立憲民主党の菅直人元首相が日本維新の会に対して「ヒトラーを思い起こす」とツイッターに書いた問題がどうなるだろうと興味を持ってみていました。

 

『共同通信』によれば菅元総理が「低所得層が共鳴し、指示を広げた」のが維新の躍進の鍵だったとまたツイッターに書いたそうです。

 

私はこれを読んでがっかりしました。維新とナチスが同じというならナチスも低所得層に支持されたのでしょうか?

 

これは全くの誤りです。

 

アメリカのマイケル・リンドの『新しい階級戦争』という本には次のように書いてありました。

 

「ドイツの労働者階級はナチ党に最低の支持しか与えなかった。ヒトラーの伝記作家であるヴォルカー・ウルリッヒはナチ党の支持者は主に中間層で、ミュンヘンの大学の生徒、卒業生、教授の比率は驚くべきものだと観察している。」

 

では、維新を支持しているのは、菅元総理が言うように低所得者層なのだろうか?

 

どうもこれも怪しい。以前このブログでも紹介したこともある三橋貴明さんと関学の富田教授の対談で、富田教授が維新の支持者は大企業に勤めて大阪の高層マンションに住んでいる中間層だと語っていました。

 

イギリスのデイビッド・グッドハートは地元の高校を卒業し、都会の大学に進み大企業に就職した人のことをanhywhere(どこでも)族と呼び、高校卒業後地元に残って働く人たちのことをsomewhere(どこかに)族と呼んで、その政治的な好みの違いを説明しています。

 

そしてイギリスがEUから離脱したことやトランプ大統領が当選したことをanywhere族に対するsomewhere族の反乱と規定していました。

 

日本維新の会もそのネオリベ的な思想にみられるように、この党は明らかにanywhere族の政党なのです。

 

そこで維新の会が提案する大阪都構想が2回に及ぶ市民投票で勝てなかったのは、地元に住んでいる大阪のsomewhere族の矜持なのではないかと私は思っています。

 

つまりナチ党の支持者も維新の支持者も国民の中間層に支持されているという点では共通なのです。

 

そしてナチスの思想がドイツを亡国に結びつけたように、維新のネオリベ思想も日本を亡国に導くものだと私は思っています。

 

結局、菅元首相の発言を聞いて一瞬正しいのではないかと思いましたが、中身は出鱈目でした。

 

 

先日大阪北新地で起こった診療所を放火して25人の被害者を出した事件は、犯人も死亡してしまったために何が原因なのかもわからないままになってしまいそうだ。

 

最近このような犯罪が頻発しているように思われるので、いつこのような犯罪の被害に出くわすか安心して暮らすことができないような感じがします。

 

そこで今回はどうしてこのような事件が頻発するようになってきたのか、またこのような事件はどのようにしたら無くすことができるのかを考察してみたい。

 

精神科医の片田珠美さんによると北新地で起こった事件は典型的な「拡大自殺」によるもだとしている。

 

拡大自殺とは精神医学的用語で人生に絶望した人が、そのような境遇に至ったのは自分のせいではなく他人や社会のせいであると考えて何の関係もない人々を巻き添えで殺すことと定義されている。

 

このような事件は片田さんが指摘しているように2001年の池田小事件から頻発するようになっていった.

 

池田小事件で逮捕された宅間守・元死刑囚(当時37歳)は「何もかも嫌になった。自殺しようと思ったが、死にきれなかった。死刑にしてほしい」と語っているが、この時から死刑にしてほしいから知らない人を殺すというあまりに理不尽な事件が続いているのである。

 

ただ私が不思議に思うのは、なぜこのような事件が戦後しばらくの間起きることがなく、突然2001年から発生したかということである。

 

さらに不思議なのは、片田さんが指摘する「拡大自殺」型の事件は戦前にも何件か存在したことです。

 

戦前で一番有名なのは日本を代表するミステリー作家の横溝正史の『八つ墓村』がモデルにしたと言われる昭和13年に起きた津山事件というものがあります。

 

この事件は岡山県の津山市で犯人が30人もの人を死亡させ、後に本人も自殺してしまうという事件でした。

 

横溝正史が取り上げたぐらいですから、この事件がこういう事件の最初に起こったもののように考えがちですが、実はそれ以前に津山事件と似たような事件が起こっていたのです。

 

それが1926年に起きた鬼熊事件と呼ばれるもので、自分の愛人を含む4人を殺害した後に本人も自殺しており、規模は小さいものの津山事件と似たような経過を辿っているのです。

 

おそらくこの事件が日本で最初の「拡大自殺」型の事件ではなかったかと私は考えています。

 

つまり、拡大自殺と思われる事件は、1926年に最初に発生し、それを拡大させたような津山事件が1938年に発生したわけですが、日本が敗戦を迎えた後においては2001年の池田小事件が起きるまではそのような事件は発生していなかったのです。

 

ところが、2001年の池田小事件からは拡大自殺と思われる事件は大なり小なりもう数え切れないぐらい起こっています。

 

思いつくだけでも、2008年の秋葉原通り魔事件、2019年の川崎市で起こったカリタス小事件、そして今回の大阪北新地放火事件です。

 

私は2019年に起こった京都アニメーション放火事件も当てはまると思っていましたが、片田さんによればこの事件は犯人が逃げ出そうとしているので拡大自殺には当てはまらないという。

 

このような事件が現在多発する理由について、多くの識者は経済問題を挙げています。長引く日本経済の低迷と格差拡大がこのような事件の背景にあるのだ、と。

 

この説は私もかなり納得するものがあります。現在の事件だけではなく戦前の事件もそうでした。

 

1926年に起こった鬼熊事件は若槻内閣の時代に起こっています。翌年から昭和金融恐慌が始まる時なので、経済的に安定している時代とは決して言えなかった。

 

昭和13年に起こった津山事件の時の総理は近衛文麿で前年の昭和12年から日中戦争が始まっている。

 

それから日本は戦争に負けて戦後に入るのだが、高度成長期やバブル期において拡大自殺型の犯罪が姿を消すようになった。

 

ところが、前にも書いたように突然2001年の小泉政権の時に池田小の事件が発生したのだった。

 

ちなみに2008年の秋葉原事件は麻生政権、2019年のカリタス小事件は安倍政権、そして今回の北新地放火事件は岸田政権と続いていくのだった。

 

やはり戦前、戦後を通して日本の経済問題が悪化してくるとこのような事件が多発するようなので、1日も早くデフレ経済から脱却することが求められている。

 

それにしてもなぜ拡大自殺型の犯罪は敗戦の1945年から2001年まで発生しなかったのだろうか。

 

いくら高度成長の時代と言っても経済的に苦しむ人はたくさんいたはずである。その人たちが社会を恨んでもおかしくないはずだった。

 

片田珠美さんによれば自殺には「自分を責める傾向が強ければ単独自殺、何でも他人のせいにする人は拡大自殺に向かう」と2つのパターンが存在しているという。

 

つまり戦後から2001年にかけて拡大自殺を思わせる事件がなかったのは、それまでは自分の境遇がいかに悲惨であろうと基本的には社会のせいにすることはなく自分を責めて単独自殺していったと考えられる。

 

ところが2001年の池田小事件から自分の境遇が悪いのは自分のせいではなくて社会のせいと考えるような人が多くなってきているのだ。

 

なぜこのような変化が現れたのだろう。

 

1990年代の初頭にバブルが弾けてから、日本では「自己責任」を求める風潮が急激に強まっていったと思われる。

 

この頃政治の中心だった小沢一郎は1993年に『日本改造計画』という本を書いた。

 

この本の中で彼はアメリカのグランド・キャニオンで危険なところに日本のような注意を喚起する看板がないことを指摘していたが、それが日本での自己責任を強調する最初だったと思う。

 

政治や社会が個人に対して自己責任を求めていくと、当然それに反発する人も出てくるわけで、基本的に反社会的である犯罪者はこの自己責任論を徹底して否定し、無差別に何の関係もない人を殺し始めたのではないか?

 

日本の高度成長期やバブル期においては社会において自己責任はそれほど強調されていなかったから、その時代に自殺しようと考えた人は基本的に一人で死んでいったのであろう。

 

つまり国家や社会が個人に自己責任を追求すれば追求するほど、世の中に不平を持つ人や犯罪者はその考えを否定して自分の境遇を社会のせいにしてしまうのである。

 

完全に悪循環である。

 

恐ろしいことに、この文章を書いている途中に17歳の高校生までもが勉強ができないのは社会のせいと全く関係のない受験生を刺すという事件が起こってしまいました。

 

このような犯罪を無くすためには、まず一刻もデフレ経済を直してまともに経済が成長するようにして、全てを自己責任とする社会の風潮を変えなくてはならない。

 

ただ発足したばかりの岸田政権を見ていると、現在の自民党政権にそれが本当に可能なのかと考えてしまう。

 

戦前に拡大自殺にあたる事件は、日本が戦争に負けて体制が変わったことで無くなった経緯があるので、今回も日本のレジーム・チェンジ(体制転換であって決して政権交代ではない)が必要かもしれない。

 

はっきり言って自民党が中心の政治では、このような事件を防ぐことができない可能性があるのだ。

今回はスエズ危機と似たような状況を東アジアに当てはめて、その時に日本が核武装するのかどうかを考えてみたいと思います。

 

20XX年X月に日本の尖閣諸島で日中の軍事衝突が発生。

 

最初は通常兵器で戦いが始まります。この時点で日本が負けてしまえば尖閣は中国のものとなって話が終わってしまいますので、仮定として中国軍を撃退することに成功したとしましょう。

 

尖閣で日本の国旗が立てられれば、中国共産党のトップの地位が揺らぐと考えた中国の指導者は最後の手段を取ろうと考えます。

 

中国は日本に対して最後通牒を通達します。「日本が尖閣諸島から直ちに撤退しないと東京を核ミサイルで火の海にする」というのが主な内容でした。

 

日本が中国からこのような核による威嚇を受けた場合、真っ先に同盟国であるアメリカに相談します。

 

「もし中国が東京に核を落としたらアメリカは上海を攻撃してくれるか?」

 

アメリカがこのような日本の要望に対してイエスと返事をしてくれるならば、日本はアメリカの核の傘を信じて尖閣に居座れるのかもしれません。

 

ただアメリカが日本のために上海を核攻撃してくれるとして、中国もその報復としてロサンゼルスに核を落とすことも可能なのです。

 

そこでアメリカは果たして東京を守るためにロサンゼルスを犠牲にできるのかを考えます。そしてその犠牲は無人の尖閣を守るためだけなのです。

 

この時点で普通のアメリカ人ならあまりにリスクが大きすぎると考え、尖閣に対しては核の傘は存在しないと日本政府に通告するでしょう。

 

そうなれば、結局日本は尖閣から撤退することになり、尖閣には中国の国旗が掲げられるでしょう。

 

フランスが経験したスエズ危機を東アジアに当てはめたらこんな感じになるでしょうか。

 

このような結果になったら、さすがに日本国民も核兵器保有を望むのではないでしょうか。