前回紹介した『日本病』を書いたエコノミストの長濱さんが書いていたことで私も同感なのが「政府財務残高で財政の予算制約を図るのは間違いでインフレ率で見るべきだ」との主張です。
現在は世界でインフレが拡大していますが、食糧や資源を除いた日本のコアコア・インフレ率はまだ2%にも達していないのです。
ところがなぜか日本のエリート官庁である財務省がこのような事柄を全く理解しようとせずに日本の政府財務残高を人口で割って、一人当たりの借金がこれだけ拡大したと危機感を煽ることしかやっていないのです。
財務省だけがおかしなことを言っているだけなら何とかなりそうなのですが、日経新聞や朝日新聞などの主要な新聞もなぜか財務省と同じことばかり書いています。そのせいで現在の日本では財政を拡大するという政策がなかなか大勢にならないのです。
なぜ日本の主要な新聞が財務省のいうことばかり聞くのか、その理由をエコノミストの池田万作さんはYouTubeの番組で財務省が税務署を抱えているからではないかと語っていたが、私は少し違うと思っています。
https://www.youtube.com/watch?v=phaOCqEdp0Q
以前にも書いたことですが、戦前においても満州事変が起こってから朝日新聞などの日本の主要な新聞も軍部のいうことばかりを応援していて、現在と同じような状況になっていました。
ここで共通しているのは、フランスのエマニュエル・トッドが指摘する日本の「権威主義」の問題で、日本の主要な新聞は戦前は軍部、現在は財務省のいうことに対して盲目的に従っている気がするのだ。
批判的思考(クリティカル・シンキング)が全く足りていないようだ。
そして財務省のいうことばかりを聞いて段々と衰退していく日本を見ていて、戦前も軍部のやり方に反対していた人たちの気持ちもこんなふうな感じだったのだろうと無力感を味わっている今日この頃です。
エコノミストの長濱利廣さんが書かれた『日本病』というショッキングなタイトルの本を読み終わりました。
1990年代にバブル経済が破裂して、日本はその処置を誤り、特に1997年の橋本政権で消費税の増税をおこなったことで完全なデフレ経済に陥りました。
OECDの定義によれば2年以上に渡り物価が下がり続けることを「デフレ」と呼ぶらしいので、現在の日本経済はデフレとまでは言えませんが、現在でも20兆円程のデフレギャップがあると言われています。
デフレのせいで日本はほとんど経済成長しなかったために、その間の成績はひどいもので1992年の平均給与は472万円だったものが2018年には433万円に下がってしまいました。
一人当たりの実質賃金も韓国に抜かれてしまい、かろうじてイタリアを上回っているものの果たしてこのままG7に出席を許されるかどうかもわからなくなってきてるのです。
長濱さんは日本がこのような状態を抜け出して通常の経済状態に持っていくためには、金融政策と財政政策を総動員しなければならないと主張されています。
日本は遅まきながらも金融政策は他の先進国と同様に行ったのですが、デフレの元では金融政策には限界があり、アメリカのサマーズ元財務長官が「中立金利が金融政策の効く水準に戻るまで財政政策を積極的に行うべき」と言うように財政拡大が必要なのですが、いつも日本の政府には財政の赤字の絶対額にこだわりがあってなかなか進まないのです。
長濱さんも「政府財務残高で財政の予算制約を図るのは間違いでインフレ率で見るべきだ」と正論を語っているのですが、なぜかこの常識的な意見が日本の大勢にならないのです。
先日暗殺された安倍元首相が行ったアベノミクスに対して長濱さんは、それがある程度の雇用を増加させたことを評価していますが、財政拡大については最初の方でしか行わなかったことと2回の消費税増税でデフレ経済から完全に脱却することはできなかったとの評価を下しています。
完全にデフレから脱却しなければ、本来投資に積極的な企業体も日本では貯蓄過剰になってしまい(内部留保の問題)、これではイノベーションなども起こらないのです。
日本が長期デフレに陥った諸悪の根源は「日本人の努力不足などではなく、過去の政府や日銀の経済政策の失敗」なのでそれを正さなければ明るい日本など見えてこないのです。
ダロン・アセモグルとジェイムス・ロビンソンが書いた『国家はなぜ衰退するのか』を読み終わったので感想を書いてみます。
著者らは国家が継続的に発展するためには、その国家がどのような場所にあるのかという地理的な要素やどのような気候状態におかれている天候的な要素ではなく、その国家がどのような制度を持っているのかに注目して議論を展開しています。
その国が持っている経済制度や国家の仕組みが「包括的」なものか、それとも「収奪的」な制度に区分けしているのです。
「包括的な政治・経済制度と繁栄のつながりだ。所有権を強化し、平等な機会を創出し、新たなテクノロジーとスキルへの投資を促す包括的経済制度は、収奪的制度よりも経済成長につながりやすい。収奪的制度は多数の持つ資源を少数が搾り取る構造で、所有権を保護しないし、経済活動へのインセンティヴも与えない。」
このような観点で、およそ全世界の場所や過去に栄えた文明を取り上げながらそれらの国が持つ制度を調べています。
例えば、スペインが大航海時代に南米のインカ帝国を滅ぼした際には、土着の人たちを安い労働力として使うことばかりを考えていた「収奪的」な制度だったために、その繁栄は長続きすることはなく同様な制度を使っていた西洋諸国が東南アジアで行っていたプランテーション農業なども継続的な発展を支えることにはならなかったのです。
過去には「包括的」な制度を持つ中世のイタリアの都市国家の例もありました。当時のイタリアの発展は素晴らしいもので、従来の貴族たちとは違う層が経済的に上昇してきた様子も見せたのでした。ところがやはり最後はこの人たちも従来の権力者に潰されてその発展は持続しなかったようです。
継続的に成長する可能性が出てきたのは、近代に入ってからで、まずはイギリスで1688年に起こった名誉革命で一般庶民の財産権や特許権が尊重されるようになりました。その結果として世界で初めてイギリスで産業革命が起こりそれまでとは違う継続的な経済成長が起こるようになったのです。
このイギリスで起こった革命的な出来事は、同じアングロ・サクソンであるアメリカ、カナダ、オーストラリアにも引き継がれることになります。
またヨーロッパ大陸においては1789年に起こったフランス革命で「包括的」な制度が導入されることになり、それから起こったナポレオン戦争によってヨーロッパ中に「包括」的な精度が広がっていくきっかけになったのでした。
またアジアにおいても1868年に日本で起こった明治維新によって「包括的」な制度が導入され継続的な経済成長につながっていったことを著者たちは記しています。
では現在アメリカに次いで経済が大きくなった中国に対して著者たちはどう考えているのでしょう。
彼らは「収奪的」な経済制度でも全く経済が成長しないとは考えていなく、開発独裁の例を見ても分かるようにある程度の成長は可能と考えているのですが、長期的にはその成長を安定的に維持することはできないと考えているようです。
そして現在の中国の経済発展は決して中国の制度が「包括的」だから成功したのではなく、「収奪的」な制度でも経済的に有能な鄧小平が指導者になっで起きた一時的な成長と考えているようです。
この本が書かれたのは2012年でちょうど習近平氏が中国のトップになった時ですが、習近平は早速にアリババを率いるジャック・マーや他の起業家をあまりよくわからない理由で弾圧したりして、財産権などがしっかり確立していない中国の不安定さをこの本の予想通りに裏書きしています。
この本は、そんなに緻密な論理展開をしているというわけではありませんが、逆に大雑把であるが故にクリアーで将来を考える上ですごく参考になる本だと思います。