フランスのエマニュエル・トッドが以前に明治維新もフランス革命と同じく「中産階級」による革命だったと語ったことは以前に述べましたが、今回は明治維新とフランス革命を出来るだけ客観的な数字などをを用いて比較してみたいと思います。

 

まず時期についてですが、フランス革命は1789年に始まり、日本の明治維新とはだいたい80年ぐらいの差があります。

 

フランス革命が始まった1789年は日本では寛政元年にあたり、2年前に老中に就任した松平定信は勘定奉行から「天明の飢饉と天明六年八月に亡くなった将軍家治の葬儀のため来年は百万両も財政不足になる、補塡するには豪商らに御用金を命じるしかない」と言われたという。(『勘定奉行の江戸時代』藤田覚)

 

フランスにおいては1756ー1763年に戦われた7年戦争に膨大な国費を投入したために、いよいよ財政が逼迫して時の宰相であったルイ16世はそれまで休眠中であった3部会を招集して財政問題を討議させようとしました。

 

寛政の改革時に日本のブルジョアである豪商が幕府の補填政策に乗ったかどうかは定かではないが、フランスでは同じ財政問題でブルジョア達は反旗を翻してしまったのである。

 

フランス革命時のフランスの人口はおよそ2600万人。(安達正勝『物語フランス革命』)

 

日本の場合、北岡伸一氏は『明治維新の意味』で歴史人口学者である鬼頭宏氏の説を取り上げており、それによれば 、1600年の日本の人口は1227万人、1721年には3128万人であった(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』)。また明治政府は1873年に全国調査を行っており、その結果は3330万人であった。

 

この3300万人の人口のうち武士の割合がどのくらいだったかというと、これも明治政府が調べており、それによれば士族は128万人(人口比3.9%)、卒族(足軽以下の下級武士)が66万人(2%)でした。

 

ここで注意すべきなのは士族には家族も含まれていることと、戊辰戦争で東北の武士の大部分が平民扱いにされてしまったことです。だから家族を含めるとおよそ人口の7%が武士階級の人達だったと言っていいでしょう。

 

純粋に日本の人口に占める武士の割合は、与那覇潤さんが『中国化する日本』に当時の中国と比較して次のように書いています。

 

「人口比でみた場合、幕末の時点で成人の武士は日本全体の1%強、逆に清末の官人は中国全体の0・01%弱という推計があります(渡辺浩『近世日本社会と宋学』)。近世の武士というのは、要するに大名家ごとに抱え込まれた地方公務員(時に国家公務員)ですから、お隣の国を基準にして考えれば、実に100倍もの『無駄な公務員』を抱えていたわけですね。 」

 

では、フランス革命当時フランスの人口の2600万人のうち、どのぐらい貴族の人たちが存在したかといえば、フランスのトーマス・ピケティの『21世紀の資本』に「1789年のフランスでは、貴族階級が人口の1〜2%、聖職者が1%以下、そして第3身分という小作農民から中産階級(ブルジョワジー)までの残り全員が97%以上だったというのが一般的な推計だ。」と書かれています。

 

驚くべきことに、フランス革命当時の人口に占める貴族の割合と明治維新期における武士階級の割合は1〜2%でほとんど同じだったのです。

 

ピケティーは「トップ百分位(1%のこと)は、歴史調査という文脈での研究にはとても興味深いグループだ」と書いていて、フランス革命も明治維新もトップ1%がひっくり返ってしまった革命だったのです。

 

では最後に日本の明治維新においては下級武士の人たちが中心だったことは有名ですが、フランス革命ではどんな立場の人々が革命を推進したのでしょうか。

 

ルイ16世は財政問題を討議させるためにそれまで休眠中だった3部会を開催させます。第1部会はカトリックの聖職者の代表で、第2部会は貴族の代表、そして第3部会が平民を代表する場所で、この第3部会が革命を推進することになるのは日本の高校の教科書にも出てくる話ですが、実際第3部会でどのような人々が選ばれていたのかは教えてもらえませんでした。

 

そのことがアメリカのジェレミー・ポプキンというアメリカの学者が書いた『新しい世界の始まり』という本に具体的に書いてありました。

 

「第3部会に選ばれた600人の中で圧倒的な存在を示していたのは法律の訓練を受けていた者たちだ。218人は判事や下級判事の職を持っていた。そして181人の人たちは自身を弁護士と規定していたのである。」

 

これだけを読むと日本とは全然違うのではないかと疑問に思われるかもしれませんが、次に書かれてあることはとても示唆的です。

 

「第3部会に所属する人たちは、農民や職人、労働者などの人口に占める圧倒的多数を占める者たちよりも経済的には豊かであり、多くのものはぎりぎりに貴族と呼べるかもしれない階級で、普通の貴族と親しい関係を築いていた者たちだった」

 

エマニュエル・トッドはフランス革命はフランスの中産階級が推進していたと言っていて、これは間違いではないのですが、厳密に言えば上流階級の下層部分の人達が推進しており、日本の下級武士達と立場がそっくりなのです。

 

私が想像するに、フランスの法律家達も日本の下級武士も地方の現場で国民の利害調整を行なっており、彼らがその当時国内において最も社会の実情を知るもの達だったわけですが、物事を解決するルールを決めていたのは彼らでは無く、上に確固として存在している貴族であり上士だったわけです。

 

おそらくはフランスの法律家も日本の下級武士達も福沢諭吉が言っていた「門閥制度は親の仇」という共通の思いがあってできたのが、フランス革命であり明治維新だったのではないだろうかと今回の比較から読み取れるのです。

 

北岡伸一さんはその著書『明治維新の意味』で次のように書いておられます。

 

「維新についてのシニカルなコメントに、維新の前も後も所詮武士の支配だったというものがある。いわゆる民衆史観から見ればそのとおりだが、維新前の支配者は上士であり、維新後の変革の主力は下級武士であった。」

 

明治維新を起こした主要な人々は圧倒的に下級武士が多かったのは確かで、この現象をどう考えるかが私も明治維新を語る上で重要なポイントだと私も思います。

 

そのことに関してフランスのエマニュエル・トッドは面白い指摘をしていて、明治維新を起こした人々の中心に下級武士が多かったのは、それが「中産階級」による革命だったからで、それはフランス革命と同様の近代革命だからだというのです。

 

トッドによれば中産階級である下級武士が従来の貴族的な立場である上士から権力を奪ったのが明治維新だったというわけです。

 

明治維新は中産階級による革命というトッドの考えに多分に影響を受けていた時にちょうど戦前に活躍していたジャーナリストである清沢洌の『日本外交史』という本を読んでいて、幕末にイギリスの外交官であり医師の資格を持っていたウインチェスターという人の文章が載っていて、それが非常に興味深いものでした。

 

「代理公使ウィンチェスターの如きも、日本において中間階級の擡頭が必至のものと考へ、幕府の採用すべき政策として『封建貴族と半独立諸侯による同様な政治組織は、数世紀以前には仏国、英国にも存在してゐた。然し政府は常備軍の建設により、而して彼等の人民の商業と交通を制限することによつてではなく、中間階級の形成に助力を与へることによつて、彼等の地歩を贏ち得、而してそれを支持した』と欧洲史の示す事実を引用して、同じやうな政策をとることを勧告した」

 

この代理公使ウインチェスターが幕末に指摘していることは、後に京都大学の梅棹忠夫さんが『文明の生態史観』に書かれてあることとほとんど同じで、梅棹さんの本には「具体的には、封建制度のもとに育成されたブルジョアが、支配権を握ることによって、資本主義体制による文明の建設をはかる型である」と書かれています。

 

ただウインチェスターが指摘していない部分もあって、確かにイギリスやフランスが中産階級の形成に助力を示したことは事実だったのですが、それはイギリスの場合だと1688年の名誉革命の後であり、フランスの場合も1789年のフランス革命以降のことであり、それと同じことを江戸幕府に求めてもそれはほとんど不可能だったことでしょう。

 

日本もイギリスやフランスと同様に中産階級による革命が起きて、イギリスから遅れること180年、フランスから80年経って1868年に起こったのが明治維新だったのです。

江戸時代の財政状況が知りたくて手頃な本を探していたところ、新書のこの本を見つけたので読んでみました。

 

著者によれば勘定所は「江戸幕府の最重要役所であり、勘定奉行は最重要役職だった」という。

 

250年以上続き、ほとんど外国との戦争が無かった江戸期において財政を司る勘定奉行が重要視されることは当然だったと思う。そして「財政」という数学的な素養も必要とされる能力を持っている人は限られていたため、身分を最重要視する江戸期においてもそれを無視しなければならない場面も多々あった。

 

そこで勘定奉行だけは人事などについても独特の発展を遂げ「どこの馬の骨ともわからない者」も勘定奉行になっているという。

 

ここで本書から少し離れるが、以前に歴史人口学に関する本を数冊読んで得た知見なのだが、日本では江戸幕府が開かれてから約100年後の享保の改革までの間に農地の開発が進み、1000万程の人口が3000万人まで爆発的に増加したという。

 

ところが享保の改革から幕末まではほとんど人口は増えずに3000万人のまま推移するという経緯があった。

 

人口が増えている時はそれなりに経済も成長しているので財政についてもそんなに心配することは無かったが、この本でもいよいよ経済が停滞する享保の改革の時代から勘定奉行の役割が増えてくるのだった。

 

この時の問題は、他の物価が上昇しているのにも関わらず、コメの値段だけが低下していくというものだった。江戸幕府は税の収入を米から得ていただけにこの問題は深刻だった。

 

結局は、税を米だけに頼る政策をやめて他に発展しつつあった商品経済から税を取ることにしてこの問題を解決していったようだ。

 

享保の改革から次に起こる寛政の改革までにおいて経済はあまり好調というまでにはいかなかったが幕府は財政的には安定しており著者によれば「安永から天明期とは幕府財政史で言えば、享保の改革から宝暦期にかけて備蓄した貯金を食い潰した時代だった」という。

 

だからまだ深刻な財政危機とは言えず、この時代に活躍した田沼意次は「山師」的な人のアイデアを用いて経済を活性化させようとしたが、あまり結果は良く無かったようだ。

 

そしていよいよ天明7年(1787年)6月に老中に就任した松平定信は勘定奉行から「天明の飢饉と天明6年に亡くなった将軍家治の葬儀のために来年は100万両も財政不足になる、補填するには豪商から御用金を命じるしかない」と告げられたという。

 

ここから始まったのが寛政の改革で、最初は緊縮財政で乗り越えようと思ったが、それだけでは無理でここから江戸幕府は禁じ手である貨幣の改鋳(貨幣の価値を低くする政策)を繰り返すようになり、なんと1年間の予算の3割をそれで賄っていたという。

 

こんなことをしていれば素人でもインフレになることには予想できるし、案の定次の「天保の改革」ではこのインフレを退治しなければならず、そのインフレの責任を庶民の贅沢のせいにしようとしたのはいよいよ江戸幕府の能力に疑問に思う人が増えても仕方なかった。

 

そしてこの問題にペリーの黒船から起こるさまざまな外国に対する支払いや国内の戦争のためにとうとう幕府の財政は破綻するしか無くなったようだ。

 

これまで書いてきたようにこの本は勘定奉行を通して江戸時代の財政を大まかにだがわかりやすく説明してくれており、筆者が江戸期の財政を理解する上で役に立った。