懺悔したい気分。詩集は何回も読むのが前提となっている散文だと思っているので、とにかくこの豪華三巻セットをゲットした時点でお前はもう勝ち組なんだ。ツェランの全詩集やぞ。

 

以上まとめると、

詩の同人団体に所属するからと言って、性急に詩を意識しすぎたこと、読書会(のようなもの)を複数セッティングしてしまったこと、壮絶な世相、日々の暮らしの不満、冬の厳しさ、色んな要素が混じってこうなってしまったんだなぁ。

 

対策としてどうすればいいんだろうか。読書において停滞感をなるたけ感じなくするような打順の組み合わせ? 読書偏重主義を改める気は今のところない。読書うまくゆけば生活がうまくいく。生活が巧く行けばありとあらゆる運気が上がって全体的に調子が上向く。いや、そんなにうまくいくかよ。

こちらは新潮社がはるか昔に出した複数訳版。ケース入りとして1970年代に改めて出版されたものと思われる。安価で手に入るなら買ってもよし(個人の判断です)

 

 精神的不調が続き、ずっと放置してしまっていた。あやうくログインパスワードまで忘れてしまうところだったから寸前のところで思い出したぜ。

先日、「しずかなインターネット」というサービスを利用してみた。いいね!もコメント欄もなく、同サービスの記事を見て気になったら感想を送ることができるが、その文面は記事を書いた人だけが見れるという仕組みだ。本当にしずかだなぁと思った笑

各SNSや自分のブログが複数に分散しているので、どこか一括して自分の「インターネット上のリンク集」をまとめることができたらなぁと思う。一応どこかに統括しておいて、使わなくなったサービスがあったらそのリンクを外すみたいな作業をしてみたい。linklink(おそらく)というアプリがあったらあれはどうなのだろう。

 

さて、精神的不調というのは、引っ越しにまつわるものであった。「引っ越しがつらい」と何回かこのブログでも言ってたと思うのだが、無事に済んだはいいものの、やはりあの時期にアップアップしていた心の緊張の糸が切れて、逆にだらだらと停滞期が来ていた感じ。寒さも11月下旬から本格的に(というか、段階的にではなく、いきなり)寒くなり、身体も心もついていけずに毎日に圧倒されていたかもしれない。

 

そんな中、おそらく6,7年前に第一巻を手に取っていらい、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を最後まで読むことができた。感動のフィナーレといいたいところだが、実際、この本を読み終えてもひとしおの感動が巻き起こる、ということはなかった。むしろ『見出された時』なんかは本を読み終えることの寂しさの方がまさっていたくらいだ。この本を読む自分の姿勢は最初から最後まで変わらなかったと思う。そしてそれは怠惰な至福の体験であった。読む前、読み終わった後、というものはこの小説においては存在しない。『失われた時を求めて』を読んでいる現在進行形だけの幸福がある、という言い方が適切な気がする。そしてそれはどういうことかを、説明できると思うのだ。なぜプルーストの小説には、「読んでいる」という現在進行形の幸福があるのか。

 

吉川一義『『失われた時を求めて』への招待』

 

という近年に出された吉川先生(岩波文庫全14巻版の翻訳者だ)の本にも書いてあったが、この小説のポイントは「私」を物語る「語り手」の時制である。そしてそれは冒頭に示される。「語り手」は、これから示される「私」の半生の終着点に「近い」時期を過ごしているところから始まるのである。そしてこの現在は、確かに本文中に何回か出てくるのだ。仄めかされるというくらいの薄い書き方ではあるが。つまり、「この小説を書いている私」という現在進行形の時制がこの小説を読んでいる間ずっと同伴している。物語を主導する「私」は回想される存在であり、それは過去であったり現在完了であったり未来完了であったりする。そして、複数の登場人物たちにもそれぞれの「時制」がある(この点についてはまた想いだしながら書いてみたいくらいだ)。こうして複数の時制が複雑に絡まり合う。そしてその時制のポイント、「《時》の結晶作用」のようなものを眺めるのは、「今・この物語を読む・わたし」なのである。読んでいるという現在進行の渦中の視点にあって、語る私、語られる私、語られる登場人物の時制が把握・統一される。失われた時を求めてとは、読んでいる私たちが、失われてしまった《時》の結晶作用、鮮明さが失われてしまった《時》をいかに「ありありと」再構成することができるか、を追体験する小説なのだと思う。この小説を読みながら時間に対する感触が徐々に崩れていく、違和感を伴ったものとして感じられるのには、こういう哲学的な側面が関係しているはずだ。

 

この小説の魅力を紐解くのは難解そうだ。しかし、夥しいほどのプルースト研究の本が巷にも溢れている。ひとつひとつ探しつつ、僕は違う訳の『失われた時を求めて』をこれから読むつもりである。

岡真理著、『アラブ、祈りとしての文学』みすず書房。現代アラブ文学というのが、どれほど遠く、またどれほど近いものなのか、とにかく気になって買ったが、厳かに大切に読みたい。

 

 

ある作品を「応募」してみた。それは公募というものではなく、定期的に応募作を募って中から審査員のお眼鏡にかなった作品が申し訳程度に載せられるという類のものだが、初めて投稿してみた。それでもプロ作家の審査員の方々の真摯なコメントが付くので、もし掲載される運びになったらあまりにも貴重な経験だ。オンライン投稿は不可なので、封筒、朱色ペン、ホッチキスも買い直した。切手代は120円。それが10月の前半の事だ。

 

 久しぶりに何かを出してみたことによってとても新鮮な気持ちになったが、今日はそれを意識しすぎて、なんだか疲れてしまった。もちろん期待している。けど、門は高く、どうなるかさっぱり分からないし、いきなりなんでも最初から掲載されることはないだろう、そっちの方が可能性が高い。作品を書いていきたいという気持ちは今は高く、実際書いてもいる。これをどれくらい持続させられるか。掲載媒体を買うお金はなんとかなるだろう。しかし、いつまでも自分の作品が載らないものを買っても正直やるせない。

期限を定める必要はないが、とりあえず一年、投稿を頑張ってみるというのはどうだろうか。それで、棒にも箸にも引っかからなかったら、自分にはよほど文学の才能がないのだ。ほんとにそう思う。三十代になって、必死に書いて、それが結局一回も選ばれることのなかったら(すでに僕のお馴染みの悲観モード)、とても哀しい。しかしそれで諦めがつくかどうかも分からない。

 

 投稿先があるというのは、自分にとっては光だ。だけど、その分落選したときの気持ちも大きいだろう。ある意味、"勝負"の世界なのかもしれない。飛び込む勇気のないヤツに、文学(書き手として)は厳しいのかも。しかし、どんなプロ作家や歌人でも、誰でもまずは応募することからはじまったわけだ。

そんな感じで自分を慰めようとするのだが、自分がどうして文芸作品を書き続けるのか、あらためて立ち止まって色々と考えてみたいことではある。それはそれ。

 

引っ越しがいよいよ来週頭から本格的に始動する。今月の末日をもってすべてが終わる。荷物の搬送や、現住所のアパートの片付け・立ち合い以外にも、諸々各所への手続きがある。

今困っているのは、自分のアパートに寄るたび(彼女の家に寝っ転がっているので)、やはり隣人がうるさいのだ。警察も呼んだ(二度)。警察の方はよくやってくれていると思う。警察官も人間で、いい人もけっこういるんだな。

なので、戻るたびに勇気がいる。隣人は過激化していると思う。そのくせ絶対に法に真正面から触れるようなことはしてこない。このような事態に慣れきっているのであろう。不幸をまき散らし続ける人間というものは、このレベルでは初めて出会ったタイプかもしれない。そのためにアパートを変えることになった。これも何かの糧になればいいと思う。一時期はもうすべてが投げやりで、人間不信にも陥ったし、新しくアパートを変えても何にもならないんじゃないか、と様々な事が変な方向に不安と恐れに移り変わっていった時期もあった。いまだに、トラウマとして形成されていると思う。あまりに痛い人生経験であった。よくあることじゃんとかそういう意味ではなく、失敗から何かしらを整理して完璧に立ち直るのにはまだまだ時間がかかるだろう。

 

ついてないなぁと思うことも多くなった最近。悲観的すぎるのもよくないなと思った。行動が状況を変えていく。しかしそれにはエネルギーがいる。

 

パレスチナとイスラエルの状況に胸を痛めている。岡真理さんの『アラブ、祈りとしての文学』を買った。『ガザに地下鉄が走る日』と迷ったが、順番としては(発刊順?)、アラブ~を先に読んで、それからガザ~を読むのが一番いいとかなんとか。でも続いているというわけではないだろう、内容や問題意識がそういった類のものであることはすぐさま予想されるが。

 

同じくみすず書房から、アルジェリアの作家のアシア・ジェバールの『愛、ファンタジア』という小説が、一部でとても人気だ。これもとても気になる。現代アラブ文学というものは僕にとって全く未知の領域で、世界文学を読んでいるとまだまだ知らない世界や価値観にいくらでも遭遇するなぁという。これは愉しみでもあり、悦びでもあり、また哀しみであり、時には怒りの種にもなるだろう。(正しく)知るということは、何にも代えがたい、人間の基本的な権利なのだと思う。

(2011年に放送されたアニメ『日常』。京都アニメーション制作)

 

ずいぶん間隔を空けてしまう。ひとつは、パソコンをあまり触らなくなる期間というものが不断にできてしまうこと。ご飯を食べるとき、U-NEXTでアニメや映画を観るために使っていることが多く、パソコン自体をずっと触るというようなことは最近あまりしてない。スマホばかりいじるより、昔のようにパソコンにかじりつく生活も楽しいだろうか。姿勢がな……問題なんだよ。

 

ちなみに今はU-NEXTで『日常』(全26話)を鑑賞中。あと5話くらい。神アニメ。自分の中でも5本の指に入れるの確定。日常系、空気系のアニメ好きなんだろうな、僕。

 

そう言えばこないだ初めて海外ドラマを完走した。『バンド・オブ・ブラザーズ』という、戦争モノの衝撃作だ。

 

 

金かかってるね~とかいうレベルじゃあない。スピルバーグの『プライベート・ライアン』は素晴らしい映画だが、この全10話(海外ドラマとしてはめちゃめちゃ少ない話数)からなるバンド・オブ・ブラザーズの出来はそれをはるかに上回る(と、僕は強く思っただけ)。ドイツを制圧したアメリカ兵士たちが探索のすえにたどり着いた強制労働キャンプの再現、これがもうトラウマものだった。ホロコーストをめぐる色んな事実はあとからあとから明るみになって、それで後の時代で調査・研究やそれに基づく考証も進むようになっただけで、まさにその得体のしれない強制収容所での「人間」の「今」・実態を眼前にしたときの、このドラマを観ている僕は兵士たちと同様、うちのめされたのだった。「これはいったいなんなんだ?彼らはいったいなんなんだ?」

 

 

引っ越し。旧居の荷造りを90%は終わらせたが、やっぱり隣人が怖くてなかなかアパートに戻れない。明日、本の整理をしに行くつもり。荷物運びはいよいよ再来週だ。バタバタがまた始まるが、引っ越しさえ完了すればあの住みにくいアパートとも、とかく厄介な隣人ともおさらばだ。少なくともそれだけで十分な慰めにはなる。

 

心配しすぎるというのが僕の欠点だ。頭の中でぐるぐる考えてしまう。こういう時は何か行動する、動作をする、相手に直接言ってみる、という勇気を持つ方が、結果的にも今までの経験からいっても、圧倒的に効果がある、効率的ですらある。それでも考え込んでしまうんだから……ある種の病気かもしれない。「考えすぎ病」。

 

新しいアパート……何が待ち受けているかは分からない。大した希望も抱いてないが、さすがに今の物件よりはマシであるだろう。

結局あのアパートは2年で出るという目にあってしまった。これはまたのちに(このブログでも)ざっと振り返りたい。何がどうして、こんなお粗末な事態を呼び起こしたのか。

 

本の話をしようと思ったのにひとつもできなかったではないか。それでいいのだ。

書いていて思ったが、やっぱり引っ越し、それから仕事のことは僕の不安や憂鬱感の95%の原因になっている。煩悩とはよく言うが、この不安や憂鬱は当たり前のものだ。僕が僕の人生を少しでも真面目に引き受けているがゆえの、ということだろう。大事なのはバランスだ。小説を読んだり、詩を書いたりする、それで悦びを得る。ただし、生活上の大切なこと、それから仕事に関する大切なことを疎かにはできない。このバランスの難しさ! それでも以前よりはちょっとずつでもマシになっている、成長しているはずだ。

僕は意味づけをする。あんな狂った隣人を呼び寄せたのは、過去の自分の行いの累積そのものであると。ならば、これを機に、もう二度と隣人問題で揉めない(揉めたというか一方的な被害者に近いのだが……)、とか、そういう「少なくとも不幸ではないこと」=幸せの定義としたショーペンハウアーのような哲学者の考えも参考にすること。彼は実際素晴らしく実用的なことを言っているのだ。 不幸せではないこと、それこそが幸せであり、幸せになろうとするのではなく、不快や苦しみをなるべく少なくすることが、幸福の状態をもたらすのだと。さすがです、大先生。

 

次は、最近読んでいるプルーストの『失われた時を求めて』についてちょろちょろっと書いてみたい。

 

イタリアの作家、ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』。1940年作みたい

 

9月も終わり。このブログを上げている頃には10月に入る。

 

怒涛の一週間だった。自分で自分を追いこむ癖がひどく、どうにかせねばならんと思う。しかし、とりあえず契約まで漕ぎつけることができてよかった。あとは実際に引っ越し、住所変更など諸々の手続きが残っている。半分以上荷が降りたと思っている。

嫌で嫌でたまらなかった。なので初動が遅れた。それは自分の本当に悪い癖なので、嫌なことも少しずつでいいからきちんと済ませておこうと思う。タスクを細かくし、とりあえず目の前の一個、そして次一個と分け、ひとつができたら自分を褒めてあげる(心理的にでもいいし、実際に本を一冊買ってよいとするとかでもいいし)、そういうなるべく心の負担を少なくする方向でいけばうまくいくのではないか。

しかし、このweb日記を書くのも久しぶりになってしまった。引っ越しを想うばかりそのストレスで頭も体もいっぱいになり、読書は強いられた現実逃避でしかなかった。そのなかでもブッツァーティの『タタール人の砂漠』は僕の脳裏に半永久的に焼き付けられるだろう。

 

英語ひとこと日記というのも、たぶんうまくはいきそうにない。とりあえず今日は書いてみるが、添削してくれる人、友達がいない。

 

『タタール人の砂漠』は、孤独な小説である。その孤独さは想像を絶する。「これ、僕の人生だ、こうなっていくに違いない」と思った。寂しかった。家族からも距離を置かれ、友人たちは出世をしていく。主人公のジョヴァンニ・ドローゴは、国境近くの砦勤務の身のまま。そしてタタール人はいっこうに現れない。砦を去る同僚、新しくやってくるやる気のない若者。

それでも、ジョヴァンニ・ドローゴの人生にはささやかな楽しみ、喜悦、安らぎがあったと信じたい。ブッツァーティはそれを直接的には描いていないが、もしそれがなかったとしたらドローゴはこの砦に居続けたはずがないのだ。そして、砦の勤務を続けることは、なんて立派な事だろう。

 

あと、大切な友人のすすめで、アンソロジー企画という形で短編小説を書かせてもらった。迷惑のかけっぱなしだったが、一応形にはなった。とても苦労した。もっと自分が書きやすい小説の形式があると思った。それを見つけなくてはならない。もっと自分が書きやすい方法、自分で書いていて楽しいやり方。次に書く小説のネタは決まっているが、まだ構想中で何も形になっていない。少し文章を書くことから離れていた。それでいい。たまに、スパークするように書けばいい。塵も積もれば山となると言うではないか。

 

I am going to move out next month. It's so tough to do for me that  I always have been tired so much. When I have prepared to move out, I always have been in a strong depression.Now I am a little relaxed because I signed a new contract of my new house successfully. I am going to try my best little by litte.

 

「DeepL Write」というツールを使ったら上の文の不自然な表現を直してくれた。素晴らしいツールだがいつか有料アップグレードへ促されるのだろうかと思うとおいそれと使っていられない。誰か添削……

綿貫陽/マーク・ピーターセン著『表現のための実践ロイヤル英文法』を買った。めっちゃ嬉しい。

 

 このブログは、mistyによる一方的な憂鬱日記の垂れ流しではあるが、僕は常日頃から小説や哲学書を読むのが好きなので、記事を投稿する場合、なにかひとつそうした本や作家、哲学者などの話題には触れたいと思っている(そうしないと何か落ち着かない笑)。特段の知識もないし、作品読解とかできないし、自分が小説を読む際に、何か少しでも哲学的な知識を読解(分析)に活かせないだろうかなどとも考えているのだが、基本的に好きなように読んで好きなように楽しんでいる。

 

憂鬱なる日記とでもいえば、たとえばドストエフスキーの『地下室の手記』だろうか。これは本当に興味深い一冊である。第一部の方がとりあえず大事となってくるが、この時主人公の心を装う"気分"は憂鬱とはかなり違った心的態様のようにも思われる。神経症……再読でもしてみないと分からないが、確かに結果としてはメランコリーな気分であるかもしれないが、今の精神医学界においては、この男には別の現代医学の「診断」が下されるであろう。病名が大事なのではない。ただ、憂うつにしては思考の強度が高すぎる。そして、自我も強い。読まされている方は憂鬱になるが、主人公自体はむしろところどころ高ぶったり自分を癒すためにあの手記を書いているのであろうか。

 

あまり多くの文学作品を読んでいないのでアレだが、ゲエテの『若きウェルテルの悩み』(半分読んだとこで放置したまま)、『マルテの手記』(好きそうな感じがプンプンするのでそのうち読む脳内リストに入っているやつ)なんかも、"憂鬱な日記"に入るのかもしれない。

何回も繰り返し出てくるカフカの『日記』も、というよりは恋人たちに宛てた手紙、『フェリーツェへの手紙』(あとちょっとで読み終わり)、『ミレナへの手紙』(さらっと通読)、こっちの方がカフカの生温かい苦悩の嘆息が聞こえてきそうだ。間違いなく彼は恋愛や結婚といったものに向いていない。それでも彼は恋愛に身を投じた。端的に言ってすこ。この人の生涯は、僕は一生忘れることはないだろう。

 

と、ダラダラ書いたくせにいつものカフカ愛が爆発してしまったが、ここいらで英語日記でも書いて本稿は閉じることにしようか。

英語の勉強、ボチボチ本格的に(といっても良質な材料を揃えてモチベが高まっているだけだが)再始動しますかね。

 

Tuesday, 19th Septemer    I bought some magnificiant English reference books, one of them  "THE ROYAL ENGLISH GRAMMAR for Practical Expressiveness". It is good enough to learn English for time being. First, I am going to learn grammer deligently.

 

今日はいくつかの素晴らしい英語の参考書を買った。これで英語学習に必要な書籍は当面の間揃った。あとは実行するのみ。まずは英文法に立ち戻ってみよう。

 

 

↑《うつトンネルの二週間》を象徴するような読書だった。笠井潔『テロルの現象学 増補新版』

 

 9月5日に県庁所在地の駅に隣接する本屋に立ち寄って、上の笠井潔『テロルの現象学』を買った。昔から読みたかったのである。

普通版→文庫版→増補版→増補新版と、何回も装いを変えて販売されている本書は、たしかにすごい。構えや言葉遣いがすごいのだ。

笠井潔はミステリー小説家としても大成しているが、とにかく分厚い本を何冊も出す。知の巨人といったところだろう。小説を書きながら評論活動を旺盛にしている作家は、随分少なくなってしまった。

 

 とはいえ、この『テロルの現象学』を買って何日かおいてから読み始めてから、僕の人生は難しくなった。

ひとつは引っ越しである。引っ越すか契約更新料を甘んじて払うかの二者択一をずっとほったらかしにしておいたので、前者の方を選んだのはまぁ良かったのだが、結局その後もダラダラと荷造りや新居決めをやっているにすぎない(9/19時点では新居はまだ確定していない)。

 引っ越しが重くなってしまうのには理由がある。ここでぶちまけたい気もするのだが、まだ新居に無事に移り住むことができるまでは、書くまい。

 

 体調もイマイチである。まぁでもやっぱり引っ越しだな。これが徐々に色んなことに悪影響を与えていき、読書の質もとても悪くなった。

僕は、悪い側面がほとんどだと思うのだが、自分の人生の調子を、読書の調子で捉えている節がある。バロメーターっぽくなっているのだ。別に読書芸人をやっているわけでもなんでもないんだけど、読書の調子がいい時は満足度が極めて高く、読書が進んでいないとやはりなにかで満たされても「ゴマかしている」気になるのだ。これは僕の一つの"病理"かもしれない。

 

そんなこんなで、晦渋な『テロルの現象学』のぬらつくような重たい磁場から抜けられなくなってしまった。それがほとんど二週間だ。昨日、「まぁこんなとこでええやろ!」って、増補されている論文を半分くらい読み終えたところで、もういいやってなった。重要なのは笠井氏がまだ血も滾る俊英の時に構想し書いた本論が肝であって、それから二、三十年と経って継ぎ足された増補分の文章はやはり本論の切れ味とは比べものにはならない。

 

それでもいい読書だった。ほとんどが丁寧な注で書かれていることの、雑学的な知識にとどまってしまったが。1968年問題はかくも複雑だ。

 

そんなわけで、今日からウツ抜けできているといいな~と思う次第である。僕は、ウツが抜けたらそれまでのあれこれ放棄していたto do listをえいやっ!と一気に片づけようとする癖がある。ほんとはもっとこまめにやるのがいいんだろうな。失敗から学ばないのはただのサルだ。猿人であるmistyよ……

 

 

I had been in depression for recent two weeks. I had tried to read "The Phenomenology Of Terrorism", written by Kiyoshi Kasai, but it was so hard to do. Today I feel good so I want to go my way little by little.

 

ここ2週間、気分がずっと落ち込んでいた。それで読書も本当に進まなかった。今日からまた少しずつ明るく生活できればいいかな。