ででん!中村朝子さん個人訳によるパウル・ツェランの全詩集。Ⅱ、Ⅲも持ってます。人類遺産。

 

去年の年末に記事を書いてからずっと書けないままでいた。

とても、どんよりとしていた、一月・二月。確かに元旦から凄まじい幕開けで始まってしまった。石川県や福井県にいつか旅行に行きたい。将来楽しく趣深く観光できるほどに、無事に復興が進むだろうか。なけなしの募金をしつつ、毎日のニュース(NHKだけは断続的に能登半島震災のことを報じ続けている)に祈る想いを強めることが、遠方者にとってできる最低限のことである。

 

しかし、僕の不調はそれとは特に関係ない。なぜこんなにどんよりとした、にっちもさっちもいかない、煮え切らない、いかんともしがたい日々を過ごしてしまうハメになったのか。

 

僕の日々の充実感は、読書の充実感とけっこう比例している。というか完璧に比例関係にある。

何を読んでも、充実感が乏しいのだった。そしてあることに気が付いた。

去年、かねてより完読したかった三島由紀夫の『豊饒の海』と、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の頁を捲り終えることができたのだった。もっと達成感があるかと思っていたのだ。どちらかというと、「やれやれ、これでやっと完結か……」というどこか醒めた疲労感のようなものが多かった。

読んでいる間が一番楽しかった。

 

こう書くと、作品を最初から最後まで読み通すことが全てなわけではない、のかもしれない、と思う。僕の場合、やれ豊饒の海を読み終わった、失われた時を読み終わった、となると、「さて次はどんな大作にチャレンジしようか」となるのである。これではあまりに三島とプルーストが可哀そうではないか。本を次から次へと積むのは全て自分のせい。

だけど、同じその自分によって、大切に読み終えた偉大な小説の「深堀り」もできるのである。この二作はいずれまた再読しようと考えている。

 

さて、年が明けて一月、濁った頭の中で読み終えた本は以下の(たったの)四冊。

・政野すず子『流刻』(句集)

・フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

・芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』

・『パウル・ツェラン全詩集III』(中村朝子訳)

 

本は何かしら毎日読み散らかしていたというのに、読み終えたのはこれだった。しかも、『ペドロ・パラモ』と『河童・或阿呆の一生』については、読書会の課題対象のようなものだった。僕は課題というものを意識することがとても苦手だ。読書会(のようなもの)も思ったよりも面白くならなかった(あくまで僕の感じ方である)。

おまけに、僕は去年から地方の詩人協会なる文芸団体に所属することになって、「小説以外」の文芸作品を読んだり書いたりすることに俄然興味の矛先が向いたはいいものの、そのバランス感というか、もろもろが中途半端だった気がする。書くこととしての詩を意識しすぎたのだ。そして、パウル・ツェランというこの上なく素晴らしい詩人の豪華な全詩集をすべて読み終えたというのに、またしてもやってきた感情は「やれやれ、やっとすべての詩に目を通したか」という非常に醒めたおよそ人間らしくない怠慢な態度であった。

 

ツェランに懺悔したい気分。詩集は何回も読むのが前提となっている散文だと思っているので、とにかくこの豪華三巻セットをゲットした時点でお前はもう勝ち組なんだ。ツェランの全詩集やぞ。

 

以上まとめると、

詩の同人団体に所属するからと言って、性急に詩を意識しすぎたこと、読書会(のようなもの)を複数セッティングしてしまったこと、壮絶な世相、日々の暮らしの不満、冬の厳しさ、色んな要素が混じってこうなってしまったんだなぁ。

 

対策としてどうすればいいんだろうか。読書において停滞感をなるたけ感じなくするような打順の組み合わせ? 読書偏重主義を改める気は今のところない。読書うまくゆけば生活がうまくいく。生活が巧く行けばありとあらゆる運気が上がって全体的に調子が上向く。いや、そんなにうまくいくかよ。