赤穂浪士 泉岳寺 | 墓守たちが夢のあと

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赤穂浪士の墓

 
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赤穂浪士の墓
 
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墓所の配置図
 
 大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士は、現在、主君・浅野内匠頭と共に高輪の泉岳寺に眠っています。
 元禄15年12月14日(1703年1月30日)に吉良邸へ討入り、上野介を討った浪士達は、幕府による処分が決まるまで、肥後国熊本藩・細川綱利、伊予松山藩・松平定直、長門国長府藩・毛利綱元、三河国岡崎藩・水野忠之の4大名家に預けられます。なお、浪士たちの待遇は各大名家で異なり、大石らを預かった細川家や水野家は厚遇したのに対し、松平家と毛利家では罪人として冷遇したため、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残されています。冷遇した両家も世間からの批判にさらされ、後に待遇改善を行っています。
 幕府では赤穂浪士に対する処分に苦慮します。太平の世となり人々に忠義の心が失われつつあった時代に起こった討入り事件に人々は賞賛を送ります。しかし、幕府の裁定により浅野内匠頭は死罪となっているのに、吉良を仇として討入ったのは筋が通らないという意見もあり議論は紛糾します。
 最終的に、幕府は浪士全員に預けられた各大名屋敷での切腹を命じます。元禄16年2月4日(1703年3月20日)に切腹した四十七士は、泉岳寺の亡き主君・浅野内匠頭の墓の周りに葬られました。
 赤穂浪士の墓の特徴として、全員の戒名に「刃」の文字が入っています。討ち入りを行ったのがその理由でしょう。そして墓石の配置は預けられていた大名家ごとにまとまって配置されていました。

泉岳寺:東京都港区高輪二丁目11番1号 地図
撮影:2013.3.17