大石内蔵助 泉岳寺 | 墓守たちが夢のあと

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大石内蔵助の墓

 
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大石内蔵助像(泉岳寺境内)
 
 大石良雄(おおいし よしたか)は、播磨国赤穂藩の筆頭家老で、元禄赤穂事件では四十七士を率い吉良上野介を討取り、歌舞伎等の「仮名手本忠臣蔵」として現在でも語り継がれています。大石内蔵助(おおいし くらのすけ)と呼ばれる場合が多いですが、これは通称だそうです。
 大石家は平安時代中期の武将・藤原秀郷の末裔で、応仁の乱などにより一時没落しますが、豊臣政権において一族の大石良信は関白秀次に側近として仕えます。しかし、秀次の失脚により良信は浪人し、息子の良勝は浅野家へ仕えました。大阪の陣で良勝は武功をあげ大石家は笠間藩浅野家の永代家老の地位を約束されます。その後、笠間藩浅野家は赤穂藩へと移封となりました。
 大石良雄は万治2年(1659)、大石良昭の長男として生まれます。良昭は赤穂藩筆頭家老・大石良欽の息子でしたが若くして他界。良雄は祖父・良欽の養子となります。延宝5年(1677)良雄が19歳の時に祖父良欽が死去し家督を継承。家老見習いを経て延宝7年(1679)、21歳で正式な筆頭家老となりました。
 元禄14年(1701)、江戸城松之大廊下において勅使接待役であった主君・浅野長矩が高家肝煎・吉良上野介に切りつけるという事件が発生します。朝廷との大切な儀式を台無しにされた将軍・徳川綱吉は激怒。長矩は即日切腹。赤穂浅野家はお家断絶という処分が下されます。
 赤穂藩では幕府恭順派と徹底抗戦派の対立が深まりますが、大石は浅野内匠頭の弟・長広(大学)を当主として浅野家を再興する事を最優先にと藩内の意見をまとめ、城の明け渡しをスムーズに行いました。その後、京都山科に隠棲し、ここから浅野家再興に向けた政界工作を行うとともに旧赤穂藩士たちと連絡を取り合い暴発を抑え続けます。
 しかし、浅野長広が本家筋の広島藩お預けとなり、お家再興が絶望的となると、ついに吉良を討つことを決意します。江戸へ出た大石は、同志に吉良邸を探索させ討入り決行日を決定。元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に大石を大将として吉良屋敷に討入り、二時間にも及ぶ激闘の末、吉良を討ち果たしました。
 幕府では大石を含め、浪士達の処分に苦慮しますが、元禄16年(1703)2月4日に全員切腹の命令が下ります。なお、幕府は同時に吉良上野介の養子で吉良家当主吉良義周に対しても領地没収と信州配流の処分も決定しました。肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられていた大石は細川邸で切腹。享年45歳でした。主君と同じ泉岳寺に赤穂義士達とともに眠っています。

泉岳寺:東京都港区高輪二丁目11番1号 地図
撮影:2013.3.17
 
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