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朝香宮邸

旧朝香宮邸



 東京都庭園美術館は昭和56年、旧迎賓館だった旧朝香宮邸がプリンスホテルから東京都に売却され、昭和58年から一般に公開された美術館です。
 朝香宮邸は日本を代表するアールデコ様式の建築物として知られています。

 アールデコ様式とは1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパやアメリカで流行った建築、装飾様式で、ニューヨークのクライスラービルや、エンパイヤステートビルが代表的な建築物として知られています。




朝香宮邸見取り図

旧朝香宮邸見取り図


 朝香宮鳩彦(やすひこ)王(1887~1981)は明治43年(1910年)に明治天皇の第八皇女充子(のぶこ)内親王と結婚。夫婦は当初、高輪の御殿に住んでいましたが、関東大震災で御殿が被害を受け、朝香宮家に下贈されていた旧高松藩下屋敷跡の白金御料地の一部、約1万坪の敷地に新しい邸宅が建てられました。
 関東大震災の直前、陸軍の軍人だった朝香宮鳩彦王はヨーロッパへ視察旅行に行きましたが、大正12年(1923年)4月にフランス北部へドライブ中、交通事故に遭い負傷し、充子妃は看病のため渡欧し、夫妻はしばらくの間、パリで生活しました。
 夫妻が滞在中、パリでは1925年(大正15年)4月から11月まで現代装飾美術、産業美術国際博覧会(通称アール・デコ博)が開かれ、話題となっていました。朝香宮夫妻も7月9日に会場を見学し、強い感銘を受けました。
 帰国した朝香宮夫妻は、新しい邸宅の内装に、博覧会で活躍した画家でインテリアデザイナーのアンリ・ラパンを起用しました。
 新しい朝香宮邸は、数々の宮邸を設計してきた宮内省内匠寮によって設計が行われ、昭和6年4月13日に着工、昭和8年4月30日に完成しました。地上三階地下一階、延面積約2103.4平方メートル。地階173.3平方メートル、一階1109.342平方メートル、二階652.75平方メートル、三階168平方メートル。中庭を囲み「ロ」の字型に建物が配置されています。

 アンリ・ラパンは大広間、大客室、小客室、次の間、大食堂、二階の殿下書斎、殿下居間の内装を担当し、内装の至る所に、当時アール・デコの第一人者として活躍したガラス工芸家のルネ・ラリック、画家でガラス工芸家のマックス・アングラン、彫刻家で画家の、イワン・レオン・アレクサンドル・ブランショ、鉄工芸家のレイモン・シュブの作品が飾られました。




玄関

玄関車寄せ


 車寄せの両側には、狛犬が置かれています。





玄関

玄関





玄関モザイク

玄関床のモザイク





ラリック女神像

女神像


 玄関正面のガラスには、アール・デコのガラス工芸の大家、ルネ・ラリックが製作した、翼を広げた女神のレリーフが四体飾られています。型押ガラス製法で造られたもので、朝香宮邸のために造られた貴重なものです。






香水塔

香水塔


 アンリ・ラパンがデザインし、1932年に造られたもので、次間に設置されています。

 水が流れる仕組みになっていたことから、噴水器と図面に書かれていましたが、朝香宮家では上部の照明部分に香水が置かれ、照明の熱で香水の香りを漂わせたことから、香水塔と呼ばれました。






大客室

大客室


 アンリ・ラパンが内装を担当しました。

 扉の上のアーチ部分は鉄工芸家のレイモン・シュブが製作したタンパン装飾です。

 内部は場所により写真撮影ができたので、その場所だけ撮影してきました。





ラリック照明

大客室照明


 大客室の照明は、ルネ・ラリックが制作したシャンデリアが使われています。






大客室扉

大客室扉


 マックス・アングランが制作したもので、銀引きフロスト仕上げのエッチングガラスが嵌め込まれています。花や草木などをデザインした風変わりな図柄となっています。





暖炉

マントルピース


 マントルピースには、花をデザインした幾何学的な模様のレジスターが、嵌め込まれています。





ラジエーターカバー

ラジエーターカバー


 蒸気や温水を使った暖房装置で、蛇腹状にした金属の管に熱い蒸気や熱湯を流し、部屋を暖めるものです。ラジエーターを保護(火傷をしないように)のためカバーがしてあります。大客室は花や草木をデザインしたもの、隣りの大食堂は、魚をデザインしたものと、部屋によりデザインが異なっています。





大食堂外観

大食堂外観


 一階の半円に飛び出したところが大食堂です.内部は撮影が駄目でした。





新館より見る宮邸

西から見る朝香宮邸


 西面は部分的に三階建てとなっています。三階部分はウインターガーデンという温室になっていて、花台や水道の蛇口、排水設備が施されています。





苗木城CG

苗木城CG図



 苗木城は天文年間(1532年~1555年)、遠山直廉によって築かれた城です。
 遠山氏の祖となる加藤景廉は、源頼朝の重臣として活躍し、美濃国遠山荘が与えられました。景廉が亡くなると、嫡子の景朝が遠山荘の地頭を相続し、遠山荘に着任。景朝の時代から遠山姓を名乗るようになりました。
 遠山氏は岩村城を拠点に東濃地域に広く盤踞し、岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏、飯羽間遠山氏、明照遠山氏、串原遠山氏、安木遠山氏を遠山七氏と呼びました。
 江戸時代、北町奉行として活躍した遠山金四郎は明知遠山氏の末裔になります。
 苗木遠山氏は景紀に子がなく、本家の岩村遠山氏から直廉が養子に入り存続し、直廉により苗木城が築かれました。
 織田信長は美濃攻めで、斉藤氏の稲葉山城を攻めるのに、背後の遠山氏を味方に引きいれようと、妹を直廉に娶らせます。直廉との間にできた女子が信長の養女となり、政略結婚で武田勝頼の結婚し、信勝が生まれます。
 当初は友好関係にあった信長と信玄ですが、その後決裂し、元亀3年(1572年)、信玄は秋山晴近に命じ東濃地方に侵攻してきます。
 本家である岩村の遠山景任(かげとう)も、信長の叔母おつやの方を娶っていましたが、景任が元亀3年9月に亡くなると、おつやの方は秋山晴近の攻撃に屈し、岩村城は開城し武田方の城になり、おつやの方は秋山晴近と結婚します。
 晴近は岩村城を拠点に周辺の城の城を攻め、苗木城も攻められる城でした。苗木城主だった直廉は元亀3年5月に亡くなり、嫡子がいなかったため、信長は飯羽間遠山氏の遠山友勝に苗木遠山氏を継がせます。苗木遠山氏は一貫して信長に味方し、秋山晴近の猛攻に持ちこたえました。
 元亀4年(1573年)4月に武田信玄が亡くなり、勝頼が武田家を相続。勝頼は秋山晴近に援軍を送り、天正2年(1574年)に苗木城は落城しますが、天正3年、長篠合戦で武田方が大敗を喫すると、信長は嫡子、信忠に命じ岩村城を攻撃させ開城、秋山晴近、おつやの方は岐阜城下、長良川河畔で殺害されました。
 苗木城も織田方に攻められ再び遠山友勝が城主に復帰します。
 天正10年に織田信長が本能寺の変で亡くなると、友勝の息子、友忠は金山城の森長可と対立、友忠は徳川家康を頼ります。しかし小牧長久手の合戦後、家康は羽柴秀吉の旗下に入ったために、友忠は森長可に苗木城を明け渡しまし家康の元に身を寄せました。
 その後苗木城は森長可の客将、河尻秀長 (父は信長の重臣、河尻秀隆。父が甲斐で亡くなると、森長可の元に身を寄せる)が城代となります。その後河尻秀長は森氏から独立しますが、関ヶ原戦いでは西軍に与したため、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍に攻められ落城。遠山友忠の嫡子、友政が苗木城攻めに活躍し、苗木城は遠山友政に与えられ、苗木藩1万500石を立藩、明治維新まで遠山氏が藩主を務めました。





苗木城縄張り図

苗木城縄張り図


 苗木城は木曽川を挟んで中津川市の対岸、標高432メートルの高森山に築かれました。南を流れる木曽川の高さが約260メートルほどですから、比高は約170メートル余りになります。
 狭い高森山の斜面にへばりつくように櫓や蔵、城門、城壁が築かれ、頂には三層の天守が築かれました。別名赤壁城と呼ばれ、これは木曽川に住む龍神が苗木城の白壁を嫌い、破壊してしまうため、地元の赤土を使い城壁を築いたところ、龍神は破壊しなかったことに由来します。
 山頂は巨岩で覆われ、巨岩の上に柱を立て天守が築かれました。天守の南にある馬洗石は、敵に攻められ水を絶たれた際、この巨岩の上に馬を立たせ、水に見立てた米で馬を洗い、さも水が豊富であることを敵に見せつけたことに由来します。




苗木遠山資料館

苗木遠山資料館


 苗木城の入り口にあり、苗木城の歴史と、苗木藩主遠山氏に関する史料が展示されています。






苗木遠山氏系図

苗木遠山氏系図


 苗木城を築いた遠山直廉は、岩村城主、遠山景任(かげとう)の弟にあたります。

 直廉は信長の妹を娶り、二人の間にできた娘(龍勝院)は信長の養女となり、武田勝頼と結婚し、信勝が生まれます。勝頼、信勝父子は天正10年(1582年)、織田信長に攻められ、天目山の麓、田野で自害しました。信勝はまだ16才の若さでした。

 





大矢倉

大矢倉跡


 大矢倉は本丸の北側にあり、外観は二層、内部は穴蔵があり三階建てとなっています。

 苗木城内最大の櫓で、二階三階の壁には矢狭間が設けられ、大手門である風吹門を守る役割をしています。





大矢倉二

本丸から見た大矢倉


 大矢倉は三方を石垣で囲まれた穴蔵があります。






菱櫓門

菱櫓門跡


 本丸の中腹にある門で、左手には菱櫓がありました。





本丸石垣

本丸石垣


 打ち込みはぎの石垣が要所を守っています。




本丸

本丸天守跡


 山頂には巨岩があり、その上に天守は築かれました。天守は三層でした。






天守説明文

天守説明文


 天守の説明文です。この説明によると、天守は三層ですが、一階と二階は巨岩にもたれかかるように築かれているようです。

 一階は「天守縁下」 巨岩の南西側にあり、西側が板縁となり、板縁も含め二間(4メートル)×二間半(5メートル)の広さがあります。

 二階は「玉蔵」と呼び、三間(6メートル)四方あり、一階と三階への階段がありました。

 三階が「天守」で四間半(9メートル)×五間半(11メートル)の広さがありました。





展望台

展望台


 現在、天守跡には柱と梁組で展望台が造られています。

 天守の三階部分の床面を想定したものです。





馬洗石

馬洗石


 天守の南側にある巨岩で、敵に攻められ水を絶たれた際、城兵はこの岩の上に馬を置き、水に見立てた米で馬を洗い、城内に水が方であることを敵に見せつけたと言われています。






書院跡

御殿跡


 本丸の西側に平地が開けられ、御殿が築かれていました。現在は礎石が復元されています。





的場

的場


 御殿の横、一段下に的場がありました。




中津川方面

中津川市


 木曽川を挟んで南側に中津川市街地があります。
 昭和26年、恵那郡中津町と苗木町が合併し中津川町となり、27年に市に昇格し中津川市になりました。
 中津町は江戸時代、尾張藩領になり中津川宿として発展。明治維新後も中央本線西線、国道19号線、中央高速が通る交通の要衝で、東濃地方の中心として発展しました。

 苗木城の城下町は、苗木城の北側になり、幹線から外れ寂れていきました。




木曽川

木曽川


 苗木城本丸下約170メートルに木曽川が流れています。

 手前の小さな橋(トラス橋)はかつて、中津川と付知を結ぶ北恵那鉄道が走っていましたが、昭和58年に廃線になりました。


長篠城周辺図

長篠城祉近辺図



 長篠城祉周辺には、勝頼の長篠城攻めの時、本陣をはじめ多くの陣所、砦が築かれました。

 現在はそれらの陣所を廻るハイキングコースが整備されています。

 今回は長篠城祉北側にある大通寺、医王寺を訪ねてみました。





大通寺裏山

大通寺の裏山


 国道151号線を挟んで、すぐ北側に大通寺があります。長篠城攻めの時は、馬場信春、武田信豊、小山田昌行が率いる2000人の兵が置かれました。





大通寺

大通寺本堂


 本堂の裏に井戸があり、重臣達が軍議で反対したにもかかわらず、勝頼は設楽ヶ原に進出し、織田・徳川軍との決戦を決めたことで、馬場春信は負け戦を覚悟し、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを大通寺の陣所に呼び、井戸の水で別れの杯を酌み交わしたと言われています。





大通寺から見る長篠城

大通寺から長篠城祉を見たところ


 目の前に長篠城祉があり、城内の様子が、手に取るようにわかったでしょう。





武田本陣天神山

天神山と医王寺


 正面の小高い山が天神山、その右手奥に医王寺があり、その裏山に武田勝頼の本陣がありました。






天神山

荏柄天神


 天神山は中腹に荏柄天神があることに由来します。

 ここには一条信龍、真田信幸、昌輝兄弟、土屋昌次が率いる2000人の兵が詰めました。





医王寺

医王寺


 長篠山医王寺は永正11年(1514年)に創建されました。薬師如来を本尊歳、7つの末寺を持つ曹洞宗の寺院です。

 長篠城攻めでは、医王寺の裏山に武田勝頼の本陣がありました。




武田本陣縄張り図

本陣縄張り図


 頂を切り開き、三つの曲輪を持つ本格的な砦でした。





武田本陣展望台

展望台


 陣所跡に刃、木製の展望台が建てられています。





医王寺から見る長篠城

展望台からの眺め


 右下が医王寺。中央、二つの山の間に長篠城があります。

 その先にあるのが新東名高速です。






長篠城南砦

鳶が巣砦


 長篠城の南、宇蓮川を挟んで久間山、中山、鳶が巣、姥ヶ懐、君が状床の5つの砦が築かれました。

 5月20日の深夜、徳川家康の重臣、酒井忠次が鳶が巣砦を攻撃、21日早朝に砦を落とし勝ちどきを上げました。それを知った武田勝頼は、織田・徳川軍との決戦を決意したと言われます。





鳥居強右衛門磔図

鳥居強右衛門(すねえもん)


 5月8日に長篠城攻めが始まりましたが、13日に兵糧蔵を焼失、兵糧の大半を失い、長期籠城が困難となりました。

 長篠城の状況を岡崎城の徳川家康に知らせるために、奥平信昌の家臣、鳥居強右衛門が14日深夜、闇夜に紛れて長篠城を抜け出し、武田の包囲網を突破に成功。岡崎城に向かいます。15日午後には岡崎城にたどり着き家康に援軍を要請します。強右衛門は家康から大軍が救援に駆けつけると聞き出すと、城兵を勇気づけるために急ぎ長篠城に戻ろうとします。しかし長篠城に戻る寸前、武田軍に捕らえられました。

 そして寒狭川を挟んで長篠城の対岸、城内から見える場所に磔にされました。武田勢は強右衛門に、城兵を落胆させ、戦意を喪失させるために、援軍は来ないと嘘を言えと強要しますが、強右衛門はそれに反し、間もなく援軍が来ることを城内の兵に叫び伝え、怒った武田勢に殺されてしまいました。

 強右衛門享年36才でした。


 



鳥居強右衛門

長篠城内から見た、強右衛門の磔位置


 寒狭川の対岸で強右衛門は磔にされました。



寒狭川

寒狭川


 左側が長篠城祉になります。