江戸時代の財政状況が知りたくて手頃な本を探していたところ、新書のこの本を見つけたので読んでみました。
著者によれば勘定所は「江戸幕府の最重要役所であり、勘定奉行は最重要役職だった」という。
250年以上続き、ほとんど外国との戦争が無かった江戸期において財政を司る勘定奉行が重要視されることは当然だったと思う。そして「財政」という数学的な素養も必要とされる能力を持っている人は限られていたため、身分を最重要視する江戸期においてもそれを無視しなければならない場面も多々あった。
そこで勘定奉行だけは人事などについても独特の発展を遂げ「どこの馬の骨ともわからない者」も勘定奉行になっているという。
ここで本書から少し離れるが、以前に歴史人口学に関する本を数冊読んで得た知見なのだが、日本では江戸幕府が開かれてから約100年後の享保の改革までの間に農地の開発が進み、1000万程の人口が3000万人まで爆発的に増加したという。
ところが享保の改革から幕末まではほとんど人口は増えずに3000万人のまま推移するという経緯があった。
人口が増えている時はそれなりに経済も成長しているので財政についてもそんなに心配することは無かったが、この本でもいよいよ経済が停滞する享保の改革の時代から勘定奉行の役割が増えてくるのだった。
この時の問題は、他の物価が上昇しているのにも関わらず、コメの値段だけが低下していくというものだった。江戸幕府は税の収入を米から得ていただけにこの問題は深刻だった。
結局は、税を米だけに頼る政策をやめて他に発展しつつあった商品経済から税を取ることにしてこの問題を解決していったようだ。
享保の改革から次に起こる寛政の改革までにおいて経済はあまり好調というまでにはいかなかったが幕府は財政的には安定しており著者によれば「安永から天明期とは幕府財政史で言えば、享保の改革から宝暦期にかけて備蓄した貯金を食い潰した時代だった」という。
だからまだ深刻な財政危機とは言えず、この時代に活躍した田沼意次は「山師」的な人のアイデアを用いて経済を活性化させようとしたが、あまり結果は良く無かったようだ。
そしていよいよ天明7年(1787年)6月に老中に就任した松平定信は勘定奉行から「天明の飢饉と天明6年に亡くなった将軍家治の葬儀のために来年は100万両も財政不足になる、補填するには豪商から御用金を命じるしかない」と告げられたという。
ここから始まったのが寛政の改革で、最初は緊縮財政で乗り越えようと思ったが、それだけでは無理でここから江戸幕府は禁じ手である貨幣の改鋳(貨幣の価値を低くする政策)を繰り返すようになり、なんと1年間の予算の3割をそれで賄っていたという。
こんなことをしていれば素人でもインフレになることには予想できるし、案の定次の「天保の改革」ではこのインフレを退治しなければならず、そのインフレの責任を庶民の贅沢のせいにしようとしたのはいよいよ江戸幕府の能力に疑問に思う人が増えても仕方なかった。
そしてこの問題にペリーの黒船から起こるさまざまな外国に対する支払いや国内の戦争のためにとうとう幕府の財政は破綻するしか無くなったようだ。
これまで書いてきたようにこの本は勘定奉行を通して江戸時代の財政を大まかにだがわかりやすく説明してくれており、筆者が江戸期の財政を理解する上で役に立った。
