ホタルブクロ@藪の中



気づくともうネジバナだとかキンシバイとかいろいろ咲いていました。
いつも見に行っているところにホタルブクロを探しに行ったら、もう終わっちゃった花がずいぶんありました。見に行くのが遅かったですね。


さて今週の記事についてです。
まあ、いつものことなんですけど。
ダブルバインドって言うんでしたっけ、矛盾してることを堂々と押し付けてるのが引っかかりました。
主題は「エホバ​は​あなた​の​こと​を​喜ん​で​い​ます」なんですけど、随所で喜ばれるための条件が出てくるんですよ。
条件があるってことは、とりも直さず、その条件を満たさなければ喜ばれないってことじゃないですか。

そもそも、ローマ3:24には「神の​過分​の​ご親切​に​よっ​て​義​と​宣せ​られる​の​は,無償​の​賜物​と​し​て​な​の​です。」ってあるのに、条件を強調するのは間違ってると思います。

では突っ込みです。
まず、信者の言葉を2つ引用します。
4節。

アドリアン​兄弟​は​こう​言い​ます。「私​は​昔​から​自分​に​あまり​自信​が​あり​ませ​ん。子供​の​頃,『家族​みんな​で​楽園​に​行け​ます​よう​に』と​よく​祈っ​て​い​まし​た。でも,自分​は​楽園​に​入れ​て​もらえ​ない​だろ​う​な​と​思っ​て​い​まし​た」。

続けて8節。

「私​は​ベスト​を​尽くし​て​エホバ​に​仕え​て​い​て​も,もっと​頑張ら​なけれ​ば​いけ​ない​と​いう​気持ち​に​なる​こと​が​あり​ます。自分​に​できる​以上​の​こと​を​やろ​う​と​し​て​しまう​ん​です。そして​それ​が​でき​ない​と​落ち込み,エホバ​も​がっかり​し​て​いる​だろ​う​な​と​思っ​て​しまい​ます」。

さらっと載せてますがこれとんでもないことですよ。
4節の経験は子供の頃から楽園について祈ってますから、あきらかに2世です。
8節の経験もベストを尽くしていると言えるぐらいですから、新しい信者ではないでしょう。
それなのに、二人とも「自分は神に喜ばれていない」と感じているんです。
ということはそれなりの期間JWとして活動している人が、救いを感じていないということです。
しかも、特に悪癖をやめられないなどの問題がある訳ではないのに。
ということは、これは絶対に導き手が悪いんですよ。
つまり、このJWという組織の教えを学んでいると「自分は神に喜ばれていない」と感じるようになる(可能性が高い)ということです。

今週の主題が空虚に感じますね。


じゃあ、その原因になってると思える箇所。

まず2節。
エホバ​に​心​を​込め​て​仕える​ため​に​ベスト​を​尽くす​なら,エホバ​は​私たち​の​こと​を​喜び,親しい​友​に​なっ​て​くれ​ます。

これですよ。
神が喜んでくださる条件に「ベストを尽くす」なんてものを入れるから、どこまでやっても「まだ足りないのではないか?」と感じてしまうんです。
そして実際、JWの組織は、「今できていることで満足するな!」というメッセージを出版物でも、巡回や長老を通してでも送ってきます。
これじゃあいくら「エホバ​は​あなた​の​こと​を​喜ん​で​い​ます」なんてタイトルにしても、そこに自分は含まれないと思わされてしまいます。

同じことを9節から。
エホバ​が​厳しい​方​で​は​なく,私たち​に​できる​以上​の​こと​を​求め​たり​は​し​ない​と​いう​こと​を​思い出し​ましょ​う。どんな​に​わずか​で​あっ​て​も,ベスト​を​尽くし​て​いる​なら​喜ん​で​ください​ます。

また出ました!「ベスト​を​尽くし​て​いる​なら」
数えると、この記事の中だけで3回も、「神に喜ばれるためには、ベスト​を​尽くし​て​いる​必要がある」とでてきています。

昔、何かの本で「成果を台無しにする悪魔の言葉」が出ていました。
それは、「もっとできたのではないだろうか」でした。
一年で10億円の利益を上げようが、100万人の命を救おうが、「もっとできたのではないだろうか」と言ったら決して満足できなくなってしまうというものです。

私には「ベスト​を​尽くし​て​いる​なら」がこれと同じものに思えるんですよ。
ベストを尽くすという言葉は残酷で、主観しかないので、考え方ひとつでいくらやっても切りがなくなってしまいます。
さらに、誰かが限界まで頑張って何かを成し遂げても、「それは本当にあなたのベストだったか?」と言うだけで、台無しにできてしまうんです。

そんな悪魔の言葉を、たった一つの記事で3回も、神に喜ばれるための条件として使ってれば、「自分は神に喜ばれない」と信者が感じさせられるのは当然ではないでしょうか。


ちなみに3箇所目は16節でした。
私たち​が​良い​知らせ​を​伝える​ため​に​ベスト​を​尽くし​て​頑張る​なら,エホバ​が​喜ん​で​くださっ​て​いる​こと​を​確信​でき​ます。

もう、うんざりですよ。
イエスは隣人を愛するように命じたんですよ。
この16節は、隣人に対するどんなに愛も考慮しないで、ただただ「宣教」に「ベストを尽くす」ことを求めています。

こんなのイエスの教えと全く違ってます。

そりゃ組織に従ってたら、神と縁遠くなるわけです。

ちなみに私も小さいころは、4節に出てきたアドリアンのように、自分が楽園に行けるとは思えませんでした。
神が「厳しい神ではない」と思えてきたのは、大きくなって、出版物よりも聖書を読むようになってからでしたね。

というわけで、結論。

こんな記事を読んでると、主題と真逆の思いを植え付けられるので、さっさとやめましょう。

まだ突っ込みたい箇所があるんですけど、遅くなっちゃったので今週は以上です。


おかあさんといっしょであしたは晴れるを聴きながら。