コスモース。



先週のエンジェルトランペットと同じ日に撮影。
もう3週間ぐらい経っちゃいましたが、結構寒くなるまで咲いてるんですね。

では今週の記事について。
内容は「喜び」とか「幸福」についてですから、まあ「幸せになるために何ができるか」ってことですよね。
本当なら、興味深い記事になりそうなんですが、やはりダメでした。

どこがダメかというと、まず根拠もなく一般の人を偏見で見ているところ。
そして、ちゃんと「幸せになるために何ができるか」の答えを出していないところ。

ほんじゃあその辺に突っ込みますね。

まず1節から。
今​は「終わり​の​時代」な​の​で,誰​も​が「困難」に​ぶつかっ​たり,気持ち​が​落ち込ん​だり​する​こと​が​あり​ます。

これ。
勝手に「終わり​の​時代」のせいにしてますけど、逆に今までに『誰​も​が「困難」に​ぶつかっ​たり,気持ち​が​落ち込ん​だり』しない時代があったとでもいうんでしょうか。
たぶんソロモンの治世中でも、誰もが「困難」に​ぶつかっ​たり,気持ち​が​落ち込ん​だりしてたと思いますよ。


次、9節。
今​の​世​の​中​に​は,自分​の​願い​が​全て​かなわ​ない​と​幸せ​に​は​なれ​ない,と​いう​考え​が​広まっ​て​い​ます。

根拠なーし!
広まってるってどの程度ですかね?
こうやって世の中の人達に勝手にレッテル貼って、見下すように仕向けてるんですよね。全くやり方がいやらしいです。


で、同様なのが14節。
SNS​で​は,自分​の​好き​な​こと​を​好き​な​だけ​すれ​ば​幸せ​に​なり,満足​できる,と​いう​考え方​が​広まっ​て​い​ます。

これも根拠なーし!!
どのSNSでその考え方が広まってて、どの割合の人がその考え方に染まってるのか、なーんにも情報がありません。
証拠を出せ証拠を。
統計を出せ統計を。
根拠もなく人の考え方を決めつけ、それを元に見下すのが、イエスに従う人達のすることだとはとても思えません。


では次に、ちゃんと「幸せになるために何ができるか」の答えを出していないところ。
まあ全体なんですが、特に7節。
私たち​も​エホバ​と​親しく​なる​なら​本当​の​幸せ​を​味わえ​ます。エホバ​に​つい​て​学ん​で​エホバ​と​一緒​に​時間​を​過ごせ​ば​過ごす​ほど,そして​エホバ​に​倣え​ば​倣う​ほど,幸せ​が​大きく​なっ​て​いき​ます。また,エホバ​の​望む​こと​を​行っ​て​エホバ​から​喜ば​れ​て​いる​こと​を​実感​する​と,幸せ​を​味わえ​ます。

これ。
本来なら、幸せになるために具体的に何をすればいいのかと、なぜそれで幸せになれるのかの説明がセットで扱われる必要があります。
ここでは、それをぜーーーーーんぶ放棄して、水戸黄門の印籠のように「エホバ」出して、解決したことにしてます。

極論言えば、「エホバ​に​倣え​ば​倣う​ほど,幸せ​が​大きく​なっ​て​いき​ます」っていうなら、エホバにならって邪悪な人を滅ぼしたら幸せ♥になるってことになります。


そんな権威はありませんし、絶対幸せになんかなれません。

具体的な例も大して出さずに、「エホバ​と​親しく​なる」だの、「エホバ​と​一緒​に​時間​を​過ごせ​ば​過ごす​ほど」だの、煙に巻いて誤魔化してます。
これじゃあ当てはめようがありません。
こんなんだから、JWに幸せな人がほとんどいないんですよ。


次。適用が馬鹿らしい16節。
イエス​は「受ける​より​与える​方​が​幸福​で​ある」と​教え​まし​た。長老​の​アレコス​兄弟​は​こう​言っ​て​い​ます。「ちょっと​し​た​親切​を​する​よう​に​し​て​い​ます。人​の​ため​に​何​か​を​すれ​ば​する​ほど,自分​の​こと​に​目​が​行か​なく​なっ​て,幸せ​に​なれ​ます」。

「与えること」の価値は認めます。
「ちょっと​し​た​親切」も良いでしょう。
でも、「幸せ」になる理由は、「自分​の​こと​に​目​が​行か​なく​なっ​て」ではないでしょう。
個人的には、人からの感謝や、感謝されなかったとしても「自分が誰かの役に立っている」とか「自分が愛を示している」という実感が、心の奥の自尊心を満たして、幸せになるのだと思っています。


最後。繰り返しになりますがまとめの17節。
私たち​は,お父さん​エホバ​と​親しく​なれ​ば​なる​ほど​幸せ​に​なれ​ます。

結論すらこれですよ。

「エホバ​と​親しく​」なるとはどういうことなのか、何をする必要があるのか、そしてなぜそれで幸せになるのかに、ほっとんど触れずにこんなことを書いても何の役にも立ちません。
というわけで、結局この記事も価値がありません。

今週は以上です。

エンジェルトランペット。




こんな季節に咲くんですね。
なんでも全体に毒があるらしいです。
間違えて食べると、天使のラッパが聞こえることになるからエンジェルトランペットなんですかね?


さて今週の記事についてです。

なんていうか…

うんざりする記事でした。

だってさあ!
そもそも他人のことを「正しい​態度​を​持つ​人」とか評価してる段階でかなり失礼でしょ!
「聞かない奴は正しい態度がない!」って言ってるのとおんなじだからね。

それでいて、相手を気遣っているかのような、小手先のテクニックとか、現実を誤魔化してさも魅力的であるかのように見せかけたものばかり羅列されてる。
「神権宣教学校()」では、相手のことを真剣に考えるから熱意も出るし、相手も聞く気になるってなことを教わった覚えがありますが、その辺はもうなくなっちゃったんですかね。

んじゃ、まずはその小手先のテクニックに突っ込みますね。
まず6節から。

レッスン​を​上手​に​始め​て​いる​兄弟​姉妹​に​よる​と,地域​に​よっ​て​は​聖書​レッスン​を​勧める​時,「研究」と​か「講座」と​か「教え​て​あげる」と​いう​言い方​を​し​ない​方​が​よい​よう​です。

この組織は結構言い回しにこだわりますよね。
昔は「み使い」一択で、「天使」なんて言おうもんならバビロン呼ばわりされたもんですけど、今じゃ「天使」一択で、「み使い」なんて言うのは私みたいな頭の固い懐古厨ぐらいじゃないでしょうか。
この「レッスン」もそうです。
昔は「家庭聖書研究」でしたよね。
私なんか今でも「レッスン」という呼び方に抵抗があるんですけど、その言い回しを変更して家の人への抵抗を少なくすることが目的みたいです。
そのために、過去の呼び方を全否定してますからね。
全くもってバカバカしいです。

レッスンゴレライ。
(古っ!)


さて次。
誤魔化して魅力的であるかのように見せかけてる箇所。8節。集会についての説明から。
議論​を​戦わせる​こと​も​あり​ませ​ん。

これは実際その通りなんだけどさあ。
むしろ信者それぞれに、個人の見方はあるんだし、聖書なんて解釈が分からないことだらけなんだから、議論をするぐらいが健全なんじゃないの?
上意下達ばかりで、組織の意見を確認するだけの作業のどこが研究なのよ?
自分の意見なんか言おうもんなら、下手すりゃ第二会場に呼び出されて助言受けるんですよ?
で、従わなければ追い出されるんですよ?
そりゃ議論なんかできませんよ。


次。同様に誤魔化して組織を美化してる箇所。9節。
子供​向け​の​特別​な​クラス​が​ある​わけ​で​は​なく,親子​で​一緒​に​座っ​て​学べ​ます。

「親子​で​一緒​に​座っ​て​学」ぶって、子供にとっては苦痛でしかないんですよ。
意味の分からない話を、何時間もじっと座って聞かされるんですよ?
しかも足をぶらぶらしたりすると、トイレに連れてかれてガスホースで生尻を血がにじむまでひっぱたかれる。
最近久しぶりに「たもさん」の「カルト宗教信じてました」を読んだんですけどマジヤバかったですよね。
こんなの子供向けのクラスがある方が絶対いいって!

そういえば何年か前に近所の教会のクリスマスイベントに行ったことがありますが、そこは子供のための部屋が有って、その部屋では子供が自由に過ごせてました。(今年もクリスマスイベントへのお誘いをいただきましたが、もう行かないかな)

逆にJWなんか、第二会場でも子供が声をあげようもんなら、話が終わったばかりの巡回監督がやって来て「うるさい!」とか言ってくるからね。
小さな子供がうるさいのは当たり前だろ、馬鹿かてめーは。


次。同じく9節。
高級​な​服​を​着​て​くる​必要​は​ない,と​いう​こと​も​伝え​て​あげ​られ​ます。神​に​とっ​て​大事​な​の​は​外見​より​も​心​の​中​だ​から​です。

これも完全に建前ですよね。
実際には、タイトパンツはだめとか、演題上がるなら背広必須とか、スカートはスリット不可とか、座った時に膝が見えたら丈が短いとか、外見にめちゃめちゃこだわってます。
ある兄弟なんか髪の毛伸ばしてたら「ふさわしくない」とか言われたんで、思い切って高校球児みたいな髪型にしたら今度は「短過ぎる」って助言受けてましたからね。
とうしろっていうんだ。


さて最後。まとめ。3節。
伝道​で​興味​を​持っ​て​話​を​聞い​て​くれる​人​に​会っ​たら,その​人​が​永遠​の​命​に​つながる​道​を​歩き​始め​られる​よう,すぐ​に​助け​ましょ​う。

ここからして建前なんですよね。
「永遠​の​命​に​つながる​道」なんてものは集団妄想でしかなく、その約束は空手形で、決して支払われることはありません。
それでいて、時間も金銭も体力も持っていかれます。
2節でも「できる​だけ​早く​キリスト​の​弟子​に​なれる​よう​に​助け​たい​と​思う​はず​です。」なんてありましたが、実際は「キリスト​の​弟子​」ではなく、組織が成長するための養分にしてるだけです。

人を救うつもりで、一緒に穴に落ち込む巻き添えを増やしているわけです。

考えてみりゃとんでもないことですね。

一人でも多くの人が気付いて脱出してほしいですね。

今週は以上です。

撮ったどー。



皇帝ダリア。

寒くなってきた季節の癒しですね。

紅葉も綺麗ないい季節です。(ちょっと寒いけど)



さて、今週の記事についてです。

主題は「人​を​心​から​敬う​に​は」でした。


いや、人を敬うのは良いことですから、全く反対しませんよ。

まあ、この組織の敬意なんてのは実際は絵に描いた餅で、全く実践できてないのは嘆かわしいところですが。

そもそも、組織外の人のことを「未信者」って言うだけでも失礼なのに、「(サタンの)世の人」とか言って完全に見下してますからね。

他の宗教の人に至っては「大いなるバビロン」呼ばわりしてる。

これで、敬意を示せったって無理に決まってますよ。


良かったと感じたのは4節の

大事​な​の​は,心​から​の​尊敬​の​気持ち​で​相手​を​大切​に​する​こと​です。


ここだけでしたね。


そもそも。

この記事全体で、根本が間違ってると思うんですよ。

8節から。なぜ家族を敬うべきかについて。

家族​と​いう​制度​を​作っ​た​の​は​エホバ​です。それ​で​家族​の​一人一人​を​敬う​なら,エホバ​を​敬っ​て​いる​こと​に​なり​ます。


この「エホバを敬っていることになるから、家族に敬意を払う」ってのがおかしい。

これじゃあ、エホバに喜ばれるために、仕方なく敬意を払うってことになるじゃないですか。

これじゃあ4節にあった「心​から​の​尊敬​の​気持ち」なんて出てきっこないですよ。



で。

ここでは「家族に」敬意を示すことについてでしたが、この後「クリスチャン仲間に」と「証人ではない人に」って続くんですけど、ぜーんぶ根拠が上のとおんなじなんですよ。


12節。仲間に対して。

仲間​を「自分​の​方​から​進ん​で」敬い​たい​と​思い​ます。そう​すれ​ば​エホバ​を​敬っ​て​いる​こと​に​なり​ます。


16節。信者でない人に対して。

エホバ​は​私たち​が​何​を​言う​か,どんな​言い方​を​する​か​に​注目​し​て​い​ます。その​こと​を​考える​と,エホバ​の​証人​で​は​ない​人​に​も​深い​敬意​を​払い​たい​と​思う​の​で​は​ない​でしょ​う​か。


「心からの尊敬の気持ち」って、そうやって「神に言われたからやる!」みたいな、思考停止状態から出てくるものじゃないと思うんですよねぇ。


じゃあどうやって、心からの敬意を示すようにできるかってことなんですけど、これは結構難しい。

この数日考えたぐらいじゃいまいち結論は出ませんが、私なら「神が敬意を示すように命じた理由をじっくり考える」ことが必要なのかなぁと思いました。

敬意を示すことが、自分と相手の益になることが腑に落ちれば、相手の良いところを見られるようになるし、自然と敬意も示せるようになるんじゃないかなぁと。


まあ、この方法だと、相手がろくでもない奴の場合は敬意を示せないということが発生しますが、それはそれで良いのではないかとも思います。


10節の経験で

姉妹​は​病気​に​なっ​た​父親​を​よく​世話​し​まし​た​が,父親​は​姉妹​に​つらく​当たり​まし​た。


なんてのがありました。

詳しい状況は分からないんでなんとも言えませんが、世話させといて感謝しないような奴に、「心からの尊敬の気持ち」なんか持てないのが正常なんじゃないですかね?



最後。7節。

家族​に​失礼​な​態度​を​取っ​て,家庭​を​居​心地​の​いい​場所​に​する​どころ​か,息​が​詰まる​よう​な​場所​に​し​て​しまう​人​も​い​ます。


これなんですが、JWだと「(未信者の)家族​に​失礼​な​態度​を​取っ​て,家庭​を​居​心地​の​いい​場所​に​する​どころ​か,息​が​詰まる​よう​な​場所​に​し​て​しまう​人」ってのが大勢いますよね。

こんな記事で、敬意を示せなんて言ってますが、結局普段の信者でない人を見下す態度が、家族への敬意を示せなくしてるんだと思います。


本当に絵に描いた餅だと思いました。


今週は以上です。


なんかわからないけどちっちゃい花。


ググるとバーベナってのが出てくるけど、合ってるか不明。
さすがに寒くて花もなかなか見当たらなくなってきました。
と書いてたら、皇帝ダリアが咲いてました。
来週までに撮影できるといいなぁ。


さて、今週の記事について。
今週の記事も、典型的な「問題から目をそらすだけ」の記事でした。
主題は「不​公正​な​世​の​中​で​私たち​に​できる​こと」なのに、結局改善のためにはなにもできないという、恐ろしい結論。

まあ、読む価値ありませんなぁ。

んじゃ突っ込んでいきますね。
9節。信者の意見。
私​が​声​を​上げ​た​ところ​で​世​の​中​が​変わる​わけ​で​は​あり​ませ​ん。でも​エホバ​なら,ひどい​目​に​遭っ​て​いる​人​を​みんな​救える​ん​です。

いやさぁ。
確かにそうそう不公正を正すなんてことはできないよ。
将来(何万年先かもしれない)には、もしかしたら本当に神様が解決してくれるかもしれない。
でも、それまで手をこまねいて、改善のためになーんにもしないように勧めるってのはどうなのよ?
声をあげるからこそ変わるものもあるんじゃないの?
例えば、現代に奴隷制度があったとします。
JWはみーんな、「自分が声をあげても何も変わらないから」とか「エホバが正されるから」とか言って、なーんにもしないんですよ。

それじゃ奴隷制度なくならないでしょ!!

昔の人が頑張って声をあげたから、植民地とか奴隷制度とかがなくなってきたんじゃないの?

もちろん某山上の垂訓さんみたいに、強硬手段に出るのはいろいろと問題になりますから、それを勧めたりはしませんよ。

でも、改善のための努力をしないように勧めるのもおかしいと思うんですよ。

「給料が未払いで困ってます」って時に、「いつか神様が解決してくださいます」とか言われても何の役にもたたないの!問題は解決しないの!ご飯は食べられないの!


次。14節。
イエス​に​倣っ​て​全て​の​人​を​愛する​こと​が​大切​です。その​よう​な​愛​が​あれ​ば,どんな​人​に​も​敬意​を​込め​て​接し​たい​と​思える​よう​に​なり​ます。理不尽​な​態度​を​取る​人​に​も​です。

これもです。
給料未払いの社長を相手に、「敬意を込めて接したい」と思えるのはご立派かもしれませんが、やはり問題は解決しません。
むしろ、その悪徳社長とそれ以外の親切な直属上司とかに同じ敬意を込めた接し方とかしてたら、それこそが不公平なんじゃないですかね?


次、16節。9節と同じ人の感想。
「聖書​を​学ん​で​から​は,不当​な​目​に​遭っ​たり​世​の​中​の​不正​を​見​たり​し​て​も,心​が​乱さ​れる​こと​は​なくなり​まし​た。エホバ​が​教え​て​くれ​た​こと​の​おかげ​で,安心​感​を​持て​まし​た」

出ました。
問題から目をそらしてるだけで何も解決してないのに、さも解決できたかのような表現。

しかも、これって「同情心の欠如」と表裏一体なんですよ。
他人のことでも、不正を見たら気の毒に思ったり、「正されるべき」と感じるのが、むしろ正常なんじゃないですかね。
人が不公正に苦しんでるのを見て、「心も乱されないし、安心感がある」とか、人でなしも良いとこですよ。自然の情愛が全くありません。

まあ、私もJW2世てすから結構こう考えてしまうんですけどね。完全に人でなしです。JW辞めて、やっとそのおかしさに気づいて来たところです。

そもそも、イエスは「羊飼いのいない羊」のような人達を見て、憐れに思ったんですよね。で、行動してました。
決して、エホバがいずれ正されるからと、「心も乱されないし、安心感がある」とか言ってませんでした。

クリスチャンってのは、イエスにならう人達のことのはずですが、クリスチャン名乗りながら人への同情心が無いってのは問題だと思います。


さて最後。
ちょっと別のことを4節から。
ある​時​イエス​は​片手​が​まひ​し​た​男性​に​会い,ぜひ​治し​て​あげ​たい​と​思い​まし​た。でも,心​が​冷たい​宗教​指導​者​たち​は​イエス​と​は​全く​違い​まし​た。かわいそう​な​その​人​を​助ける​こと​で​は​なく,安息​日​の​律法​を​事細か​に​守る​こと​だけ​を​考え​て​い​まし​た。イエス​は​そう​いう​人​たち​を​見​て​どう​思っ​た​でしょ​う​か。「人々​の​心​が​無​感覚​な​の​を​深く​悲​し」み​まし​た。

これを、イエスを医者に、まひした人を怪我人に変えると面白いことが分かります。

ある​時​医者は出血多量の男性​に​会い,ぜひ​輸血して治し​て​あげ​たい​と​思い​まし​た。でも,心​が​冷たい​JWたち​は​医者と​は​全く​違い​まし​た。かわいそう​な​その​人​を​助ける​こと​で​は​なく,輸血に関する自分達の規則を​事細か​に​守る​こと​だけ​を​考え​て​い​まし​た。

状況はイエスの時と一緒ですよね?
JWはイエスにならってるんでしょうか。それともイエスに糾弾された宗教指導者たちにならってるんでしょうか。

私は、最後の一文の『イエス​は​そう​いう​人​たち​を​見​て​どう​思っ​た​でしょ​う​か。「人々​の​心​が​無​感覚​な​の​を​深く​悲​し」み​まし​た。』は、そのままJWにも当てはまると思います。

やっぱJWは人でなしばっかりだわ。

今週は以上です。
花の写真が切れちゃったので、古い写真から。
アベリア。


コイツは年がら年中咲いてるイメージです。
花園衝羽根空木(ハナゾノツクバネウツギ)って名前があるそうです。
なんとかウツギって覚えてました。
オオスカシバが蜜を吸いに来るんですが、小さい頃は蜂に見えて怖かった思い出があります。


あー。
今年は年末から年度末にかけてなんかやたらめったら忙しくなるみたいです。
更新が滞るかもしれませんがよろしくお願いします。


さて今週の記事についてです。

長老に頼れって内容なんですが、だったらまず「長老の質を上げろよ」と言いたい。
まあ、話しやすい親切な長老もいないわけではありませんでしたが、なんせ質が悪い(しつ、たちどちらでも可)長老の被害が大きすぎる。

人の家庭のことにずうずうしくも踏み込んできて、進路に口出ししたりして、未信者家族との亀裂を作り広げる。下手すりゃ一家離散になる。
しかも、それを真理ゆえの離婚のように美談でもあるかのように扱う。
ちげーよ。お前が人様の家庭を破壊しただけだよ。

まあ、未信者のいる家に来て酒飲んで酔っ払って「ち◯こー!」って叫んでたのも長老でしたから、長老に人格者であることを期待するのが間違ってるんですけどね。
まだ学生の娘さんもいる家なのにねぇ。


で。
今回の記事では、長老が用いられてるってことをしっつこくしっっっつこく言ってたので、「そうじゃないんじゃねーのー?」という部分に突っ込もうと思います。

まず4節。
ここ​で​いう​病気​と​は,エホバ​と​の​絆​が​弱く​なっ​て​いる​状態​の​こと​です。文脈​から​それ​が​分かり​ます。例えば,医師​で​は​なく​長老​を​呼ぶ​よう​に​と​勧め​て​い​ます。癒やさ​れる​ため​に​は​罪​が​許さ​れる​必要​が​ある​と​も​言っ​て​い​ます。分かり​ます。例えば,医師​で​は​なく​長老​を​呼ぶ​よう​に​と​勧め​て​い​ます。癒やさ​れる​ため​に​は​罪​が​許さ​れる​必要​が​ある​と​も​言っ​て​い​ます。

これね。
勝手に「病気」を「エホバ​と​の​絆​が​弱く​なっ​て​いる​状態」とか決めつけてるけど、違うように思うんですよねぇ。

ちなみに引用されている聖句は
あなた方の中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たちを自分のところに呼びなさい。そして,エホバの名において油を塗ってもらい,自分のために祈ってもらいなさい。そうすれば,信仰の祈りが病んでいる人をよくし,エホバはその人を起き上がらせてくださるでしょう。また,その人が罪を犯したのであれば,それは許されるでしょう。

確かに、「医師​で​は​なく​長老​を​呼ぶ​よう​に」とは言われてますが、それだけでは根拠にならないと思います。
例えば、悲嘆に暮れて病気になった場合は、今でも医者より牧師呼ぶような人が海外とかにはいそうです。
そもそも、まだ科学が発達してないうえに、本物の悪霊が跋扈していた1世紀、医者が役に立たない病気も多かった可能性もあります。

それに、「癒やさ​れる​ため​に​は​罪​が​許さ​れる​必要​が​ある​」とはどこにも書かれてないんですよ。
「罪を犯したのであれば,それは許される」と、あくまで「ついで」として書かれています。

この、聖書に書かれてないことをさも書かれているかのように扱うところは、この組織の大嫌いなところです。


次。6節。
会衆​から​除か​れ​かね​ない​重大​な​罪​を​犯し​て​しまっ​た​なら,長老​に​話し​て​ください。そういう​場合,自分​一​人​で​エホバ​と​の​絆​を​取り戻す​こと​は​でき​ない​から​です。

はあ?
イエスの贖いが適用されるかどうか長老が決めんの?
お前何様?

ちなみにここの根拠については
エホバ​に​許し​て​もらう​に​は「悔い改め​た​こと​を​示す​行動」を​取ら​なけれ​ば​いけ​ませ​ん。その​行動​の​1​つ​が​長老​に​話す​こと​です。

とか出てます。
ところがここで引用されている聖句は
悔い改め,かつ悔い改めにふさわしい業をして神に転ずるようにとの音信を伝えてまわりました。

だけです。
どこにも長老とか出てきてねーぞ、おい。

結局ここも、聖書に書かれてないことをさも書かれているかのように扱ってるだけなんですよね。
だいたい、普段は「いつ祈っても神は聞いてくださる」とか「祈りを聞くことは、神はイエスにも任せなかった」とか言ってるくせに、なんで罪を悔い改めた時は長老の仲介がないと神は聞かない、なんて教えてるんですかね?
酷い矛盾です。


次。9節。
気​が​引ける​と​し​て​も​長老​に​助け​を​求め​て​ください。どうして​でしょ​う​か。エホバ​が​そう​勧め​て​いる​から​です。(中略)たとえ​罪​を​犯し​て​しまっ​た​と​し​て​も,告白​し​て​悪い​行い​を​やめれ​ば​エホバ​から​許し​て​もらえ​ます。

これもさらっと「エホバ​が​そう​勧め​て​いる​から​です。」とか書いてますが、根拠はありません。エホバはそんなこと勧めてません。
根拠のように挙げられている格言の聖句は
自分​の​違犯​を​覆い隠し​て​いる​者​は​成功​し​ない。しかし,[それ​を]告白​し​て​捨て​て​いる​者​は​憐れみ​を​示さ​れる。

という内容ですから、どっこにも「長老」なんか出てきません。神に直接告白すればいいだけです。

なんでこうやって聖書に書かれてない権威を長老に付与しようとするんですかね?
そこまでして、信者を精神的に隷属させたいんですかね?


次。13節。
長老​たち​は「エホバ​の​名​に​よっ​て​油​を​塗っ​て」くれ​ます。「油」と​は​聖書​の​真理​の​こと​です。

なんで「油」が「真理」とか決めつけてんですかー?
良きサマリア人も、怪我に油塗ってましたから、油塗るのは普通の治療なんじゃないですかね?
これも聖書を勝手に偏って解釈してるとしか思えません。


次も13節。最後。
長老​たち​を​通し​て,「これ​が​道​で​ある。この​道​を​歩み​なさい」と​いう​エホバ​の​声​を​聞く​こと​が​でき​ます。(イザ 30:21)
ここも、イザヤの聖句には「長老」のちの字も出てきません。
なんで勝手に、全く聖書に書かれてないのに「長老​たち​を​通し​て」とか追加してんの?
聖書に全く敬意を持ってないの?
本当に意味が分かりません。


たぶん古代イスラエルでは、長老が用いられてたんでしょう。
きっと1世紀も、神から任命された長老がいたのだと思います。
でも、今も同じことが行われているという証拠は何もありません。
ましてや、人の家で酒飲んでち◯こち◯こ叫んでる奴が、神からそんなだいそれた権威を与えられているはずがありません。

「長老​たち​を​呼ん​で​ください」なんて主題でしたが、無理に呼んでもたぶん害になりこそすれ、益は無さそうです。

今週は以上です。
近所の神社の菊花展


やっぱりボリュームが大きいと迫力がありますね。
私はオーソドックスな黄色が好きだなぁ。


さて、今週の記事についてです。
ずいぶんちぐはぐな内容だなぁ、という感想でした。
なんか全くまとまってないんですよね。
まずその辺突っ込みますかね。

まず4節。
私たち​に​無力​感​を​感じ​させ,誘惑​に​勝てる​はず​が​ない​と​思わ​せ​よう​と​し​て​いる​の​は,サタン​です。

なるほど、サタンが「誘惑に勝てない」と思わせているそうです。

で、11節。
誘惑​に​は​勝て​ない,と​心​の​声​が​ささやき​掛け​て​くる​時,思い出し​たい​こと​が​あり​ます。その​声​を​発し​て​いる​の​が,受け継い​で​いる​罪​だ​と​いう​こと​です。


???
サタンじゃなかったの?
えっ?4節は間違い?
それともこっちが間違い?


もう一個4節から。
欲望​に​引か​れる​が​まま​に​エホバ​に​真っ先​に​背​を​向け​た​の​は​誰​でしょ​う​か。サタン​自身​です。それ​で​サタン​は,人間​も​自分​と​同じ​で,誘惑​に​遭え​ば​あっさり​エホバ​を​捨てる,と​言い張っ​て​い​ます。

これさあ。
「人間​も​自分​と​同じ​で」とか書いてるけど全然同じじゃないよね!!
続きに「誘惑​に​遭え​ば​」って書いてあるけど、誰もサタンを誘惑したりしてないでしょ!
それなのに「誘惑に負けたらサタンと同じ!」っていう、よく分からない同一化をしてる。
なんで?


5節でも。
エホバ​は​サタン​と​は​大違い​です。私たち​が​必ず​誘惑​に​勝てる​と​信じ​て​い​ます。

エホバとサタンを比べて「大違い」とか言ってるのも馬鹿らしいですが、その後の部分。
「必ず​誘惑​に​勝てる​と​信じ​て​い​ます」
いや信じてねーだろ。
完全だったアダムやエバだって誘惑に勝てなかったんだよ?
それなのに、不完全な人間が「必ず​誘惑​に​勝てる​」と​か信じ​て​たら馬鹿だろ。なんにも学んでないんだから。

とまあこんな感じ。

あと、この記事全体の主旨についてなんですが、
・誘惑はあるけど、しっかり戦え。
・誘惑が有っても行動は自分で制御できる。
・神の助けがあるから、必ず誘惑に勝てる!神もそれを信じてる!
って感じなんですよ。

行動を自分で制御しきれないのが、不完全さなんじゃないんですか?
全員必ず誘惑に勝ててりゃ、もうJWは完全にされてるってことになりませんか?
ホントバカバカしい。

しかもこんな流れの中で、誘惑に負けたらサタンと同じ、とか恐ろしいこと言って来るんですよ。

真面目に正しいと思って読んでたら、混乱しますよ。

で、さっきの5節の続き。なぜエホバが「私たち​が​必ず​誘惑​に​勝てる​と​信じ​て​」いると言えるかの根拠の部分。
忠誠​を​守り抜く​大​群衆​が​大​患難​を​生き残る​と​予告​し​て​いる​から​です。偽る​こと​の​でき​ない​エホバ​が,少数​の​人​たち​だけ​で​は​なく,数え切れない​ほど​多く​の​人​たち​が​新しい​世界​に​入る​と​言っ​て​い​ます。その​人​たち​は「自分​の​長い​衣服​を​子羊​の​血​で​洗っ​て​白く​し[た]」と​ある​通り,エホバ​から​見​て​清い​人​たち​です。

これも、全く根拠になってないんですよ。
ここで、「白くした」ってある通り、元々白くなかった、つまり罪を犯してたってことです。もっと分かりやすく言うと、誘惑に負けてたってことです。
それをイエスの贖いという「子羊の血」で白くして、「エホバ​から​見​て​清い​」状態にしてもらったってことです。
エホバは誘惑に必ず勝てるとも言ってませんし、そんなこと信じてもいません。

よくもまあ、神を相手に、言ってもいないことを「言った」ことにできるもんです。神を全く恐れていないんでしょうねぇ。


次、12節。
悪い​こと​を​し​ない​よう,欲望​と​闘い​続ける​なら,エホバ​は​私たち​を​清い​人​と​見​て​くれ​ます。

これは納得できる部分です。
私たちが、欲望と戦い続けているなら、例え負けることがあるとしても、神はその努力を評価してくださるでしょう。
ところが14節。
どんな​欲望​と​闘っ​て​いる​と​し​て​も,必ず​勝て​ます。

いや、「必ず勝てる」はずねーだろ。

しかも最後の20節にはしれっと
たとえ​失敗​し​て​も​エホバ​は​許し​て​くれる​の​で,新しい​世界​で​ずっ​と​生きる​と​いう​希望​を​持ち​続け​られ​ます。

とか、書いてやがりました。
いや、ここは正しいんだけどさあ。
「必ず勝てる」ってことは「失敗」なんかしないってことだろうが!

翻訳の問題なんですかね。
とにかく今週の記事は、異言でも話されてるかのような気分でした。

今週は以上です。
ほととぎす


花のほととぎすは、鳥のほととぎすとは季節が違いますね。とても「目に青葉」ではありません。


さて、前回の記事についてです。
すみませんねぇ。
三連休からインフルエンザでばたんきゅ〜でした。
8度オーバーの熱を押して子供のイベントに付き合うのは流石にしんどかった。しかも子供も8度超え。なんでそんなあちこち動けるんだよ、おかしいだろ。
若さか?それが若さなのか?
ちなみに今病院で書いてます。


えっと。
主題は「エホバ​から​許さ​れ​て​いる​こと​を​信じ​て​ください」。先週、先々週に引き続いて、また客観的な証拠のない「気の持ちよう」の部分でした。

考えてみりゃ赦しなんて、「気の持ちよう」にされてしまう最たる例ですよね。

別に赦されてようが、赦されてなかろうが、生活で困るのは、良心が責められるかどうか位で、物理的には差がありませんからね。
しかも、「受け継いだ罪」について言えは、自分の責任範囲は0。冷静に考えてみりゃひでぇ話です。


私にとってここは、キリスト教の納得がいかない部分なんですよねぇ。

大して悪いことをしていない普通の、今まで自分が罪人だと意識してない人に、「お前は罪人だ!」と教える必要が本当にあるのかどうか。
そして、「神は寛大だから赦してくださってます」に続く。
どうせ赦されるなら、いちいち「罪人だ!」って教えなくてもいい気がするんですよねぇ。
それに神とその人との間にわざわざ割って入って、教えるようなものでもない気がするんですよねぇ。

旅行先の銭湯で体洗ってるおっさんに、「あなたが備え付けだと思って使ってた石鹸は、実は向かいに座ってる別のおっさんの私物だよ」と、関係ない人が教えてやる必要はないと思うんですよ。
しかも、「あの人は寛大だから、気づいてましたけどそのまま使わせてくれてますよ」に続く。

教えなくてよくね?
どうせもう二度と会わないだろうし、部外者が割って入る必要もないし。

石鹸を使わせてもらった感謝よりも、気まずさだけが残りそうです。

自分でも、ほとんどの人が見当違いの例えと感じると思いますが、私の中ではそれと似たような感じで納得できないんですよねぇ。


ほんじゃあ、突っ込んでいきます。
まず要点である「エホバ​から​許さ​れ​て​いる​と​信じる​ため​に​できる​こと」から。7節。
エホバ​が​自分​の​性格​に​つい​て​言っ​た​こと​を​よく​考える。エホバ​が​シナイ​山​で​モーセ​に​言っ​た​こと​に​注目​し​て​ください。(中略)自分​が「憐れみ深く,思いやり​が​ある​神」だ​と​言い​まし​た。

これ自称なんですよねぇ。
ついこの前アメーリカのトランプ大統領が自分は寛大だと言ってましたが、それをまるっと信じるのは危険が伴いそうです。

そして根拠の聖句。
「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神,愛ある親切を幾千[代]までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決してせず,父のとがに対する処罰を子や孫にもたらして,三代,四代に及ぼす」。

これさあ。
前半はいいんだけど、最後が呪いで終わってんじゃん。

人間って聞いた順に情報を処理してくから、一番最後に言われたことが一番印象に残るんですよ。
「顔は良いけど頭が悪い男」と、「頭は悪いけど顔が良い男」のどっちと付き合うかっていったら、おんなじこと言ってるんだけど「頭は悪いけど顔が良い男」の方がマシに見えるじゃないですか。
同じように「親切を幾千代も保つ」って言われても最後に「必ず処罰はするよ。三代でも四代でも」って言われたら、そっちが印象に残っちゃうじゃないですか。

これじゃあ、なんか許されない印象を持っちゃっても仕方ないですよね。


次。許されないと感じている人の声。3節。
「以前​の​私​は​お金​や​物​に​夢中​で,不​道徳​な​こと​を​し​たり,飲み過ぎ​たり,怒り​を​ぶちまけ​たり​し​て​い​まし​た。もう​悔い改め​て​い​た​の​で​イエス​の​贖い​に​よっ​て​許し​て​もらえる,と​頭​で​は​分かっ​て​い​まし​た。でも,自分​は​許し​て​なんか​もらえ​ない,と​いう​心​の​声​が​聞こえ​て​くる​こと​も​あり​まし​た」。

うんうん。
自責の念が強いんですね。

でもちょっと考えてみてください。
この人が自分を責めていることをよく見ると、まあ不道徳とか怒りのぶちまけ方は程度によりますけど、別に犯罪になるようなことは何一つしてないんですよね。
しかも10代だよ?
自分の生き方を模索してる時期なんだから、お金や物に夢中になるときがあっても普通なんじゃないの?
なんでそんな若気の至りみたいなことで、「自分は許してなんかもらえない」とか考えてんの?
もっとずっと悪いことしてる奴なんかそこら中にいるじゃん!
「認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものを」とか言って水に流しちゃえばいいじゃん!

で、それをずーーーーっと引きずっちゃうのは、結局この組織のせいだと思うんですよ。
あれもダメこれもダメと、細かく規則をつくり、厳しければ厳しいほど神に近づけるかのような考え方をさせる。
だから犯罪でもなんでもないことなのに、それに責められて「自分は許されない」とか考えちゃう。
つまり、許されないと感じさせているのはこの組織なんですよ。
すごいよね。今回の主題と全く逆のメッセージを普段送り続けてるんだから。


次。最後。5節。
サタン​は,私たち​が​エホバ​に​仕える​の​を​やめ​させる​ため​に​どんな​こと​で​も​し​ます。サタン​が​使う​手口​の​1​つ​は,自分​の​罪​は​許さ​れ​ない,と​思い込ま​せる​こと​です。

「自分の罪は許されない」と思わせているのはサタンだそうです。
結論。
自分は許されないと感じさせているJWは、サタンそのもの、もしくはサタンの手先。
「あなた​自身​が[そう]言い​まし​た」。

図らずも、先週と同じ結論になりました。

今週は以上です。
風邪が治ってたら、今週末はもう少し早くアップしたいです。
今度は普通のコスモス。


なんかここ数日で一気に寒くなりましたよ。
なんだよ、10月の神奈川で最高気温12℃って。


さて今週の記事についてです。
今週の主題は「エホバ​から​愛さ​れ​て​いる​こと​を​信じ​て​ください」で、先週に引き続いて「気の持ちよう」と言われても反論できない内容でした。

まあね。信仰なんてものは、他人から見れば気の持ちようとしか思われない、説明できない部分がほとんどですからね。それでいいのかもしれないですね。

それに、何度も言ってますが、「自分は神から愛されている」ということを知るだけで助けになる人も大勢いると思います。
「自分の状況は神に知ってもらえてる」って思うと安心できるんですよね。なんか命綱があるみたいな感じ。それを使うつもりはないけど、精一杯やって万が一ダメな時にはきっと神様がなんとかしてくれる、みたいな。

だから、今回の記事はそこだけに絞れば、割と良いことを言っていました。
超〜久しぶりに、良かったと思えるところを引用してみますね。

6節。神が私たちの良いところに注目してくれているというところ。
エホバ​は​あなた​の​こと​を​あなた​自身​より​も​よく​知っ​て​い​ます。自分​で​は​気付い​て​い​ない​よう​な​良い​ところ​に​も​気付い​て​くれ​て​い​ます。

7節も同様。
エホバ​は​あなた​の​全て​を​見​て​い​ます​が,あなた​の​し​て​いる​良い​こと​に​注目​し​て​い​ます。エホバ​は,あなた​が​エホバ​に​喜ば​れ​よう​と​し​て​する​こと​を​全部​大切​に​覚え​て​い​ます。

重複しますが15節。
エホバ​は​あなた​を​引き寄せ​た​時​から​ずっ​と,あなた​の​良い​ところ​を​見​て​い​ます。自分​で​は​気付い​て​い​ない​よう​な​良い​ところ​に​も​エホバ​は​気付い​て​い​ます。

おんなじことしか書いてませんが、これは安心できる根拠になる部分だと思いました。


じゃあね。
なんで2節にあるような
「私​は​エホバ​を​心​から​愛し​て​い​ます。でも​エホバ​から​愛さ​れ​て​いる​か​と​いう​と,自信​が​持て​ませ​ん」。
って感じる人が出てくるのかが問題なんですよ。
これだけ「神があなたを愛して、良いところに注目してくださっています」って繰り返してりゃ、せめて長年の信者は神からの愛を確信できてそうじゃないですか。
なぜそうならないのか。


それについてこの記事では、17節でこんな理由が挙げられていました。
サタン​は​エホバ​に​仕える​の​を​やめ​させる​ため​に,どんな​手​で​も​使っ​て​き​ます。自分​は​エホバ​に​愛さ​れ​て​なんか​い​ない,と​思わ​せ​よう​と​し​て​き​ます。

ほうほう。
なるほど。
「神に愛されてない」と思うように仕向けているのはサタン、ってことですね。


で。

ここでこの記事のいやらしい表現に突っ込んでみますね。
まず3節。
あなた​は​献身​し,バプテスマ​を​受け​た​時,エホバ​から​かけがえ​の​ない​贈り物​を​受け取り​まし​た。揺るぎない​愛​と​いう,何​が​あっ​て​も​変わら​ない​深い​愛情​です。

聖書には「わたしたち​が​まだ​罪人​で​あっ​た​間​に​キリスト​が​わたしたち​の​ため​に​死ん​で​くださっ​た」って書かれてるので、「献身しバプテスマを受けた時」から愛され始めたような書き方は、神の愛を小さくしているように受け取れます。


そして今回の記事の良かったところを全部台無しにする9節。
「自分​は​エホバ​を​心​から​愛し​て​いる​ん​じゃ​ない​だろ​う​か。エホバ​を​愛し,エホバ​に​喜ん​で​もらう​ため​に​ベスト​を​尽くし​て​いる​なら,エホバ​に​愛さ​れ​て​い​ない​はず​が​ない」
一見、愛されてることを強調しているように見えますが、よく見てください。
「エホバ​に​喜ん​で​もらう​ため​に​ベスト​を​尽くし​て​いる​なら」って条件付けてやがるんですよ。
つまり、ベストを尽くしていないなら愛されない、ってことです。
3節では「揺るぎない愛」だったはずなのに、ここで(ただし、エホバに喜んでもらうために全力をしているならです)って括弧書きを付けちゃってるんです。
「何​が​あっ​て​も​変わら​ない​深い​愛情​」だったはずが、ベストを尽くさないと減ってく愛情になっちゃいました。

そもそも、不完全な人間で、「私は24時間365日全力を尽くしています!」って言い切れる奴なんかいるか?
いねーだろ。

ってことは、ここを読んだ人の中で真面目な人や自己肯定の低い人は、「自分はとてもベストを尽くせてはいないから、やはり神に愛されているとは思えない」ってなっちゃうんですよ。

つまり、この組織のせいで、「自分は神に愛されてはいない」って思わされるってことです。


???

確か17節には
サタン​は​エホバ​に​仕える​の​を​やめ​させる​ため​に,どんな​手​で​も​使っ​て​き​ます。自分​は​エホバ​に​愛さ​れ​て​なんか​い​ない,と​思わ​せ​よう​と​し​て​き​ます。
って書かれてましたよね?

ってことは、「自分​は​エホバ​に​愛さ​れ​て​なんか​い​ない,と​思わ​せ​よう​と​し​て​」いるJWは、サタンそのもの、もしくはサタンの手先ってことですね。
「あなた​自身​が[そう]言い​まし​た」。

よくわかりました。

今週は以上です。

千日紅



面白い花です。
ワレモコウにも似てるけど、バラ科とヒユ科で種類は違うらしい。


さて今週の記事についてです。

んー。
突っ込みづらいですね。
「忍耐できるように助ける」ってあんまり役に立ってなくね?って言うと、聖書そのものに突っ込むことになっちゃうんですよねぇ。

まあ、キリスト教は御利益宗教じゃないから、それでもいいのか?

ほんじゃあその辺に突っ込みますね。

まず軽く1節の出だしに。
終わり​の​時代​の​今,私たち​は​みんな​忍耐​し​なけれ​ば​いけ​ませ​ん。長い​間​病気​と​闘っ​て​い​たり,愛する​人​と​の​死別​を​経験​し​たり,家族​や​政府​から​反対​さ​れ​たり​し​て​い​ます。

「終わり​の​時代​の​今」とか書いてっけど、これぜーんぶ終わりの時代関係ないよね?
終わりじゃなくたって、みーんな病気も死別も経験するし、JWみたいに変なことしてりゃ、宗教すら関係なく、家族や政府から反対されます。

忍耐が必要な原因を無理やり「終わりの時代」に結びつけてるのが滑稽でした。


じゃあ全体に突っ込んでいきます。


まず、主題にある「忍耐できるように助け」るってことなんですけど、これは客観的な証拠が出せない部分なんですよね。
どういうことかと言うと、「ぜーんぶ気の持ちようですよね?」って言われたらそれまで。
例えば、どんなに激しい迫害でも忍耐できなかった人は一人もいない、って証拠が出せるなら、それはそれで価値がありそうです。
でも証拠はない。
「忍耐できなかった人は、神との関係をおろそかにしてた人」とか言い出す奴もいそうですが、それは後出しジャンケンの結果論です。

じゃあ、「忍耐できるように助け」られてないでしょ。
やっぱ全部気の持ちようじゃん、って思っちゃうんですよねぇ。

んじゃ本文から。
今週の記事では、忍耐できるように助けるツールとして、祈り、聖書、仲間、希望の四つが挙げられていました。
それぞれに突っ込んでいきますね。

3節。祈りがどれほど素晴らしいものか。
いつ​で​も,どんな​こと​に​つい​て​も,祈っ​て​エホバ​に​話せ​ます。(中略)祈り​は​エホバ​から​の​奇跡​の​よう​な​贈り物​です。

なんとなく素晴らしいもののように思えてきそうですね。

ではどんな効果があるかを5節から。
神​から​の​平和​が……皆さん​の​心​と​考え​を​守り​ます。
エホバ​が​私たち​一人一人​の​こと​を​気​に​掛け​て,力​に​なり​たい​と​思っ​て​いる​こと​を​知る​と,本当​に​安心​でき​ます。

???
「エホバ​から​の​奇跡​の​よう​な​贈り物』とまで言っておいて、実際に得られるものは「心​と​考え​を​守」ることと「本当​に​安心」できることだけなの?

それって「気の持ちよう」じゃないですか?

もちろん「心の平安」も馬鹿にしちゃいけませんが、いかにも素晴らしいもののように書いといて、客観的に分かる効果は無い、というのは寂しいですね。


次。7節。聖書について。
エホバ​は​逆境​と​闘う​私たち​が​どんな​もの​を​必要​と​する​か​よく​知っ​て​い​て,ぴったり​の​助け​を​差し伸べ​て​くれる​と​いう​こと​です。

おっ、聖書から神が助けてくれるようです。

で、どう助けてくれるかと言うと経験が10節にありました。
「毎朝,その​日​の​聖句​を​読ん​で​じっくり​考え​まし​た。その​おかげ​で,自分​や​自分​の​抱え​て​いる​問題​の​こと​より​も​もっと​大切​な​もの​に​目​を​向け​られる​よう​に​なり​まし​た」

???
なんと
自分が直面している問題から、目をそらしただけです。

やっぱり気の持ちようだけなんじゃないの?


次、仲間について。11節。
エホバ​は​私たち​が​忍耐​できる​よう,仲間​も​与え​て​くれ​て​い​ます。

これがまた中途半端。
そりゃJWの中にも誠実で親切な人はいます。そういう人と親しくなれると確かにそれは支えになるでしょう。
でも!
長老たちの中には、人の問題に首突っ込んでかき回して、問題を巨大化させるような奴もいます。

自分の思い通りにならないと、アハブのように不機嫌になる長老もいましたし、私に周りにはいませんでしたが、気に入らない成員を、罪をでっちあげて、排除しようとするような奴もいます。

そして、どんな良い人だとしても、相手がJWでなくなったりすると、口もききません。

こんなのが神からの助けとはとても思えません。

で、どう役に立つかが14節に。
兄弟​姉妹​も​いろんな​問題​と​闘っ​て​い​ます。そう​いう​人​たち​を​支える​ため​に​できる​こと​を​すれ​ば,自分​の​問題​の​こと​ばかり​考え​ず​に​済み,前向き​な​気持ち​に​なれ​ます。

???
なんとここも、結局は問題から目をそらしてるだけです。

あれ?
本当に気の持ちようだけなの?って気になります。


最後。希望について。17節。
新しい​世界​に​自分​が​い​て,どれ​ほど​幸せ​な​生活​を​し​て​いる​か​を​イメージ​し​て​み​て​ください。そうすれば,今​ぶつかっ​て​いる​どんな​つらい​問題​も「つかの間​で​軽い​もの」に​思え​て​くる​でしょ​う。

なんと!!
希望を強く持てば、問題が軽く感じられるという、またしても「気の持ちよう」としか言えない効果でした。

しかもこの組織の希望は空約束ですから、たちが悪いです。
そりゃ空手形しか持ってなくても、それが空手形だと気づくまでは財産だと思って安心してられますからね。
気持ちだけは楽になるかもしれません。

でもその安心は偽りであって、実際は無価値です。
この組織の希望も全く同じです。

ってことは、実は「忍耐できるように助け」られてなんかいないのかもしれませんね。

勝手に「助けてもらった!」と勘違いしている人がいるだけかもしれません。


それはそれで寂しいですけどね。


今週は以上です。
キバナコスモスー。



やっぱり秋はコスモスのイメージですね。
まあ、コスモスには狂い咲きが多いというイメージもあるんですが。
そうそう一昨日から、私の周辺ではキンモクセイが咲き始めました。やっぱり匂いで咲き始めたのがわかりますね。


さて、今週の記事について。
主題は『満足​する「秘訣​を​学び」ましょ​う』でした。

今ある物に注目することも、感謝することも重要なのはわかります。特に感謝することは、幸せの必須条件だと思っています。

でも。
今回の記事もダメダメでしたね。

まず「満足」することを絶対善、「満足しない」ことを悪としているんですよね。
いや、人間なんだから感情の動きはあるし、「満足しない」状態の時もあるのが当然だろ、と思うんですよ。
しかも、誰でもいつでも満足できる!みたいに断言してる。
なんか、ネット上の「誰でも楽々稼げる」みたいな詐欺広告と同じ匂いがします。

んじゃその辺に突っ込みますね。

まず1節の出だしから。
今​の​自分​に​満足​する​こと​は​大切​です。

もう記事の1文目から、「満足」を絶対善としてるんですよ。それが記事を通してずーっと出てくる。
で、反対に満足してなけりゃ悪なんです。
そうやって、できていない自分への罪悪感を植え付ける。
うんざりしますよ。正直。


次、2節。
現状​に​満足​でき​なく​なる​と,間違っ​た​こと​を​し​て​しまう​か​も​しれ​ませ​ん。

そんな「かもしれない」ようなことを根拠にして、いつでも「満足」すべきだとしてる。
しかもこの、「間違ったこと」の例が
本当​は​必要​で​は​ない​もの​を​手​に​入れる​ため​に,とても​長い​時間​働く​人​も​い​ます。

だと。

大きなお世話だほっとけ。
何が必要かなんて、その人しか分かんないんですよ!
それを横から口出しして、それは不要だだの、そんなもののために長く働くのは間違っているだの言ってんですよ、この組織は。
神が個人個人に委ねてる選択を、代わりに決定しようとするんじゃねーよ。

そして基準がおかしいのがこの続き。
お金​や​物​を​盗ん​で​しまっ​た​クリスチャン​も​い​ます。(中略)でも,クリスチャン​が​盗み​を​働く​なら,エホバ​は​悲しみ​ます。エホバ​が​悪く​言わ​れる​こと​に​も​なり​ます。

いや、クリスチャンが盗んじゃダメだろ。
で、もし盗んだとしたら、エホバどうこう気にする前に犯罪だろ。
なんか善悪の基準が酷く歪んでますよね。
・欲しいものを買うために長く働くのは間違ったこと。
・盗まないのは、エホバが悪く言われるから。

なーんか、
イザヤ5:20の
善​は​悪​で​ある,悪​は​善​で​ある,と​言っ​て​いる​者​たち,闇​を​光,光​を​闇​と​し​て​いる​者​たち,苦い​を​甘い​と​し,甘い​を​苦い​と​し​て​いる​者​たち​は​災い​だ!

が当てはまるように感じます。



さて次。3節。なんか節ごとに突っ込んでますね。
誰​で​も​満足​できる​よう​に​なり​ます。(中略)どんな​状況​に​い​て​も​満足​できる​と​いう​こと​が​分かり​ます。

なんか「ちょっと投資を勉強すれば、誰でも月10万円以上の副収入が作れます!」みたいな言い回しですよね。

めっちゃ詐欺っぽい。

そんなら、サタンが反逆して、アダムとエバがそれに乗っかっちゃったその瞬間も、エホバは満足してたのかってんですよ。

してねーだろ、たぶん。
その瞬間に、何十億もの人間が苦しんで死ぬことが確定したんだから。
満足してたらとんでもねぇ人でなしだぞ、エホバは。

じゃあ、全能の神ですら満足できない瞬間があるのに、なんで塵に等しい人間が、誰でもどんな状況でも満足できるとか言ってんの?
おかしくない?


で。
満足できなくなる理由のサンプルがまた酷い。
9節。
もし​自分​が​し​たい​と​思っ​て​いる​奉仕​を​ほか​の​人​が​する​こと​に​なっ​て​納得​が​いか​ない​場合,どう​すれ​ば​いい​です​か。

自分がやりたかったことが、他の人に割り当てられただけで「納得がいかない」とか、どんだけせん越なんでしょうか?


同じことを経験から。11節。
例えば​ほか​の​人​が​何​か​の​奉仕​を​する​こと​に​なる​と,どうして​自分​じゃ​なかっ​た​ん​だろ​う​と​思っ​て​しまい​ます。

こんなこと考えるかあ?
よく恥ずかしげもなく、自分のせん越さをさらけ出せると感心するレベルですよ。

あまりにも現実離れしてるように感じました。


最後。記事が勧めている、全く役に立たない解決方法を3カ所から。
12節。
私たち​を​待っ​て​いる​素晴らしい​将来​を​思い描く​と,今​の​暮らし​に​満足​し​やすく​なり​ます。
13節。
慢性​的​な​痛み​や​メンタル​の​不調​や​重い​病気​に​悩まさ​れ​て​いる​人​も​いる​でしょ​う(中略)神​は​新しい​世界​で​病気​も​死​も​なくし​て​くれ​ます。そういう​希望​を​見つめ​て​いる​と,やるせなさ​や​怒り​に​のみ込ま​れ​ず,今​で​も​満ち足り​た​気持ち​で​いら​れ​ます。
14節。
経済​的​な​心配​で​頭​が​いっぱい​に​なっ​たら,お金​も​借金​も​経済​格差​も​全く​なくなる,将来​の​生活​を​思い描い​て​ください。

これ全部、将来、問題がなくなる時を思い描けって内容なんてすが、それって全く解決になってないんですよね。
聖書の預言がJWの解釈通りだとしても、実現するまでは所詮絵に描いた餅でしかないんですよ。
経済的に困窮して、金も食べ物もなくなった時に、いくら将来の希望にすがっても腹は膨れません。
そんな暇があったら、バイトでもしたほうがよっぽど役に立ちます。
むしろ、本気で困窮しているのに、こんな役に立たないことをしているから、限界がきて、「お金​や​物​を​盗ん​で​しまっ​た​クリスチャン​も​い​ます。」なんて結果になるんじゃないですかね?


結局、無理やり満足しようったってそんなことは無理なんですよ。
こういう、度を超えたポジティブシンキングは、筋肉少女帯の「これでいいのだ」とかを思い出させますね。

あとはネットの拾い物のこんな漫画とか。


この人の「幸せ」とJWの「満足」は同じようなものだと思います。


今週は以上です。