バラ!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240524/22/miso-siro/d3/bb/p/o0791070315442909877.png?caw=800)
いい季節ですね。
山下公園とか行きたいなぁ。
いよいよ紫陽花も咲き出しました。
鎌倉行くのもいいなぁ。
まあ、だいたい行く前にシーズンが終わっちゃうんですけどね。
さて今週の記事についてです。
全体的な印象としては、組織が自分たちの至らなさの責任をエホバに擦り付けているように思いました。
組織が別に神に導かれているわけではないからこそ、信者が「がっかりする」わけですが、それを
無理に神に導かれていることにして、「エホバが導いているこの組織から離れないように!」と喚いている感じ。
神から離れることと、組織から離れることは全く別のことなんですけどねぇ。
んじゃ突っ込みます。
まずは1節。初っ端から。
ここからして、絵に描いた餅ですよね。
別に「エホバの家族の一員でいられるのは素晴らしいこと」なんかじゃ全くありません。
「互いに支え合える兄弟姉妹」というよりは、寄りかかって来て感謝もしない兄弟姉妹だったりします。
組織にいるがゆえの「幸せな結婚生活」なんてものも幻想です。
まだ現役だったときに、会衆の長老と話す機会があったのですが、長老夫婦が喧嘩になるのはだいたい集会のある日だと言っていました。
おそらく集会がストレスになってギクシャクするのでしょう。そりゃあんな監視しあい裁きあう集団のところに行くのはストレスですよ。組織は幸せよりも負担になっています。
「穏やかな気持ちでいられる」なら、こんなに病んだ人を生み出しているわけがありません。
そして人生について何も良い決定をできずに、この世の終わりをただただ待つだけのくせに「洞察力や知恵も与え」られたつもりでいるんです。
何一つ事実ではありません。
でもそれを事実とすることによって自分たちが「幸福」だと思っている。
自己欺瞞ここに極まれりって感じ。
決して救われませんね。
次。がっかりする例その1。仲間に傷つけられた時。
6節。
多少のことなら、ここで言われているように我慢もできます。
でも長年常に「軽率に行動」するような奴がいるんですよ。
もう、イエスが言った77回を超えて許してやったのに、まだ繰り返すような奴等です。
それを疑わずに我慢しろというのはどだい無理な話なんですよ。
被害を受けないために、こちらが逃げることぐらい認めるべきでしょう。やり返さないだけ、十分平和を追い求めていると言えるんじゃないでしょうか。
次、がっかりする例その2。配偶者にがっかりさせられた時。8節。
何が「でも本当にそうでしょうか。」だよ。
なんにも知らない奴が代わりに決定しようとするんじゃねーよ。
「ちょっとした癖」程度じゃないんてすよ!
長老の息子だろうが奉仕の僕だろうが、ハズレ引いたら、モラハラでもDVでもなんでもありなんですよ。
開拓にかまけて生活費を入れないヒモとか、明らかに信仰がない人より悪いって聖書に書かれてるじゃないですか。それがなぜかJWでは模範的っぽい扱いを受けてたりする。
それなのに妻が苦情を言うと、『「ちょっとした癖」なのに妻の我慢が足りない』みたいに扱われたりする。
夫の暴力から逃げて行政のお世話にまでなってるのに、「もう別居したり離婚したりするしか解決策はない,と決め付けてしまう」なんて文句を言うんだったらしっかり解決させてみせろ、と。
次、がっかりする例その3。自分の失敗にがっかりする時から。15節。
これもさあ。
普通の人だったら、多少失敗しても、神から「自分はもう愛されていないとか許してもらえない」なんて考えないでしょう。
だったら、なんでこの組織の人は、こんな指示をしないとそう考えるのか、理由を調べるべきじゃないですか?
私には、組織が大したことのない分野まであれこれ規則を作り出し、それがさも大切なものであるかのように教えるから、罪悪感に打ちのめされる人が発生するように思えるんですよ。
続く部分で、
なんて、まるで許されるために長老に話す必要があるかのように思わせるような書き方をしてるのが証拠ですよ。
ということは、がっかりさせているのはむしろJWの組織ってことになりますね。
最後。ちょっと関連してますが、ペテロの失敗について。13節。
ここで挙げられているのは、イエスを置いて逃げたこととか、否認して誓ったり呪ったりしたことなんですけど、最大の失敗ってほどのものかなぁ、と思うわけですよ。
人の奥さん寝取っておいて、バレそうになったら旦那殺しちゃったダビデと比較すると、なんかここに出てきたペテロの罪なんか大したことないように思えちゃうんですよねぇ。
神が、ダビデすら許して、その胤からイエスが生まれるようにしてるんなら、基本大抵のことは心から悔い改めてれば、ただの人間の長老の介入なんかなくても許されるって思えるはずなのに、ペテロの人生で最大の失敗だの犯した罪の大きさだの書くことで、神を厳しい存在に仕立て上げてる。
今週は以上です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240524/22/miso-siro/d3/bb/p/o0791070315442909877.png?caw=800)
山下公園とか行きたいなぁ。
いよいよ紫陽花も咲き出しました。
鎌倉行くのもいいなぁ。
まあ、だいたい行く前にシーズンが終わっちゃうんですけどね。
さて今週の記事についてです。
全体的な印象としては、組織が自分たちの至らなさの責任をエホバに擦り付けているように思いました。
組織が別に神に導かれているわけではないからこそ、信者が「がっかりする」わけですが、それを
無理に神に導かれていることにして、「エホバが導いているこの組織から離れないように!」と喚いている感じ。
神から離れることと、組織から離れることは全く別のことなんですけどねぇ。
んじゃ突っ込みます。
まずは1節。初っ端から。
エホバの家族の一員でいられるのは素晴らしいことです。エホバは互いに支え合える兄弟姉妹を与えてくださっています。幸せな結婚生活を送れるようにも助けてくださっています。また,穏やかな気持ちでいられるように,洞察力や知恵も与えてくださっています。
ここからして、絵に描いた餅ですよね。
別に「エホバの家族の一員でいられるのは素晴らしいこと」なんかじゃ全くありません。
「互いに支え合える兄弟姉妹」というよりは、寄りかかって来て感謝もしない兄弟姉妹だったりします。
組織にいるがゆえの「幸せな結婚生活」なんてものも幻想です。
まだ現役だったときに、会衆の長老と話す機会があったのですが、長老夫婦が喧嘩になるのはだいたい集会のある日だと言っていました。
おそらく集会がストレスになってギクシャクするのでしょう。そりゃあんな監視しあい裁きあう集団のところに行くのはストレスですよ。組織は幸せよりも負担になっています。
「穏やかな気持ちでいられる」なら、こんなに病んだ人を生み出しているわけがありません。
そして人生について何も良い決定をできずに、この世の終わりをただただ待つだけのくせに「洞察力や知恵も与え」られたつもりでいるんです。
何一つ事実ではありません。
でもそれを事実とすることによって自分たちが「幸福」だと思っている。
自己欺瞞ここに極まれりって感じ。
決して救われませんね。
次。がっかりする例その1。仲間に傷つけられた時。
6節。
誰かに気に障るようなことをされたとしても,その人がエホバに喜ばれることを行いたいと思っていることを疑わないようにしましょう。ただ軽率に行動してしまっただけなのかもしれません。
多少のことなら、ここで言われているように我慢もできます。
でも長年常に「軽率に行動」するような奴がいるんですよ。
もう、イエスが言った77回を超えて許してやったのに、まだ繰り返すような奴等です。
それを疑わずに我慢しろというのはどだい無理な話なんですよ。
被害を受けないために、こちらが逃げることぐらい認めるべきでしょう。やり返さないだけ、十分平和を追い求めていると言えるんじゃないでしょうか。
次、がっかりする例その2。配偶者にがっかりさせられた時。8節。
相手も完璧ではありませんし,自分とは違う文化や背景で育ったかもしれません。結婚してから初めて気付くちょっとした癖もあるかもしれません。そうしたささいな点も摩擦を生むことがあります。中には問題を解決しようとしないで,全てを相手のせいにする人もいます。もう別居したり離婚したりするしか解決策はない,と決め付けてしまうかもしれません。でも本当にそうでしょうか。
何が「でも本当にそうでしょうか。」だよ。
なんにも知らない奴が代わりに決定しようとするんじゃねーよ。
「ちょっとした癖」程度じゃないんてすよ!
長老の息子だろうが奉仕の僕だろうが、ハズレ引いたら、モラハラでもDVでもなんでもありなんですよ。
開拓にかまけて生活費を入れないヒモとか、明らかに信仰がない人より悪いって聖書に書かれてるじゃないですか。それがなぜかJWでは模範的っぽい扱いを受けてたりする。
それなのに妻が苦情を言うと、『「ちょっとした癖」なのに妻の我慢が足りない』みたいに扱われたりする。
夫の暴力から逃げて行政のお世話にまでなってるのに、「もう別居したり離婚したりするしか解決策はない,と決め付けてしまう」なんて文句を言うんだったらしっかり解決させてみせろ、と。
次、がっかりする例その3。自分の失敗にがっかりする時から。15節。
罪を犯した時に罪悪感を感じるのは,自然で正しいことです。でもだからといって,自分はもう愛されていないとか許してもらえないとは考えないでください。
これもさあ。
普通の人だったら、多少失敗しても、神から「自分はもう愛されていないとか許してもらえない」なんて考えないでしょう。
だったら、なんでこの組織の人は、こんな指示をしないとそう考えるのか、理由を調べるべきじゃないですか?
私には、組織が大したことのない分野まであれこれ規則を作り出し、それがさも大切なものであるかのように教えるから、罪悪感に打ちのめされる人が発生するように思えるんですよ。
続く部分で、
兄弟は長老に話す必要があると思いました。
なんて、まるで許されるために長老に話す必要があるかのように思わせるような書き方をしてるのが証拠ですよ。
ということは、がっかりさせているのはむしろJWの組織ってことになりますね。
最後。ちょっと関連してますが、ペテロの失敗について。13節。
イエスが処刑される前の晩,使徒ペテロはたくさんの間違いを犯し,その後,人生で最大の失敗をしてしまいました。
ここで挙げられているのは、イエスを置いて逃げたこととか、否認して誓ったり呪ったりしたことなんですけど、最大の失敗ってほどのものかなぁ、と思うわけですよ。
人の奥さん寝取っておいて、バレそうになったら旦那殺しちゃったダビデと比較すると、なんかここに出てきたペテロの罪なんか大したことないように思えちゃうんですよねぇ。
神が、ダビデすら許して、その胤からイエスが生まれるようにしてるんなら、基本大抵のことは心から悔い改めてれば、ただの人間の長老の介入なんかなくても許されるって思えるはずなのに、ペテロの人生で最大の失敗だの犯した罪の大きさだの書くことで、神を厳しい存在に仕立て上げてる。
やっぱり私には、JWの組織が信者を、失敗した時に落ち込むように仕向けているようにしか見えません。
今週は以上です。