旧岩崎邸庭園 | にっくんのブログ

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岩崎邸4

岩崎邸


 上野の不忍池の西側にある旧岩崎邸庭園は、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の長男で、岩崎家第三代当主、岩崎久彌氏の本邸として明治29年(1896年)に竣工した豪邸で、設計は英国人技師、ジョサイア・コンドルによるものです。
 現在、庭園は敷地面積16912平方メートルの敷地に、コンドル設計の洋館と南西側に和館、北東に撞球(どうきゅう)室が建っています。かつては数倍の面積を持ち、550坪の和館が西側に建ち、車庫、倉庫の他、発電所まで持っていましたが、昭和44年頃に取り壊され、現在の規模になりました。
 洋館は木造2階建て、煉瓦造りの地下室を持ち、建築面積は531.5平方メートル。17世紀初頭のイギリスジャコビアン様式にルネッサンス様式、イスラム様式、久彌の留学先であるアメリカ、ペンシルベニア州の様式を取り入れたデザインになっています。
 一階にホール、客室、大食堂、厨房、配膳室など接客用の部屋が配され、二階は私的に利用されました。




一階見取り図

市貝見取り図




二階見取り図

二階見取り図





岩崎邸2

芝庭から見る岩崎邸洋館


 外壁は下見板張り白ペンキ塗り仕上げ、屋根は天然のスレート葺きで、北側の玄関上部に角ドームの塔屋を持ち、南側に二層のベランダが造られました.また明治43年(1910年)頃に、東側一階にサンルームが増築されました。




大階段

大階段


 内部は木調で、ジャコビアン様式の緻密で豪華な装飾が施されています。





一階ホール暖炉

一階ホール暖炉


 一階ホールの暖炉には黒大理石が使用されています。イスラム様式を取り入れた暖炉となっています。





婦人客室天井

一階婦人客室天井


 一階のホール東側の婦人客室の天井には、緻密なシルクの日本刺繍が施された布張りの天井となっています。






コンドル

ジョサイア・コンドル


 1852年、イギリスのロンドン生にまれ、幼くして父を亡くし、王立建築家協会正会員で、建築学会長を努めた叔父スミスを頼り、建築家の道を歩みます。
 明治10年(1877年)、工部省営繕局顧問、工部大学校造家学課程(現、東京大学工学部)の教師として来日。教え子には東京駅日本銀行を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊など、蒼々たるメンバーがいます。
 教師をする傍ら、コンドル自身、上野博物館などを設計。明治16年にはイギリス留学から帰国した辰野金吾に、工部大学教授を譲りました。
 文明開化の象徴とされた鹿鳴館、ニコライ堂の他に三菱1号館、桑名の諸戸清六邸、三井倶楽部、島津忠重邸(清泉女子大学本館)、古河虎之助邸などを設計しました。
 日本文化に魅せられ、衣装、華道、庭園に関する著作があり、また河鍋暁斎に日本画を学び暁英の号を名乗り、明治26年(1893年)には踊りの師匠である前波くめと結婚。終生日本で暮らし、大正9年(1920年)に亡くなりました。




岩崎久彌


 慶応元年(1865年)に三菱財閥の創始者、岩崎彌太郎の長男として産まれ、慶應義塾普通部を経て渡米、明治24年(1891年)にペンシルバニア大学を卒業後帰国。明治27年(1894年)に三菱合資会社を設立、社長に就任し、三菱財閥の発展に貢献し、大正5年(1916年)に従兄弟の岩崎小彌太(彌太郎の弟、彌之助の長男)に岩崎家当主の座を譲ります。その後東洋文庫を設立、文化的活動にいそしみました.戦後、昭和30年に90才で天寿を全うしました。






岩崎邸和館

和館


 洋館がおもにゲストハウスとして利用されたのに対し、和館は岩崎家の主人、家族の生活の場で、使用人部屋もありました。名棟梁大河喜十朗を棟梁として建設、その広さは約550坪ありましたが、現在は書院造りの大広間三室319.6平方メートルが残されました。大広間の襖絵、障壁画は、橋本雅邦によるもので、四季折々のものが描かれています。




和館見取り図

和館見取り図





取り壊された和館

取り壊された和館


 グレーの部分が、かつての和館が建っていたところでした。太平洋戦争の戦火をくぐり抜け、昭和44年頃まで建っていたようですが、残念ながら取り壊されました。





和館意匠

和館 菱の意匠


 三菱の由来となった岩崎家の三階菱をモチーフとした意匠を、至る所に見ることができます。







撞球館

撞球室


 撞球室もコンドル設計で、洋館が竣工した明治29年以降に建てられたと言われています。木造平屋建てで壁が校倉造り、刻みの入った柱、深く軒を差し出した屋根は木造ゴシック造りと言われ、スイスの山小屋を意識したデザインとなっています。
 屋根は天然スレート葺き、広さは138平方メートル.洋館とは地下道で結ばれています。




撞球館鱗壁

切り妻破風部分の鱗状の壁


 撞球室の正面、切り妻破風部分には小さな板を鱗状に張り付けたもので、アメリカゴシック建築の流れをくんだ様式です、




地下通路

洋館と結ぶ地下通路






その後の岩崎邸


  戦後、GHQが接収し、諜報機関キャノン機関の本部となりました。その間、財産税の物納で国有財産となり、昭和28年に日本政府に返還されました。
 昭和44年に司法研修所の庁舎建設のために和館の大部分を破却。

 平成6年に司法研修所の移転により文化庁に移管。

 平成13年に東京都に移管され庭園が公開。

 平成15年に内部の改修が完了し、通年公開されました。