高輪の泉岳寺にある浅野内匠頭と赤穂浪士の墓所には内匠頭の正室・瑤泉院の墓もあります。
瑤泉院は、備後国三次藩初代藩主の浅野長治の三女として延宝2年(1674)に生まれ、名前は阿久里といいました。翌年に父が死亡したため、その跡を継いだ浅野長照(広島藩主浅野光晟の三男)の養女となります。
瑤泉院は、備後国三次藩初代藩主の浅野長治の三女として延宝2年(1674)に生まれ、名前は阿久里といいました。翌年に父が死亡したため、その跡を継いだ浅野長照(広島藩主浅野光晟の三男)の養女となります。
生まれてすぐに赤穂藩の浅野長矩との縁組が決まり、延宝6年(1678)には婚儀に備えて長矩の屋敷へ移ります。天和3年(1683)に正式に夫婦となりますが、子には恵まれず元禄8年(1696)に長矩の弟浅野長広(大学)を養子としました。
元禄14年(1701)に長矩が江戸城殿中にて吉良上野介に切り付け即日切腹、赤穂藩が改易となると、阿久里は赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に移ります。そして、出家して瑤泉院と名乗り夫の菩提を弔います。
元禄14年(1701)に長矩が江戸城殿中にて吉良上野介に切り付け即日切腹、赤穂藩が改易となると、阿久里は赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に移ります。そして、出家して瑤泉院と名乗り夫の菩提を弔います。