サルスベリ



漢字だと百日紅なのに白。
フリヒラの花の中にミツバチらしき虫がいました。
そろそろ散り始めてますね。


さて今週の記事についてです。
先週の記事で、「終わりまで神について聞いたことがなくても滅ぼされないかもしれない」ということが扱われて、「あれ?じゃあ、無理して宣べ伝えなくて良くね?」となるのを防ぐために、信者を思考停止に陥らせて無理やりにでも宣べ伝えさせようという、非常にたちの悪い記事になってました。

あと、建前を根拠にいろいろ展開させてるのが目立ちました。
例えるなら、家庭内別居で長年口もきいていない夫婦に、幸せな夫婦生活を送っているという建前で「モルディブのコテージで夫婦水入らずで過ごしましょう!素晴らしい幸せな時間を楽しめます!」って言ってる感じ。
無理がありすぎるだろ。下手すりゃ逆に刃傷沙汰に発展しますよ。
それなのに、続く部分で「幸せな旅行から帰ったら、両家の親族を誘ってパーティを開きましょう!」みたいに話を展開してる。
なに?一族郎党巻き込んで抗争でも起こそうとしてんの?って感じですよ。

突っ込みどころがありすぎで、どこまでできるか分かりませんが、さっそく突っ込んでいきます。

じゃあまず、信者の思考と行動を無理やり誘導している箇所。
正直読んでて苦しくなります。
2節。
終わりが来るまでの間,私たちは伝道し続ける必要があります。

5節。

貴重な真理を他の人に伝えずにはいられなくなったはずです。

7節。

聖書の真理を心から愛するようになると,みんなに伝えたくなるものです。

8節。

人々への愛や思いやりがあるなら,良い知らせを伝えるためにできる限りのことをしたいと思います。

9節。

人々を愛しているなら,間もなく悪い世界が終わることについて警告せずにはいられなくなります

ヤバいです。マジ苦しい。
書いてて過呼吸になりそうです。(文字を小さくしました。)

しっかし酷い表現です。めっちゃめちゃいやらしい誘導です。
8,9節なんて、「宣べ伝えないならお前は人々を愛していない」ってはっきり言ってるわけですからね。

っていうか、こんなふうに脅迫して宣べ伝える業を強制しておきながら、この記事では「宣べ伝えるのは愛が動機(ハァト)」とか寝言言ってんですよ。
完全に建前と本音が乖離しています。


じゃあ次は、最初に書いたように現実離れした建前を前提としている箇所に突っ込みます。
4節。良いニュースだから告げ知らせたいと思うという建前について。
これ​まで​何​か​の​良い​ニュース​を​聞い​て​感激​し​た​こと​が​あり​ます​か。(中略)その​知らせ​を​家族​や​友人​に​早く​知らせ​たい​と​思っ​た​こと​でしょ​う。王国​の​良い​知らせ​と​いう​この​上​なく​素晴らしい​ニュース​を​聞い​た​時​も,同じ​よう​に​感じ​た​の​で​は​ない​でしょ​う​か。

そもそも、「この上なく素晴らしいニュース」なんかじゃないんですよ。
そりゃ、「将来、死も苦しみも悪も無くなる」ってところだけを聞いたら、(現実離れしてるものの)良いニュースに感じるかもしれませんが、「そのために神が生きてる人の大部分を虐殺します。それには、まだ自分で判断できない子供も赤ちゃんも含まれます。でも神がすることだから絶対正しいんです。」っておっそろしい情報とセットなんですよ。
こんな情報を知ったところで、「嬉しいな!嬉しくってたまらないっ!みんなにも知らせなくっちゃ!」とか絶対なりませんよ!

なのになぜかこの記事の中では、オタクが自分の推しについてついつい語っちゃうのと同じ感覚、トラキチが思わず1985年から語り出しちゃうのと同じ感覚で、宣べ伝えてることになってるんですよね。



いや、ありえねーから。




次、8節。人々への愛から宣べ伝えているという建前について。
人々​へ​の​愛​や​思いやり​が​ある​なら,良い​知らせ​を​伝える​ため​に​できる​限り​の​こと​を​し​たい​と​思い​ます。

さっきも引用しましたね。でもこれも嘘です。
そもそも、そんな動機で宣べ伝えてるんだったら、上みたいな誘導で無理やり宣べ伝えさせたり、時間を報告させて、それによる立場で競争させたりする必要なんかないんです。
本当に愛だけが動機だと思うんだったら、時間報告も開拓制度も、こうやって脅して宣べ伝えさせるのも、ぜーんぶやめてみりゃいいんですよ。
もし純粋に愛だけが動機で宣べ伝えていれば、時間が減ることはないはずですから。

私の認識では、JWが宣べ伝えている主要な動機は、
・自分が滅ぼされたくない(エゼキエル3:18)
・神が命じていると教えられている
・仲間から高く評価されたい
です。
ちなみに私は、この3つ目がほとんどなかったので、補助開拓もせず、世俗の仕事に就いて、奉仕なんかほとんどしてませんでした。だから、立場がもらえませんでした。(笑)

次、2節。宣べ伝えているのは終わりが近いからという建前について。
イエス​は,良い​知らせ​が​世界​中​で​伝え​られ​た​後​に「終わり」が​来る​と​言い​まし​た。これ​は​サタン​の​邪悪​な​体制​が​完全​に​終わる​時​の​こと​を​指し​て​い​ます。エホバ​は​こう​し​た​こと​が​起きる「日​と​時刻」を​決め​て​い​ます。1​日​ごと​に​その​日​は​近づい​て​いる​の​です。終わり​が​来る​まで​の​間,私たち​は​伝道​し​続ける​必要​が​あり​ます。

そもそもここが間違っているんですよ。
JWは完全に計算間違いして終わりの日を予想したんですから、そもそも終わりは近くないんです。
イエスが宣べ伝えるように命じたのも、現代だけに特別に当てはまるようなことはないんです。
もし、純粋に愛の動機で宣べ伝えていたとしても、内容が嘘だったら迷惑でしかないんですよ。
「1​日​ごと​に​その​日​は​近づい​て​いる​の​です。」って、明日にも終わりが来ると教えてはや100年経ってるんですからね。

もうトータルで見たら、聖書を教えた益より、嘘を教えた害の方が、はるかに大きいですね。


これだけ、本音と建前が乖離しているのに、それを完全に無視して、建前だけで話を進めてるんですから、こんな記事にはなんの価値もありませんね。



さて、あとは細かいところに突っ込みますね。
まずはいつもの超絶いやらしい言い回し。11節。
自分​の​時間​や​体力​や​持っ​て​いる​物​を​できる​限り​伝道​の​ため​に​使う​なら,自分​の​力​を​エホバ​に​捧げ​て​いる​こと​に​なり​ます。

「できる​限り​伝道​の​ため​に​使う​なら…エホバ​に​捧げ​て​いる​こと​に​なり​ます。」ということは、「できる限り使わないならエホバに捧げていないことになる」わけです。
ここには「示した愛を決して忘れたりされない神」ではなく「示した愛がちょっとでも足りないと、何一つ受け入れない神」が出てきてます。
言葉では愛の神と言いながら、こうやって要所要所で、厳しい神のイメージをぶち込んてくる。
これホント神に対する冒涜だと思いますよ。


次。矛盾したとこ。10節。
私たち​が​今​伝え​て​いる​こと​を​将来​人々​が​思い出す​か​も​しれ​ない​から​です。(中略)今​は​反応​が​ない​人​で​あっ​て​も,大いなる​バビロン​の​滅び​と​いう​世界​を​揺るがす​出来事​を​見​て,信仰​を​持つ​よう​に​なる​か​も​しれ​ませ​ん。

これなんだけどさぁ。
将来思い出してもらうんだったら、コンタクトカードからわざわざ「エホバの証人」って言葉を抜かないよね。
昔はちゃんと「エホバの証人」って書いてたのに、今はこそこそ正体を隠して、QRコード読んでやっとJWだと分かるようにしてるよね。

正体隠してたら、家の人は将来何を思い出せばいいんですかね?

ここでも本音と建前が乖離しています。



さて最後。4節。さっき省略した箇所。
これ​まで​何​か​の​良い​ニュース​を​聞い​て​感激​し​た​こと​が​あり​ます​か。例えば,家族​に​赤ちゃん​が​生ま​れ​た​と​か,念願​の​仕事​が​決まっ​た​など​と​聞い​た​時​です。

ここで、非常に腹のたつことを思い出しました。
この組織では、「家族​に​赤ちゃん​が​生ま​れ​た」ことは、感激するような「良い​ニュース」ではなかったんです。ちょっと昔までは。

というのは、ある姉妹が妊娠したところ、同じ会衆の成員からマタイ24:19の「その​日,妊娠​し​て​いる​女​と​赤子​に​乳​を​飲ませ​て​いる​者​に​とっ​て​は​災い​に​なり​ます! 」を根拠に、「ご愁傷さま」って言われたんですよ。








ありえねーだろ!

私の知ってるJW糞エピソードの中でも、上位に入る糞エピソードです。
タイムマシンがあったら、今すぐその場に行って、そいつの後頭部を助走つけて殴ってやりたいぐらいです。
そんな信者を育てておいて、さらっと「良い​ニュース​を​聞い​て​感激​し​た​こと​が​あり​ます​か。例えば,家族​に​赤ちゃん​が​生ま​れ​た​と​か」なんて書いてやがる組織も許せないっすね。

今週は以上です。

夏は花があんまりないですね。
ヒメジョオンかなあ。
でももっと小さい花でした。それとも暑さで花も小さくなっちゃったんですかね。

ちょっと前に、谷山浩子さんの歌を聞いてました。

で、タイトルの歌を知ったんですが、その時点でなんとなく替え歌にしてました。

物理的な距離は近くても、精神的には星より遠いとか、JWカルトの教えのまんまじゃないですか。


で、昨日。数ヶ月ぶりにツイッターをみたら、「書き捨てる」というタイトルの数日前のブログが紹介されてました。

替え歌で作った雰囲気そのまんまに感じたので、アップすることにしました。(あんまりコメントのやり取りもないのに無断リブログも失礼かと思ったのでリブログはしてません)


この歌は沢田聖子さんという方が歌われてるみたいですね。どんな人か全く知りませんし、調べる気も起きません。

最初に谷山浩子さんが歌ってるのを聞いたので、私の中ではそのイメージです。


♪――――――――――――

信号待ちの間にひとり

車の中で
時折来る信者をただ見ていた
入れぬドアを見てた
ただの親子に戻れたら
会いたいだけで会いに行ける
実家も王国会館も
あの星より今は遠い
親ともう会えない
きっとずっと会えない
こんなおかしいこと
決めたのはカルトのボス

偶然親に会った話を
娘がしてた
それは何か奇跡みたい
せつない不思議な気持ちがした
まるで当たり前のように
同じ空気を吸うように
親と暮らしてた日々が
あの星より今は遠い
親ともう会えない
きっと二度と会えない
親が入院して危篤でも
連絡はない

ただの親戚でいいと
未信者に戻ればいいよと
無理とわかってる私は
どうしても言えなかった

親ともう会えない
きっとずっと会えない
こんなおかしいこと
決めたのはカルトのボス
親ともう会えない
きっと二度と会えない
こんなおかしいこと
決めたのはカルトのボス
―――――――――――――――
排斥があったら、実の親子でも会話もしないとか、カルトじゃなければ考えもしない狂った規準だと思います。
それを疑いもせずに守る信者。
それが愛だとうそぶく統治帯。
正常な人間じゃありませんね。


ちなみに、私も親との関係はかなり希薄ですが、JWとして育てられたせいで自然の情愛が欠落しているため、今のところあまりダメージはありません。

多分親が死んでも「ああ そうか」と思うだけ、という気がします。
まあ、これも正常じゃありませんね。

おっと。こんなことをしてないで、週末の「も」の予習をしなければ。
一週空いちまいました。すみません。
少し早く夏休みを取りました。
7月に90時間入らなかった開拓者の言い訳みたいですね。

考えてみりゃ、開拓は個人とエホバとの約束とか言っておきながら「要求時間」という言葉を使い、達成できない時は理由を書かせるという、明らかに建前に反したことをいろいろやってましたね。
昔からこの組織は矛盾だらけです。

さて花。

カノコユリ(多分)。



どのへんがカノコなのか全く分かりません。
そしてどこで撮ったのか全く覚えてません。

では、今週の記事についてです。
なんかねー。
「ついに、なーんにも分かってないことを認めたか」って感想でした。 

なんかさらっと、今までちょっと思い違いをしてました(テヘペロ)、的に書いてるんですが、結構ヤヴァい方針変更をしてやがります。

私が教わった内容との差なので、もしかしたらずいぶん前に変更になった教理もあるのかもしれませんが、そのあたりを取り上げようと思います。

まず5節。
現在,私たち​は​世界​中​の​人​に​伝道​する​活動​を​熱心​に​行っ​て​い​ます。でも​どんな​に​頑張っ​て​も,終わり​が​来る​前​に,地球​上​の​全て​の​人​に​良い​知らせ​を​伝える​こと​は​でき​ない​でしょ​う。

これまた、大きく舵を切りましたね。
生きている人全員が神についての音信を聞き、受け入れるかどうかを示し、その反応によって生き残るかどうかが決まると教わって来ました。

まあ、全世界の全住民に、全然増えないJWが音信を伝えるなんてことは、それこそ神が介入されない限りありえないなんてのは、正直分かりきってたんですが、ここに来てようやくそれを組織が認めました。


で、神は絶対公正なことをされるから、なーんにも分からなくても安心しろって結論。

いや、警告もせずに滅ぼすとか、完全に悪魔の所業だろ。


で、そうしたら今度は「いや、ホントに滅ぼすかどうかもわかんねーし!」とか言い出しやがるんですよ。

それを8節から。
良い​知らせ​を​聞く​機会​の​なかっ​た​人​たち​を​エホバ​が​どう​判断​する​か​に​つい​て​は,私たち​に​は​分かり​ませ​ん。それ​に,エホバ​に​は​その​こと​を​私たち​に​知らせる​義務​は​あり​ませ​ん。

「私たち​に​は​分かり​ませ​ん。」とやっと認めたのは前進だと思いますが、今まで間違ったことを教えていたことに対しての謝罪はありません。

そして「エホバ​に​は​その​こと​を​私たち​に​知らせる​義務​は​あり​ませ​ん。」という謎の上から目線。
いや、神にいちいち情報を開示しない理由を教えて欲しいとは思ってませんよ。
ただその神の大使を名乗る組織が、ずーっと間違ったことを教えていたことについては、何かしらの説明があってしかるべきでしょう。
それなのになんだよこの偉そうな態度。


そして、今まで組織が勘違いしていた「分からないこと」はまだまだ続きます。
まず今までの見方を3節から。
私たち​は​以前,大​患難​が​始まっ​た​後​に​エホバ​に​信仰​を​持つ​よう​に​なっ​て​ハルマゲドン​を​生き残る​人​は​い​ない​と​考え​て​い​まし​た。

この通りですよね。
ノアの箱舟の扉が閉まってからは誰も入れなかったとか、大患難は短くされているとか脅されて、だから今必死で宣べ伝える必要があるとされてきました。

ところがここがひっくり返ってる。
10節。
大​患難​の​間​に​死ん​だ​人​は​誰​も​復活​し​ない​の​でしょ​う​か。(中略)中​に​は,新しい​世界​で「正しく​ない​人」と​し​て​復活​する​人​が​いる​の​でしょ​う​か。私たち​に​は​分かり​ませ​ん。

なんか、大患難の期間中に死んでも(滅ぼされるのでなければ)復活の可能性があるようです。
今までは、14節に
兄弟​姉妹​の​中​に​は,エホバ​の​証人​で​は​ない​家族​が​亡くなっ​た​場合​に​こう​考える​人​が​いる​か​も​しれ​ませ​ん。「亡くなっ​た​の​が​大​患難​の​前​で​よかっ​た。復活​の​希望​が​ある​から」。

とあるように「今死ねば大患難フリーパス!急いで死ね!」という教理(ひでぇ教理だなおい)でしたが、「大患難の間に死んでもワンチャン有りまーす!!!」に可能性が広がりました。



あれ?
てことは無理して宣べ伝えなくて良くね?


そこにとどめの分からないことが12節。
大​患難​が​始まっ​た​後​で​あっ​て​も,「大いなる​バビロン」が​滅びる​様子​を​見​て,エホバ​の​証人​が​ずっ​と​言っ​て​き​た​こと​を​思い出す​人​が​いる​か​も​しれ​ませ​ん。その​中​に​信仰​を​持つ​よう​に​なる​人​たち​は​いる​でしょ​う​か。

なんかもうぎりぎり雨が降り出した時まで箱舟の扉開いてんじゃね?ぐらいになってます。

もちろん「分からない」とされてますが、これが成り立つんだったら、仮にJWの言う通りに事態が進展するとしても、ぶっちゃけ今JWになる必要なんか全く無いんですよ。
もちろんそれなりに誠実に生きる必要はあるでしょうが、大いなるバビロンが滅びるまではの~んびり普っ通ーに暮らしておいて、それが起こってからJWになれば良いんです。

マタイ20章の、ぶどう園を手伝ったら、働いた時間に関わらず1デナリって例え話があるじゃないですか。
あれで言えば、「どうせ第十一時に最後の募集があるから、それまでのんびりして1時間だけ働いて1デナリもらおうぜ」って作戦が可能になるんです。

あれ?
やっぱり無理して宣べ伝えなくて良くね?


で、結論は15節の
大​患難​の​最中​に​エホバ​が​どの​よう​に​物事​を​動かす​か,私たち​に​は​分かり​ませ​ん。

でした。

いや、そりゃそうでしょうよ。


ぶっちゃけ元からなーーーーんにも分かってなかったんですから。


この前も救いの条件でバプテスマが出てましたが、そんなのも全く根拠が無いんですよ。

それをさも分かっているかのように振る舞ってただけなんです。

裸の王様ですね。

あっ、王はキリストだから裸の統治帯か。

恥を知れ。恥を。


最後。まとめの17節。
終わり​が​近い​こと​を​これ​まで​以上​に​意識​し​て​伝道​し​たい​と​いう​気持ち​が​強まり​ます。

おいおいおいおい。
今まで「急いで宣べ伝えるべき根拠」だったものが、何一つ正確じゃなかったってのに、なんで「伝道したい!」とか思う奴が出ると思ってんだよ。



あー。





馬鹿なんだ。



今週は以上です。
桔梗

いいですよねぇ。
去年も載せたように思います。
今年も咲いてるうちに出会うことができました。
ちなみに、去年の写真は神社仏閣でしたが、今年の写真は人の家の庭です。


さて今週の記事についてです。


なんかさぁ。


1節から「なにこれ?嘘つき大会やってんの?!」って感想しか出てこないんですよ。

根拠もなく自分たちは最高だと褒めまくり、それ以外は最低だとdisるdisる。


これもう、組織外の人が読むことは無いと思ってんだろ。


どっかのマイナーなアイドルがいたとします。
そのアイドルが、「自分は誰より美人で、他の人なんか見る価値もない」とか抜かしやがったら、ファンだけは喜ぶかもしれませんが、普通の人なら糞野郎認定するんじゃないでしょうか。

それと同じことをやってやがるんですよ、この組織は。

信者は組織バンザイかもしれませんが、外部の人が見たら、ますますカルト度が深まってる糞宗教としか評価しませんよ。


それじゃあその辺に突っ込みますね。
まず1節。
この​地球​に​は,パラダイス​と​も​いえる​素晴らしい​環境​が​あり​ます。そこ​で​は​何百万​も​の​人​たち​が​平和​を​楽しん​で​い​ます。そこ​に​いる​人​たち​は,この​パラダイス​から​出​ない​こと​を​決意​し​て​い​ます。

いきなり組織を「パラダイス」に例えてやがります。
相互監視と同調圧力でできたパラダイスとか、なんの冗談ですかね?

さらに「そこ​に​いる​人​たち​は,この​パラダイス​から​出​ない​こと​を​決意​し​て​い​ます。」とか書いてやがりますが、そうしないと滅ぼされるって散々脅されてんですよ?
拳銃突きつけてスクワットさせといて、「この人は筋肉を鍛えようと決意しています」とか言ってるようなもんです。
決意もなにも、死にたくないからやってんですよ!

ね?
1節からこれですよ。
嘘つき大会としか思えないでしょ?


次。2節。
エホバ​は​ご自分​に​仕える​人​を​愛し​て​いる​の​で,私たち​が​安心​し​て​崇拝​を​行える​よう​に,パラダイス​の​よう​な​環境​を​整え​て​い​ます。聖書​に​も​この​環境​の​こと​が,安全​な「避難」場所,「よく​潤っ​て​いる​庭園」と​表現​さ​れ​て​い​ます。(イザ 4:6; 58:11)この​パラダイス​に​いる​人​たち​は,大変​な​終わり​の​時代​に​も,エホバ​の​おかげ​で​安心​し​幸せ​で​いる​こと​が​でき​ます。

このイザヤの聖句がなんで自分たちに当てはまるかの根拠は示されていません。
聖書の中の都合のよい記述は、ぜーんぶ自分たちのことだとしてます。
自信過剰すぎて反吐が出そうです。


次は他をdisってる箇所。また2節。
サタン​は​この​世界​を​憎しみ​と​悪意​に​満ち​た​危険​な​場所​に​し​て​い​ます。

偏見ってレベルじゃねーぞ。

なんなんですかね?この選民意識。
みんな一生懸命、それぞれ誠実に生きてるんですけど、その辺は全く考慮してません。
この他人を見下す記述と、イエスが言った隣人に愛を示すことは、全く相容れないように思います。


同じような記述が5節にも。
それで,私たち​は「食べ」,「飲[み]」,「喜ぶ」こと​が​でき​ます。それ​と​は​反対​に,エホバ​を​崇拝​し​ない​人​たち​は,「飢え」,「喉​が​渇[き]」,「恥​を​か[き]」ます。

この偉そうな上から目線はどこから来るんでしょうかね?


もちろんここでの「飢え」は、霊的な食物についてなんですけど、文字通りに受け取ると、どちらかというと「飢え」てるのは、仕事を制限して布教にうつつを抜かしてるJWの方です。
なにせお金に困って一万円札をコピーして使うというところまで落ちぶれてますから。
となると、恥をかいてるのもJWの方です。

現実を見ろ。


この後は、「どんな​素晴らしい​経験​が​できる​か」という副見出しの下に自画自賛の羅列があるんですけど、これもまた酷い酷い。
7節。
幸せ​で​満ち足り​た​気持ち​で​いら​れる。

9節。

穏やか​な​心​で​いら​れる。

やっぱり嘘つき大会ですよ。
いつも奉仕集会予習に追われ、ちょっと好きなことすると「励まさない」とか文句言われる生活のどこで「満ち足りた気持ち」だの「穏やかな心」を持てるってんですか。
馬鹿も休み休み言え。


で、10節。
今​で​も,集会​へ​行く​と,この​悪い​世​の​中​で​経験​する​いろいろ​な​ストレス​を​忘れ​て​心​が​穏やか​に​なり​ます。

逆だよ逆!
その集会が何よりのストレスなんだよ!
奉仕はまだいくつかに分かれてやってるから縛られる度合いはマシだけど、集会は基本、全員が絶対参加だから、ストレスぱねぇんですよ。
休んだら電話とかかかってきたりするんですよ!
なにが「どうされたのかなぁと思って」だ、うるせーんだよ。人のことに口出しすんなって聖書にも書いてあんだろーが!ほっとけ!

もうね。
ホント嘘しか書いてない。


で、最後11節。
エホバ​は​私たち​を​用い​て,うそ​を​教え​られ​て​き​た​人​たち​が​エホバ​の​家族​に​加われる​よう​に​助け​て​い​ます。

いや、今まさに嘘をつきまくってるのがこの組織だから!
嘘しか教えてない奴らが何を「助ける」つもりなんだよ。いいからほっといてくれ。こっち見んな!


今週は以上です。
カシワバあじさいっていうらしいです。



まあ、花の形からあじさいの親戚じゃないかとは思ってました。すっごいボリュームの花です。
花が入れ子細工みたいになってるのも面白いですね。


さて今週の記事についてです。
タイトルは「伝道​を​もっと​楽しむ​に​は?」ですが、長年JWやってましたが「伝道」が楽しかったことなんか全くありませんね。
「楽しくなくて当たり前です。エホバが最初に人間を作った目的に、伝道なんか入ってませんでしたから。」なんて言ってるアナーキーな巡回監督もいましたっけ。

今回は全体に突っ込みますね。

そもそもなんですけど。
現代に宣べ伝える業が求められてるのかってことに、ちゃんとした答えが出されてないんですよ。

そりゃイエスの時代は求められていましたよ。
イエスがはっきり言ってましたし、聖霊の働きもはっきり分かりました。
そしてローマによるエルサレムの滅びも近づいていました。

じゃあ現代はっていうと、イエスの言葉が現代に当てはまるという根拠が無い。
まあ、イエスや神について広めるのは否定しませんが、少なくとも「終わりが近い!」と宣べ伝えるのは間違ってる。

JWは宣べ伝えることを、火事を知らせることに例えてましたが、起きてもいない火事を知らせてるんですよ、100年以上。
明日にも終わりが来ると言われてJWになって、そのまま高齢になって亡くなった人も大勢います。
JWは「目覚ましが少し早く鳴ったからといって怒ったりはしない」だの「時に献身したのではない」だの言ってごまかしてますが、これとんでもないことですよ!

火事に例えたら、リゾートホテルに泊まって楽しんでたのに、「火事だ!」と叩き起こされたようなもんです。

で、一緒に他の人に知らせろって言われたから、嫌な思いをたくさんしつつも、言われた通り「火事です!みんな逃げてください!」と叫び続けてたら、実は火事なんか起きてなかったという。


なのに叩き起こして来た奴は、「これから火事になるから、大して間違ってない。」とか、悪びれもせずに言ってる。
そうこうしているうちに、休暇も終わって帰る日程になっちゃった。

最初に起こされたりしなければ、人生というリゾートホテルでの楽しい時間を過ごして安らかな終わりを迎えられたのに、騙されたばかりに、すべての楽しみは吹っ飛び、「火事だ!」と嘘をついて他の人に迷惑をかけるという、誰のプラスにもならない一生を送ることになったんです。
こんな酷いことそうそうないですよ。

そういえば先週のブログで、『JW組織からの情報は、「読ん​だり​聞い​たり​する​の​を​やめ,ほか​の​人​に​も​シェア​し​ない​よう​に​」すべきですね。』って書きましたが、本当にその通りだったってことですね。

というわけで、JWの「伝道」は無価値で、人の迷惑でしかないんですから、主題の「伝道​を​もっと​楽しむ​に​は?」なんて馬鹿なことを考えちゃダメです。



と、今週の記事が無価値であることが分かったので、あとは細かい箇所に突っ込みます。
5節。
「ものみの塔​出版​物​索引」や「エホバ​の​証人​の​ため​の​リサーチガイド」を​使っ​て​調査​し​ましょ​う。時間​を​かけ​て​学ぶ​なら,聖書​に​書か​れ​て​いる​こと​が​正確​で​ある​と​いう​確信​を​強める​こと​が​でき​ます。この​確信​が​強く​なれ​ば​なる​ほど,学ん​だ​こと​を​伝え​たい​と​いう​気持ち​は​強く​なる​でしょ​う。

いやいやいやいや。
聖書が正確でもJWの独自の教えは何一つ正確じゃないやん!
本当に聖書を調べれば、『JW組織からの情報は、「読ん​だり​聞い​たり​する​の​を​やめ,ほか​の​人​に​も​シェア​し​ない​よう​に​」すべき』と理解できるはずです。


次。13節。
伝道​に​参加​し​て​いる​なら,望ん​だ​通り​の​成果​が​出​ない​と​し​て​も​成功​し​て​いる​こと​に​なり​ます。なぜなら,エホバ​と​イエス​が​願っ​て​いる​こと​を​行え​て​いる​から​です。たとえ​伝道​で​誰​と​も​話せ​なかっ​たり​断ら​れ​たり​し​た​と​し​て​も,エホバ​が​喜ん​で​くださっ​て​いる​の​で​喜ぶ​こと​が​でき​ます。

これホント失礼。神に失礼。
命じてもいないことを勝手にやって、しかも他人に迷惑かけてんのに、「神が絶対喜んでる!」とか言ってやがる。

あれだね。
程度の差はあるけど、やってることは前線に出る兵士に神の祝福を祈ってる教会と変わらないね。
どっちも神に喜ばれないことをやらせるくせに、神の後ろ盾があるって騙して遣わすんだから。
宗教怖い。


最後。15節。
人々​が​聖書​を​学ぶ​なら,どれ​ほど​幸せ​な​生活​を​送れる​よう​に​なる​でしょ​う​か。

いや、JW全然幸せそうに見えないから。
そもそも、精神病んでる人多過ぎでしょ。

別に根拠はありませんが、多分JWの8割ぐらいは、JWにならなかった方が幸せだったんじゃないかなぁと思います。
私の妻も、JWをやめて、やっと追い立てられる感じがなくなって、落ち着いて生きられるようになった、と言っていました。
私から見ると、JWは「幸福に招待している」のではなく「地獄への道連れを増やしている」ように見えます。
そんなことを「もっと楽しむには?」とか勘弁してください。

今週は以上です。
がくあじさい



最初は普通のあじさいが好きでしたが、ある時急にがくあじさいが好きになって、今は一周回ってやっぱり普通のあじさいがいいなぁと思ったりしてます。特に大きいのが好き。人の顔ぐらいのサイズのとか見るとテンション上がりますね。



さて、今週の記事についてです。
まあ「エホバ​が​導い​て​いる​組織​を​心​から​信頼​する」なんていうふざけた主題から容易に想像できますが、自信過剰と我田引水ばかりの記事でした。

では、早速突っ込みますね。
まずは2節。
エホバ​は​今​で​も​ご自分​に​仕える​人​たち​を​導い​て​い​ます。エホバ​の​指示​の​下,イエス​は​1919​年​以降,天​に​行く​兄弟​たち​の​少​人数​の​グループ​を​用い​て​宣教​活動​を​組織​し,兄弟​姉妹​の​信仰​を​強める​食物​を​供給​し​て​い​ます。こう​し​た​活動​を​エホバ​が​支え​て​いる​の​は​明らか​です。

「明らかです」じゃねーよ!
こういう組織の根幹に関わる部分は、もっとしっかり証拠を出すべきなんじゃないんですかー?

脚注にある「なぜ1919年か」も読んでみましたがひどいもんです。
結局のところ1914年に天で王国が誕生したことが前提になってますし、引用されているペテロもマラキも現代に当てはまるという根拠は何一つ出ていません。
そもそも1914年に王国は誕生していません。
それをもとにした1919年にも何の意味もありません。
それなのに「エホバが支えているのは明らかです」などとしています。
論外です。


次、4節。
イエス​は​地上​に​い​た​時​と​同じ​方法​で,現代​の​私たち​の​こと​も​組織​し​て​い​ます。

普段は目の上のたんこぶ扱いしているくせに、こういう時は権威付けに持ち出されるイエスが気の毒になります。

で、イエスが導いている根拠とされているのが5節から。
イエス​は​天​の​お父さん​エホバ​が​教え​て​くれ​た​通り​に​行い,話し​た。イエス​の​手本​に​倣い,エホバ​の​組織​の​道徳​基準​や​指示​は​全て​聖書​に​基づい​て​い​ます。

図々しいことこの上ないですよね。
そんなことを言うのなら、聖書のどこにタイトパンツについての記述があるのか、鯉のぼりの禁止や校歌を歌わないことについての記述があるのか、ぜひ示して欲しいものです。
もっと言えば、なぜ「み使い」から「天使」に変わったのか、「聖書研究」が「聖書レッスン」になったのか、なぜ「戸別伝道」だけでなく「カート奉仕」が加わったのか、昔は自販機で飲み物買っただけで奉仕時間差っ引かれたのが、今はなぜラテ片手に立たされん坊やってて良いのか、ぜーんぶ聖書のどこに基づいているのか示して欲しいものです。

6節には偉そうに
聖書​の​教え​と​組織​から​の​指示​を​比べ​て​みる​こと​が​でき​ます。与え​られ​て​いる​指示​が​聖書​に​基づい​て​いる​こと​が​分かる​と,エホバ​が​導い​て​いる​組織​を​もっと​信頼​し​たい​と​いう​気持ち​に​なる​でしょ​う。

なんて出てましたが、全く聖書に基づいてません。


次は7節の『イエス​は「神​の​王国​の​良い​知らせ」を​広め​た。』の見出しから8節。
私たち​も​イエス​と​同じ​よう​に,人々​の​心​に​真理​の​種​を​まき,水​を​注ぎ​たい​と​思っ​て​い​ます。

最近はこの「宣べ伝える業」をJWが真の宗教であるという証拠に持ってきてますが、何を宣べ伝えてるかって言ったら、「二つの重なる世代」というカルトの謎理論ですからね。
イエスが伝えたことと全く違うことを教えておいて、「手本に倣っている」なんて、よくもまあ言えるもんです。


そして一番突っ込みたかったのが「間違っ​た​情報​を​見聞き​し​たら」の囲み記事。
1. 兄弟​姉妹​から​の​情報
その​話​の​出どころ​の​確認​が​きちんと​取れ​て​いる​か​尋ね​て​み​ましょ​う。確認​が​取れ​て​い​ない​よう​なら,読ん​だり​聞い​たり​する​の​を​やめ,ほか​の​人​に​も​シェア​し​ない​よう​に​し​ます。

この組織が言う「信頼できる情報」とは、もちろん組織からの情報なんですが、それが一番問題なんですよ。
出どころがJWの組織とはっきりしている情報が、「1914年に王国の設立を確認した人が生きているうちにハルマゲドンが来る」とかなんですよ。
しかもそれを、信者全員に大々的に広めさせたんですよ。

ここに書かれている指示に従うなら、こんなに信用できないJW組織からの情報は、「読ん​だり​聞い​たり​する​の​を​やめ,ほか​の​人​に​も​シェア​し​ない​よう​に​」すべきですね。

もう何一つ宣べ伝えられることなんかありません。



最後、18節のまとめ。
エホバ​や​エホバ​が​用い​て​いる​組織​に​しっかり​付く​こと​に​よっ​て,エホバ​の​組織​へ​の​信頼​を​これ​から​も​表し​て​いき​ましょ​う。

組織が信頼できるという根拠も、組織がエホバに導かれているという根拠も、何一つまともな証拠を提示できなかったくせに、信頼しろとか抜かしてやがります。
なせか、鳩△元首相を思い出しました。

JWも政治家も、約束を何一つ守らないところはそっくりですね。

今週は以上です。
あじさい


ちょっと変わった花びらがいっぱい付いてるやつ。
時々イラストで、梅の花を集めたような紫陽花が描かれてることがあるんですけどあれはちょっと受け入れられません。
紫陽花はこの写真みたいに変わり種もありますが、基本は四角い花びらが4枚でしょう。変わり種にしたって、梅の花には似ても似つかないと思います。(似てるのが存在していたらすみません)

さて、今週の記事についてです。
一番気になったのは、組織自身が「ヒゲ」「スカート」「タイトパンツ」などなど微に入り細に入り寝室に入り山程ルールを作り出しているくせに、「ルールは必要ない」と言っていることでした。
矛盾を少しも感じないんですかね?
それとも何か自己否定をしたかった理由があるとか。

じゃあその辺から突っ込みます。
まず4節。成長したクリスチャンとはどういう人かについて。
エホバ​の​教え​や​基準​を​調べ,よく​考え​て​決定​する​の​で,何​を​する​に​も​細か​な​ルール​が​必要​と​いう​こと​は​あり​ませ​ん。

まあ、ここだけなら許せます。何言ってやがる、とは思いますが。

「お前らは十分に成長できてないから、組織がルールを作ってるんだ」という大変尊大なことを言っている自覚はあるんでしょうか。



次は7節。
自分​で​決め​なけれ​ば​いけ​ない​こと​まで​ほか​の​人​に​決め​て​もらお​う​と​し​たり,どう​し​たら​いい​か​教え​て​もらお​う​と​し​たり​は​し​ませ​ん。ほか​の​人​の​経験​を​聞い​て​学び​ます​が,「自分​の​荷​を​自分​で​負う」必要​が​ある​こと​を​よく​理解​し​て​い​ます。

組織の出版物であれこれ指図するばかりか、長老がわざわざ訪ねて来て人の進路にまで口出しするのに、『「自分​の​荷​を​自分​で​負う」必要​が​ある​こと​を​よく​理解』とかよく言えますよね。

言わば、自分の荷を負おうとしている人のところにやってきて、「これを背負うな、あれを背負え。まだ足りないぞもっと背負え!」と口出ししてるようなもんです。

『「自分​の​荷​を​自分​で​負う」必要』なんて全く理解してなさそうです。



次、14節。パウロが判断を仰がれた時どう対応したか。
でも​パウロ​は,一人一人​に​良心​が​与え​られ​て​い​て「選択​の​権利」が​ある,と​いう​こと​を​よく​理解​し​て​い​まし​た。それ​で​ルール​を​作る​こと​は​し​ませ​ん​でし​た。

パウロでさえルールを作らなかった、ということを認めてるのに、この組織はルールを乱造するんですね。
さすがマタイ23:4でイエスに「重い荷をくくって人の肩に載せ​ます​が,自分​で​は​それ​を​指​で​動かそ​う​と​も​し​ませ​ん。 」と言われていたパリサイ人に倣ってるだけのことはあります。


で、なぜこんなに私が、組織がルールを作ることにこだわって反対しているのかと言うと、10節にその理由があります。
私たち​は,見た目​は​大人​な​の​に​親​が​い​ない​と​何​も​決め​られ​ない​人​の​よう​に​なり​たい​と​は​思わ​ない​はず​です。

これです。
組織があれこれルールを決めるから、そのせいでそれぞれの信者が考えなくなって、自分では何も決められなくなるんです。
組織が自分で、信者を「見た目​は​大人​な​の​に​親​が​い​ない​と​何​も​決め​られ​ない​人​」に押し留めてやがるんですよ。
言わば、子供に離乳食しか与えないのに、成長を願ってる振りをしてるようなもんです。
そのくせ、主題は『「十分​に​成長​する」こと​を​目指し​ましょ​う』ですから、矛盾もいいとこですよ。


じゃああとは細かいところに突っ込みます。
まずは4節。成長したクリスチャンの定義。
成長​し​た​クリスチャン​は,より好み​を​し​たり​せ​ず,エホバ​が​求め​て​いる​こと​を​全て​その​通り​に​行い​ます。もちろん,完璧​で​は​ない​の​で​失敗​する​こと​も​あり​ます。それでも,毎日​の​生活​の​中​で​エホバ​に​喜ば​れる​考え方​や​行動​が​できる​よう​に​ベスト​を​尽くし​ます。

先週に引き続いてまた出ました「ベストを尽くします」。
これは際限がなく人を追い詰める言葉だと先週書きました。
そもそも、「完璧​で​は​ない​の​で​失敗​する​こと​も​あり​ます」と言いつつ、「全て​その​通り​に​行います」って言い切ってるんですよ。これも矛盾してますよね。せめて、文末が「〜ように努力します。」とかだったら分かるんですけどね。


最後。5節。
十分​に​成長​し​て​い​ない​クリスチャン​は​容易​に「欺か​れ​たり,ずる賢い​たくらみ​に​乗せ​られ​たり」,陰謀​論​を​広める​人​や​背教​者​に​だまさ​れ​たり​し​て​しまい​ます。

なるほどと思うかもしれませんが、この組織の言う「十分に成長したクリスチャン」は、1914年に終わりが来るとか、1975年に終わりが来るとかの謎預言にだまされるばかりか、それを一緒になって広める人のことです。
成長していないクリスチャンと、何も変わりません。いや、さらに悪化してますね。

そもそも、「自分が生きているうちに終わりが来る!」って信じてる時点で、騙されてるわけですからね。



というわけで、こんな組織に従ってると、決して十分に成長できないって内容でした。

今週は以上です。



話は変わるけど。


昔さぁ。

地域大会で現代劇とかあったんですよ。

で、そのいちシーンで覚えている家族の会話があるんですよ。たぶん夕食後の会話とかだったと思うんですが。


父「日曜日の予習はもう終わったのかい?」

娘「お父さん、今日はまだ木曜日よ。明日の晩にやるわ」

父「必ず?」

娘「必ず!」


こんな会話でした。


でさぁ。

今、頑張って土曜の朝までにブログをあげようとしてんたけど、木曜から手を付けたんじゃ間に合わないんですよ。

せめて本文読むのは水曜日にはやっとかないと、頭の中でまとまらない。


あの劇に出てきた娘も、金曜日の晩に必死になって予習したんだろうなぁとか思いました。


しっかし、ものみの塔の予習だけでこれだけ時間を奪われるのに、あの時は週に3回も集会があったんだから、本当に時間と体力を奪う宗教だよね。

そりゃ正常に何かをゆっくり考える時間なんか取れないし、そのせいでどんどんカルトにのめり込むことになるよなぁ。

時間に追われて追われて、ピリピリ神経が荒れてたけど、JWやめてやっと落ち着いて生活できるようになりました。


ではまた。

ホタルブクロ@藪の中



気づくともうネジバナだとかキンシバイとかいろいろ咲いていました。
いつも見に行っているところにホタルブクロを探しに行ったら、もう終わっちゃった花がずいぶんありました。見に行くのが遅かったですね。


さて今週の記事についてです。
まあ、いつものことなんですけど。
ダブルバインドって言うんでしたっけ、矛盾してることを堂々と押し付けてるのが引っかかりました。
主題は「エホバ​は​あなた​の​こと​を​喜ん​で​い​ます」なんですけど、随所で喜ばれるための条件が出てくるんですよ。
条件があるってことは、とりも直さず、その条件を満たさなければ喜ばれないってことじゃないですか。

そもそも、ローマ3:24には「神の​過分​の​ご親切​に​よっ​て​義​と​宣せ​られる​の​は,無償​の​賜物​と​し​て​な​の​です。」ってあるのに、条件を強調するのは間違ってると思います。

では突っ込みです。
まず、信者の言葉を2つ引用します。
4節。

アドリアン​兄弟​は​こう​言い​ます。「私​は​昔​から​自分​に​あまり​自信​が​あり​ませ​ん。子供​の​頃,『家族​みんな​で​楽園​に​行け​ます​よう​に』と​よく​祈っ​て​い​まし​た。でも,自分​は​楽園​に​入れ​て​もらえ​ない​だろ​う​な​と​思っ​て​い​まし​た」。

続けて8節。

「私​は​ベスト​を​尽くし​て​エホバ​に​仕え​て​い​て​も,もっと​頑張ら​なけれ​ば​いけ​ない​と​いう​気持ち​に​なる​こと​が​あり​ます。自分​に​できる​以上​の​こと​を​やろ​う​と​し​て​しまう​ん​です。そして​それ​が​でき​ない​と​落ち込み,エホバ​も​がっかり​し​て​いる​だろ​う​な​と​思っ​て​しまい​ます」。

さらっと載せてますがこれとんでもないことですよ。
4節の経験は子供の頃から楽園について祈ってますから、あきらかに2世です。
8節の経験もベストを尽くしていると言えるぐらいですから、新しい信者ではないでしょう。
それなのに、二人とも「自分は神に喜ばれていない」と感じているんです。
ということはそれなりの期間JWとして活動している人が、救いを感じていないということです。
しかも、特に悪癖をやめられないなどの問題がある訳ではないのに。
ということは、これは絶対に導き手が悪いんですよ。
つまり、このJWという組織の教えを学んでいると「自分は神に喜ばれていない」と感じるようになる(可能性が高い)ということです。

今週の主題が空虚に感じますね。


じゃあ、その原因になってると思える箇所。

まず2節。
エホバ​に​心​を​込め​て​仕える​ため​に​ベスト​を​尽くす​なら,エホバ​は​私たち​の​こと​を​喜び,親しい​友​に​なっ​て​くれ​ます。

これですよ。
神が喜んでくださる条件に「ベストを尽くす」なんてものを入れるから、どこまでやっても「まだ足りないのではないか?」と感じてしまうんです。
そして実際、JWの組織は、「今できていることで満足するな!」というメッセージを出版物でも、巡回や長老を通してでも送ってきます。
これじゃあいくら「エホバ​は​あなた​の​こと​を​喜ん​で​い​ます」なんてタイトルにしても、そこに自分は含まれないと思わされてしまいます。

同じことを9節から。
エホバ​が​厳しい​方​で​は​なく,私たち​に​できる​以上​の​こと​を​求め​たり​は​し​ない​と​いう​こと​を​思い出し​ましょ​う。どんな​に​わずか​で​あっ​て​も,ベスト​を​尽くし​て​いる​なら​喜ん​で​ください​ます。

また出ました!「ベスト​を​尽くし​て​いる​なら」
数えると、この記事の中だけで3回も、「神に喜ばれるためには、ベスト​を​尽くし​て​いる​必要がある」とでてきています。

昔、何かの本で「成果を台無しにする悪魔の言葉」が出ていました。
それは、「もっとできたのではないだろうか」でした。
一年で10億円の利益を上げようが、100万人の命を救おうが、「もっとできたのではないだろうか」と言ったら決して満足できなくなってしまうというものです。

私には「ベスト​を​尽くし​て​いる​なら」がこれと同じものに思えるんですよ。
ベストを尽くすという言葉は残酷で、主観しかないので、考え方ひとつでいくらやっても切りがなくなってしまいます。
さらに、誰かが限界まで頑張って何かを成し遂げても、「それは本当にあなたのベストだったか?」と言うだけで、台無しにできてしまうんです。

そんな悪魔の言葉を、たった一つの記事で3回も、神に喜ばれるための条件として使ってれば、「自分は神に喜ばれない」と信者が感じさせられるのは当然ではないでしょうか。


ちなみに3箇所目は16節でした。
私たち​が​良い​知らせ​を​伝える​ため​に​ベスト​を​尽くし​て​頑張る​なら,エホバ​が​喜ん​で​くださっ​て​いる​こと​を​確信​でき​ます。

もう、うんざりですよ。
イエスは隣人を愛するように命じたんですよ。
この16節は、隣人に対するどんなに愛も考慮しないで、ただただ「宣教」に「ベストを尽くす」ことを求めています。

こんなのイエスの教えと全く違ってます。

そりゃ組織に従ってたら、神と縁遠くなるわけです。

ちなみに私も小さいころは、4節に出てきたアドリアンのように、自分が楽園に行けるとは思えませんでした。
神が「厳しい神ではない」と思えてきたのは、大きくなって、出版物よりも聖書を読むようになってからでしたね。

というわけで、結論。

こんな記事を読んでると、主題と真逆の思いを植え付けられるので、さっさとやめましょう。

まだ突っ込みたい箇所があるんですけど、遅くなっちゃったので今週は以上です。


おかあさんといっしょであしたは晴れるを聴きながら。
なんか、線香花火みたいな面白い花が咲いていると思って写真を撮りました。


グーグルレンズ先生によると、ノビルらしい。
あれ?食べられるやつじゃん。
と思ったのですが、花が咲くと風味が落ちたり、固くなったりするのでもう遅いらしいです。
そして残念ながら、花が咲く前に見つけるのは私には無理です。


さて、今週の記事についてです。

今回の突っ込みは大きいのは2つ。

重大なことと全然重大じゃないことをごっちゃにしていることと、一見まともなことを言ってるように見せかけて、馬鹿みたいな結論を押し付けていることです。


じゃあまずは、重大なことと全然重大じゃないことをごっちゃにしていることから。
4,5節。エフェソスの状態について。
4節。
エフェソス​の​町​に​は​アルテミス​の​神殿​が​あり,世界​の​七​不思議​の​1​つ​と​し​て​知ら​れ​て​い​まし​た。そこ​で​は,多く​の​人々​が​熱心​に​偶像​崇拝​を​行っ​て​い​まし​た。(中略)また,エフェソス​に​は​魔術​も​はびこっ​て​い​まし​た。
5節。
エフェソス​の​町​は,ひどい​不​道徳​や​恥知らず​な​行い​で​あふれ​て​いる​こと​で​有名​でし​た。劇場​や​宗教​行事​で​も,下品​な​会話​が​飛び交っ​て​い​まし​た。

なるほど大変な状況でしたね。
「下品な会話」は具体例がないのでなんとも言えませんが、こう書かれるぐらいなのできっとひどかったんでしょう。

ところが、これと現代の私達を比較したのが7節。
私たち​も,真理​を​学ぶ​前​は​崇拝​の​面​で​も​道徳​の​面​で​も​闇​の​中​に​い​まし​た。間違っ​た​宗教​に​関係​し​た​祝日​を​祝っ​て​い​た​人​も​いれ​ば,道徳​的​に​乱れ​た​生活​を​送っ​て​い​た​人​も​い​ます。

私達がエフェソスの人たちと同様「闇の中」にいた、としているのですがその根拠がおかしい。
「間違っ​た​宗教​に​関係​し​た​祝日​を​祝っ​て​い​た​人」は、「闇の中」にいるんだそうです。

「祝日」って言ったって、厳密にたどれば起源がどうこうって程度のものでしょ?別にキリスト教徒を名乗りつつヤギを何頭も捧げながら、シヴァ神の像を担いで練り歩いたりしてたわけじゃないでしょ?
それが「熱心​に​偶像​崇拝」をしていて「魔術​も​はびこっ​て​」いたと言われる人たちと同じものとして扱われるのは、どう考えても納得できません。

道徳についてもそうです。
そりゃ中には不道徳な人もいるかもしれません。でもエフェソスの人たちは「ひどい​不​道徳​や​恥知らず​な​行い​で​あふれ​て​いる​こと​で​有名」ってレベルなんですよ。
ほとんどの人はさすがにそこまで乱れてないんじゃないですかね?

てことは、そもそも現代の人はエフェソスの人と同じような「闇の中」になんていない、って言えるんじゃないですかね。

でもなぜか同じ「闇の中」にいたとされちゃうんですよ、この宗教では。


では次。
一見まともなことを言ってるように見せかけて、馬鹿みたいな結論を押し付けていることについて。
8節。ここはやや厳しく感じますが、まだ分かります。
道徳​的​に​清い​状態​を​保つ​ため​に,エフェソス​の​クリスチャン​は​エホバ​に​喜ば​れ​ない​行い​を​避ける​必要​が​あり​まし​た。その​中​に​は​性的​に​不​道徳​な​行い​だけ​で​なく,下品​な​会話​も​含ま​れ​て​い​まし​た。

問題はこの適用です。
11節。
「ソーシャルメディア​を​使っ​て​いる​と,だんだん​感覚​が​鈍く​なっ​て​き​ます。私​は,聖書​の​原則​を​大切​に​し​ない​人​たち​を​友達​に​する​こと​を​何​と​も​思わ​なく​なっ​て​しまい​まし​た。そして,エホバ​が​喜ば​ない​ライフスタイル​を​し​て​も​構わ​ない​ん​じゃ​ない​か​と​思う​まで​に​なり​まし​た」。

不道徳な行いや下品な会話を避けることと、ソーシャルメディアを使わないことに、直接の関係はありません。
不道徳を避けるのは結構ですが、人間関係をむやみに狭くするのは、それはそれで問題があります。
悪影響を及ぼす僅かな人を避けるために、その他の無害な大多数を意味もなく避けることになってしまいます。

個人個人を見て、その人がどんな人かを判断できないんですかね?JWの成員は。


ちなみに箴言18:1には
自分​を​孤立​さ​せる​者​は​利己​的​な​願望​を​追い求める。その​者​は​あらゆる​実際​的​な​知恵​に​逆らっ​て​突き進む。
とあります。
人間関係を狭くすることは、とりも直さず孤立に向かって進んでることだと思いますが、知恵に逆らって突き進んでる自覚はあるのでしょうかね。


さらに12節の自問点。
「職場​や​学校​など​で​会う,エホバ​の​基準​を​大切​に​し​て​い​ない​人​たち​と​必要​以上​に​仲良く​なら​ない​よう​に​注意​し​て​いる​だろ​う​か。考え方​が​古い​と​言わ​れる​と​し​て​も,エホバ​の​基準​に​しっかり​従う​だろ​う​か」。

「必要​以上​に​仲良くならない」なんてあやふやな言葉で誤魔化していますが、JWの基準だと一緒に食事も行かないことが推奨されています。もちろんこれも、上と同様人間関係をむやみに狭くすることになります。


さらに14節。
聖​なる​力​は,世間​一般​に​見​られる​哲学​や​神​の​教え​と​合わ​ない​考え方​を​退ける​助け​に​なり​ます。

ついに人間関係だけでなく、情報まで制限してきやがりました。
「哲学」というだけで拒否反応を起こすのも馬鹿らしいです。
その考え方が「神の教え」に合ってるかどうか自分で考えりゃいいだけの話です。
世間一般の教えにも、神の教えに沿ってるものが多くあります。
同じ提案なのに、哲学からだと忌避し、組織からだとありがたがって受け入れる、なんてのは愚かの極みです。

ほんの数年前まで、JWの成員は体罰を否定するどころか推奨していました。そして、体罰を否定することを「何でも許容する世の知恵」と見下していました。
ところが、JW内の体罰が世間で注目されるやいなや、組織は方針をガラッと変え、「体罰を容認していない」などと公式に発表しやがりました。
言わば、JWの真理を世に合わせて修正したわけです。

その程度でころころ変わる神の教え()だけに頼るのは、大変危険だと思います。

振り返ると、8節では「エホバ​に​喜ば​れ​ない​行い​を​避ける」って話だったのに、いつの間にかJW以外の付き合いを制限され、ころころ変わるJWの真理だけを受け入れるように誘導してるんですよ。
さすがJW、やり方が汚い。


とどめが16,17節。
13節で「光​の​子供​と​し​て​歩[む]」ということは「どんな​時​も​本物​の​クリスチャン​に​ふさわしい​行動​を​する​と​いう​こと​です。」
と書かれていることの適用についてなんですが、

16節。
重要​な​決定​を​する​時​に​は,「エホバ​が​何​を​望ん​で​いる​か」を​見極め,その​通り​に​行動​する​こと​が​大切​です。
17節。
エホバ​に​ベスト​を​尽くし​て​仕える​こと​より​も,お金​や​教育​や​仕事​を​優先​さ​せる​よう​に​なっ​て​しまう​か​も​しれ​ませ​ん。もし​そう​だ​と​し​たら,それ​は​私たち​が​エホバ​に​仕え​て​い​ない​人​たち​の​影響​を​受け​て​いる​こと​の​サイン​です。

16節で、『「エホバ​が​何​を​望ん​で​いる​か」を​見極め』ろと言って置きながら、17節では神がなんとも言ってない教育や仕事を制限するように押し付けている。
そもそも普通の仕事なら、「光の子供として歩む」ことにも「クリスチャンにふさわしい行動をする」ことにも、両立できるはずです。

一見聖書の基準を守るように勧めているように見せかけて、JW独自の常軌を逸した基準を押し付けるのは本当にやり方が汚いです。


そして経験が出ている18節。
南​アフリカ​に​住む​ドナルド​兄弟​は​そう​し​まし​た。こう​言っ​て​い​ます。「自分​の​生活​を​見直し​まし​た。そして,『エホバ​の​ため​に​もっと​多く​の​こと​が​できる​よう​に​助け​て​ください。伝道​の​時間​を​もっと​増やせる​よう​な​仕事​を​与え​て​ください』と​祈り​まし​た。エホバ​の​助け​で​ぴったり​の​仕事​を​見つける​こと​が​でき​まし​た。夫婦​で​全​時間​奉仕​を​する​と​いう​人生​の​新た​な​一歩​を​踏み出す​こと​も​でき​まし​た」。

このクソみたいな経験に励まされて、組織に勧められるがまま全時間奉仕を捉えちゃう残念な人もいるのかもしれませんが、このドナルド夫婦が10年後に困窮することになっても組織は一切助けませんし、一銭たりとも出しません。

もしかしたら20年後には「仕事を制限して奉仕を無理に拡大するという、間違った決定をした人たちもいました」などと、家を売った人と同様にはしごを外されてるかもしれないんです。

まるで信頼に値しない組織の言うままに人生設計をするのは自殺行為ですね。


最後。9節。
あまりにも馬鹿らしい話。
ある​国​で​は,何十​人​も​の​エホバ​の​証人​が​オンライン​上​で​友達​に​なり,チャットグループ​を​作っ​て​会話​を​楽しん​で​い​まし​た。初め​は,エホバ​や​聖書​の​こと​に​つい​て​話​し​て​い​まし​た。でも​やがて,会話​の​内容​は​良く​ない​もの​に​なっ​て​いき,セックス​の​話題​で​盛り上がる​よう​に​なり​まし​た。この​良く​ない​会話​が​きっかけ​で,多く​の​人​が​性的​に​不​道徳​な​こと​を​し​て​しまい​まし​た。

このJWたちはエフェソス人だったのかな?

なーにが「闇​を​離れ,光​の​中​に​とどまる」だよ。
完全に闇の中じゃねーか!
一部の人の暴走ということにしてるのかもしれませんが、この土壌を作ったのはJWです。
そして、自浄作用も働かなかったってことです。

結論。
JWは

闇​を​離れるためには、まずJWから出る必要がありますね。

今週は以上です。
バラ!


いい季節ですね。
山下公園とか行きたいなぁ。
いよいよ紫陽花も咲き出しました。
鎌倉行くのもいいなぁ。
まあ、だいたい行く前にシーズンが終わっちゃうんですけどね。


さて今週の記事についてです。
全体的な印象としては、組織が自分たちの至らなさの責任をエホバに擦り付けているように思いました。

組織が別に神に導かれているわけではないからこそ、信者が「がっかりする」わけですが、それを
無理に神に導かれていることにして、「エホバが導いているこの組織から離れないように!」と喚いている感じ。
神から離れることと、組織から離れることは全く別のことなんですけどねぇ。


んじゃ突っ込みます。
まずは1節。初っ端から。
エホバ​の​家族​の​一員​で​いら​れる​の​は​素晴らしい​こと​です。エホバ​は​互い​に​支え合える​兄弟​姉妹​を​与え​て​くださっ​て​い​ます。幸せ​な​結婚​生活​を​送れる​よう​に​も​助け​て​くださっ​て​い​ます。また,穏やか​な​気持ち​で​いら​れる​よう​に,洞察​力​や​知恵​も​与え​て​くださっ​て​い​ます。

ここからして、絵に描いた餅ですよね。
別に「エホバ​の​家族​の​一員​で​いら​れる​の​は​素晴らしいこと」なんかじゃ全くありません。
「互い​に​支え合える​兄弟​姉妹」というよりは、寄りかかって来て感謝もしない兄弟​姉妹だったりします。
組織にいるがゆえの「幸せ​な​結婚​生活」なんてものも幻想です。
まだ現役だったときに、会衆の長老と話す機会があったのですが、長老夫婦が喧嘩になるのはだいたい集会のある日だと言っていました。
おそらく集会がストレスになってギクシャクするのでしょう。そりゃあんな監視しあい裁きあう集団のところに行くのはストレスですよ。組織は幸せよりも負担になっています。
「穏やか​な​気持ち​で​いら​れる」なら、こんなに病んだ人を生み出しているわけがありません。
そして人生について何も良い決定をできずに、この世の終わりをただただ待つだけのくせに「洞察​力​や​知恵​も​与え​」られたつもりでいるんです。
何一つ事実ではありません。
でもそれを事実とすることによって自分たちが「幸福」だと思っている。
自己欺瞞ここに極まれりって感じ。
決して救われませんね。


次。がっかりする例その1。仲間に傷つけられた時。
6節。
誰か​に​気​に​障る​よう​な​こと​を​され​た​と​し​て​も,その​人​が​エホバ​に​喜ば​れる​こと​を​行い​たい​と​思っ​て​いる​こと​を​疑わ​ない​よう​に​し​ましょ​う。ただ​軽率​に​行動​し​て​しまっ​た​だけ​な​の​か​も​しれ​ませ​ん。

多少のことなら、ここで言われているように我慢もできます。
でも長年常に「軽率に行動」するような奴がいるんですよ。
もう、イエスが言った77回を超えて許してやったのに、まだ繰り返すような奴等です。
それを疑わずに我慢しろというのはどだい無理な話なんですよ。

被害を受けないために、こちらが逃げることぐらい認めるべきでしょう。やり返さないだけ、十分平和を追い求めていると言えるんじゃないでしょうか。


次、がっかりする例その2。配偶者にがっかりさせられた時。8節。
相手​も​完璧​で​は​あり​ませ​ん​し,自分​と​は​違う​文化​や​背景​で​育っ​た​か​も​しれ​ませ​ん。結婚​し​て​から​初めて​気付く​ちょっと​し​た​癖​も​ある​か​も​しれ​ませ​ん。そう​し​た​ささい​な​点​も​摩擦​を​生む​こと​が​あり​ます。中​に​は​問題​を​解決​し​よう​と​し​ない​で,全て​を​相手​の​せい​に​する​人​も​い​ます。もう​別居​し​たり​離婚​し​たり​する​しか​解決​策​は​ない,と​決め付け​て​しまう​か​も​しれ​ませ​ん。でも​本当​に​そう​でしょ​う​か。

何が「でも​本当​に​そう​でしょ​う​か。」だよ。
なんにも知らない奴が代わりに決定しようとするんじゃねーよ。
「ちょっとした癖」程度じゃないんてすよ!
長老の息子だろうが奉仕の僕だろうが、ハズレ引いたら、モラハラでもDVでもなんでもありなんですよ。
開拓にかまけて生活費を入れないヒモとか、明らかに信仰がない人より悪いって聖書に書かれてるじゃないですか。それがなぜかJWでは模範的っぽい扱いを受けてたりする。
それなのに妻が苦情を言うと、『「ちょっとした癖」なのに妻の我慢が足りない』みたいに扱われたりする。
夫の暴力から逃げて行政のお世話にまでなってるのに、「もう​別居​し​たり​離婚​し​たり​する​しか​解決​策​は​ない,と​決め付け​て​しまう」なんて文句を言うんだったらしっかり解決させてみせろ、と。


次、がっかりする例その3。自分の失敗にがっかりする時から。15節。
罪​を​犯し​た​時​に​罪悪​感​を​感じる​の​は,自然​で​正しい​こと​です。でも​だから​と​いっ​て,自分​は​もう​愛さ​れ​て​い​ない​と​か​許し​て​もらえ​ない​と​は​考え​ない​で​ください。

これもさあ。
普通の人だったら、多少失敗しても、神から「自分​は​もう​愛さ​れ​て​い​ない​と​か​許し​て​もらえ​ない​」なんて考えないでしょう。
だったら、なんでこの組織の人は、こんな指示をしないとそう考えるのか、理由を調べるべきじゃないですか?

私には、組織が大したことのない分野まであれこれ規則を作り出し、それがさも大切なものであるかのように教えるから、罪悪感に打ちのめされる人が発生するように思えるんですよ。

続く部分で、
兄弟​は​長老​に​話す​必要​が​ある​と​思い​まし​た。

なんて、まるで許されるために長老に話す必要があるかのように思わせるような書き方をしてるのが証拠ですよ。

ということは、がっかりさせているのはむしろJWの組織ってことになりますね。


最後。ちょっと関連してますが、ペテロの失敗について。13節。
イエス​が​処刑​さ​れる​前​の​晩,使徒​ペテロ​は​たくさん​の​間違い​を​犯し,その​後,人生​で​最大​の​失敗​を​し​て​しまい​まし​た。

ここで挙げられているのは、イエスを置いて逃げたこととか、否認して誓ったり呪ったりしたことなんですけど、最大の失敗ってほどのものかなぁ、と思うわけですよ。

人の奥さん寝取っておいて、バレそうになったら旦那殺しちゃったダビデと比較すると、なんかここに出てきたペテロの罪なんか大したことないように思えちゃうんですよねぇ。

神が、ダビデすら許して、その胤からイエスが生まれるようにしてるんなら、基本大抵のことは心から悔い改めてれば、ただの人間の長老の介入なんかなくても許されるって思えるはずなのに、ペテロの人生​で​最大​の​失敗だの犯した罪の大きさだの書くことで、神を厳しい存在に仕立て上げてる。

やっぱり私には、JWの組織が信者を、失敗した時に落ち込むように仕向けているようにしか見えません。



今週は以上です。