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躑躅ヶ崎館模型

躑躅ヶ崎館の模型


 甲斐の守護大名、武田信玄の居館として知られる躑躅ヶ崎館は、信玄の父、武田信虎により永正16年(1519年)に築かれました。それまで甲斐の守護所は甲府市と石和市の境にある川田館でした。守護所移転の理由は川田館が水害に遭いやすいという理由でした。
 躑躅ヶ崎館は積翠寺から流れる相川の扇状地の中程にあり、武田信玄は大永元年(1521年)に躑躅ヶ崎館の詰めの城として築かれた要害山城で誕生しています。
 躑躅ヶ崎館の構造は堀を含めて約200メートル四方の主郭を中曲輪と東曲輪に別け、主郭の西側に別郭として西曲輪が築かれています。
主郭の虎口(城門)は南側には無く、東西と北側に開かれ、東側と北側には虎口を守る馬出しが設けられ、西側には西曲輪の南側に梅翁曲輪、北側に味噌曲輪が新たに築かれ、馬出しとして防備を強めています。
 その外側、西を相川、東を藤川に挟まれた東西約1キロ、南北約3キロほどの土地に重臣を住まわせ、京の都に習った城下町を形成しています。
 よく「武田信玄は城を築かず、防備の脆弱な館に住み、戦いは国境で行ったから国を守れた」と言われますが、この時代の守護所は交通の便利な平地に築かれ、周囲に重臣、町人を住まわせ、敵に攻められた場合には籠城できる詰めの城を配置する例が多く、駿府の今川館、山口の大内館などに見られます。






城下町図

古府中地図


 甲府はかつて古府中と呼ばれました。

 右に藤川、左に相川が流れ、天然の堀となっています。

 躑躅ヶ崎館を中心に重臣を住まわせ、要所に神社や寺を配しています。

 南側には市が置かれ、商人や職人が住む町となっています。






躑躅ヶ崎館縄張り図

躑躅ヶ崎館縄張り図


 下が主郭で、広さは約150メートル四方。二条城や名古屋城の本丸と同じぐらいの広さとなっています。

 主郭は主殿のある中曲輪、東に東曲輪があり、毘沙門堂や馬場などが置かれています。

 中曲輪は主殿や常御座所の南側が庭となり泉水を置き、北側は奥向きとなっています。

 上の図は全体図で、西側に西曲輪が築かれ、西曲輪の南に梅翁曲輪、北側に味噌曲輪が築かれ、躑躅ヶ崎館の防備を固めています。




柳小路

武田神社への通


 JR甲府駅の北口から約二キロあまりの一本道で、途中から緩やかな上り坂となっています。

 その先に躑躅ヶ崎館跡に置かれた武田神社があります。





躑躅ヶ崎館

武田神社入り口


 本来は南側に入り口はありませんでしたが、朱塗りの橋が架けられ、土塁が開かれ、両脇を城郭風に石垣で固めています。





水堀

水堀


 躑躅ヶ崎館の南側は、幅約10メートルほどの水堀となっています。





武田神社

武田神社


 石段を登り鳥居を潜ると、その先には武田神社の拝殿があります。大正8年(1919年)に、武田信玄を祀るために創建されました。

 境内には武田家の宝物を納める宝物殿があります。





土塁

土塁


 躑躅ヶ崎館の東虎口を守る曲輪が再現され、土塁で囲まれています。





躑躅ヶ崎

躑躅ヶ崎


 館の東側に、躑躅ヶ崎館の名前の由来となる、躑躅ヶ崎と呼ばれる半島のような尾根が伸びていました。

 現在はその先端が崩され、農業用水の貯水池の堰堤となっています。





農業用水貯水池堰堤

北側の眺め


 堰堤に登北側を眺めたところです.この先に詰めの城である要害山城があります。





要害山城

要害山城


右側手前の山頂の丸い山が詰めの城である要害山城です.標高が約780メートル。敵に攻め込まれたときに籠城する目的で築かれました。信玄は大永元年(1521年)にこの要害山城で誕生しました。




空堀

東側空堀




北側空堀

北側空堀


 躑躅ヶ崎館は緩やかな斜面にあり、南側は水堀ですが、北側が空堀となっています。北側に行くほど堀は深くなり、7メートルから8メートルほどあり、堀の幅も18メートルほどあります。




躑躅ヶ崎館北側

堰堤から館の北側を見たところ


 躑躅ヶ崎館の北側には、東に隠居曲輪、西に味噌曲輪と言う小曲輪が並んでいました。 





味噌曲輪跡

味噌曲輪跡


 西曲輪の北虎口の外側には、味噌曲輪がありました。





岩崎邸4

岩崎邸


 上野の不忍池の西側にある旧岩崎邸庭園は、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の長男で、岩崎家第三代当主、岩崎久彌氏の本邸として明治29年(1896年)に竣工した豪邸で、設計は英国人技師、ジョサイア・コンドルによるものです。
 現在、庭園は敷地面積16912平方メートルの敷地に、コンドル設計の洋館と南西側に和館、北東に撞球(どうきゅう)室が建っています。かつては数倍の面積を持ち、550坪の和館が西側に建ち、車庫、倉庫の他、発電所まで持っていましたが、昭和44年頃に取り壊され、現在の規模になりました。
 洋館は木造2階建て、煉瓦造りの地下室を持ち、建築面積は531.5平方メートル。17世紀初頭のイギリスジャコビアン様式にルネッサンス様式、イスラム様式、久彌の留学先であるアメリカ、ペンシルベニア州の様式を取り入れたデザインになっています。
 一階にホール、客室、大食堂、厨房、配膳室など接客用の部屋が配され、二階は私的に利用されました。




一階見取り図

市貝見取り図




二階見取り図

二階見取り図





岩崎邸2

芝庭から見る岩崎邸洋館


 外壁は下見板張り白ペンキ塗り仕上げ、屋根は天然のスレート葺きで、北側の玄関上部に角ドームの塔屋を持ち、南側に二層のベランダが造られました.また明治43年(1910年)頃に、東側一階にサンルームが増築されました。




大階段

大階段


 内部は木調で、ジャコビアン様式の緻密で豪華な装飾が施されています。





一階ホール暖炉

一階ホール暖炉


 一階ホールの暖炉には黒大理石が使用されています。イスラム様式を取り入れた暖炉となっています。





婦人客室天井

一階婦人客室天井


 一階のホール東側の婦人客室の天井には、緻密なシルクの日本刺繍が施された布張りの天井となっています。






コンドル

ジョサイア・コンドル


 1852年、イギリスのロンドン生にまれ、幼くして父を亡くし、王立建築家協会正会員で、建築学会長を努めた叔父スミスを頼り、建築家の道を歩みます。
 明治10年(1877年)、工部省営繕局顧問、工部大学校造家学課程(現、東京大学工学部)の教師として来日。教え子には東京駅日本銀行を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊など、蒼々たるメンバーがいます。
 教師をする傍ら、コンドル自身、上野博物館などを設計。明治16年にはイギリス留学から帰国した辰野金吾に、工部大学教授を譲りました。
 文明開化の象徴とされた鹿鳴館、ニコライ堂の他に三菱1号館、桑名の諸戸清六邸、三井倶楽部、島津忠重邸(清泉女子大学本館)、古河虎之助邸などを設計しました。
 日本文化に魅せられ、衣装、華道、庭園に関する著作があり、また河鍋暁斎に日本画を学び暁英の号を名乗り、明治26年(1893年)には踊りの師匠である前波くめと結婚。終生日本で暮らし、大正9年(1920年)に亡くなりました。




岩崎久彌


 慶応元年(1865年)に三菱財閥の創始者、岩崎彌太郎の長男として産まれ、慶應義塾普通部を経て渡米、明治24年(1891年)にペンシルバニア大学を卒業後帰国。明治27年(1894年)に三菱合資会社を設立、社長に就任し、三菱財閥の発展に貢献し、大正5年(1916年)に従兄弟の岩崎小彌太(彌太郎の弟、彌之助の長男)に岩崎家当主の座を譲ります。その後東洋文庫を設立、文化的活動にいそしみました.戦後、昭和30年に90才で天寿を全うしました。






岩崎邸和館

和館


 洋館がおもにゲストハウスとして利用されたのに対し、和館は岩崎家の主人、家族の生活の場で、使用人部屋もありました。名棟梁大河喜十朗を棟梁として建設、その広さは約550坪ありましたが、現在は書院造りの大広間三室319.6平方メートルが残されました。大広間の襖絵、障壁画は、橋本雅邦によるもので、四季折々のものが描かれています。




和館見取り図

和館見取り図





取り壊された和館

取り壊された和館


 グレーの部分が、かつての和館が建っていたところでした。太平洋戦争の戦火をくぐり抜け、昭和44年頃まで建っていたようですが、残念ながら取り壊されました。





和館意匠

和館 菱の意匠


 三菱の由来となった岩崎家の三階菱をモチーフとした意匠を、至る所に見ることができます。







撞球館

撞球室


 撞球室もコンドル設計で、洋館が竣工した明治29年以降に建てられたと言われています。木造平屋建てで壁が校倉造り、刻みの入った柱、深く軒を差し出した屋根は木造ゴシック造りと言われ、スイスの山小屋を意識したデザインとなっています。
 屋根は天然スレート葺き、広さは138平方メートル.洋館とは地下道で結ばれています。




撞球館鱗壁

切り妻破風部分の鱗状の壁


 撞球室の正面、切り妻破風部分には小さな板を鱗状に張り付けたもので、アメリカゴシック建築の流れをくんだ様式です、




地下通路

洋館と結ぶ地下通路






その後の岩崎邸


  戦後、GHQが接収し、諜報機関キャノン機関の本部となりました。その間、財産税の物納で国有財産となり、昭和28年に日本政府に返還されました。
 昭和44年に司法研修所の庁舎建設のために和館の大部分を破却。

 平成6年に司法研修所の移転により文化庁に移管。

 平成13年に東京都に移管され庭園が公開。

 平成15年に内部の改修が完了し、通年公開されました。




南から見る邸

南から見た朝香宮邸





小食堂ラジエーターカバー

小食堂


 小食堂は朝香宮家の家族が食事をとるところで、右手が床の間になるなど、全体的に和の要素を取り入れています。正面の窓の下のラジエーターカバーはブロンズ製で、源氏香の模様がデザインされています。

 床はローズウッドとケヤキの寄せ木で、周囲を黒檀で囲んでいます。





小食堂照明

小食堂天井


 小食堂の天井は杉の正目板が使われています。

 シャンデリアは、中央の照明が乳白色のドーム型のガラスでカバーされ、その周囲に四つの透明ガラスでカバーされた照明が囲んでいます。





一階廊下

廊下


 小食堂から見たところで、廊下の先は大広間になっています。





階段

第二階段


 朝香宮邸には大広間に第一階段と、この第二階段の二つがあります.

 第一階段は写真に撮れなかったけれど、かなり豪華な造りの階段となっています。

 第二階段は上の廊下の写真の左手にあります。壁が白漆喰塗りと質素ながら、手摺りが木製で豪華な装飾が施されています。

 3階へは、第二階段で上がることができます。

 2階は朝香宮家の家族のプライベート空間となっています。 




二階階段室

第二階段二階


 第二階段を上ったところで、姫宮寝室の前に出ます。

 天井から吊り下がる、色ガラスを多用した星形の照明が印象的です。


 




二階北ベランダ

北側ベランダ


 朝香宮邸二階には。南側と北側にベランダがあります。

 柱は正目のチーク材が使用され、床は布目状の泰山タイルが使われています。

 泰山タイルは大正六年(1917年)、池田泰山が京都に開いた泰山製陶所で焼かれた美術タイルで、那須御用邸や、秩父宮邸、高松宮邸でも使用されています。





中庭

中庭


 北側ベランダから中庭を見たところで、中央に長方形の池があります。





二階浴室

第一浴室


 殿下寝室と、妃殿下寝室の間にあり、おもに殿下が使用しました。

 床は山茶窯(つばきがま)製陶所で焼かれたモザイクタイルが使用され、壁にはフランス産の大理石が使用されています。

 朝香宮邸には他に姫宮が使用した第二浴室、若宮が使用した第三浴室があります。





姫宮居間

姫宮居間


 二階の西端に姫宮の居間があります.床はローズウッド、カーリーメープル、ケヤキの寄木(矢羽張り)で、暖炉に使われたピンク色の大理石が部屋を明るい感じにしています.また段廊の上の丸い鏡が、若い女性の部屋らしさを醸し出しています。




姫宮寝室

姫宮寝室


 姫宮居間の隣に姫宮の寝室があります。

 床はケヤキの寄木(矢羽張っり)で扉は桜剤が使用されています。

 壁紙は青を基本とした直線と水泡模様がデザインされ、創建当時のものが使われています。

 上部をアーチ状にした大きな鏡が嵌め込まれた、木調の家具が印象的です。




新館

新館


 本館の西隣に一部二階建ての新館があります。2013年に建て替えられました。

 展示施設と管理棟が入っています。

 建築面積1298.26平方メートル。飲め床面積2140.81平方メートル。地上二階地下1階の建物です。





新館への通路

渡り廊下


 本館と新館を繋ぐ渡り廊下です。

 南側に窪みの入ったガラスが使われ、差し込んだ日光が独特の模様の陰影を作り出しています。





新館ロビー

ミュージアムショップ


 ガラスを多用した、明るく開放的な雰囲気です。






新館内部

展示場


 天井が変わった形で、照明が目立たないように埋め込まれています。