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稲荷櫓外観

稲荷櫓


 本丸の北東にある稲荷曲輪に稲荷櫓があります。
 二層二階建てで、一層の広さは6間×5間、二層めが4間×3間の大きさで高さは10.86メートルと二層櫓としては標準的な大きさの櫓です。
 東側に千鳥破風、北側に入母屋破風を乗せた石落としが設けられています。寛文元年から甲府藩主となった徳川綱重により、寛文4年(1664年)に建てられた櫓でした。
 2004年に建築当初の様式で復元されました。





稲荷曲輪

稲荷曲輪


 天守台より見た稲荷曲輪です。本丸の北側にあります。





稲荷櫓図面

稲荷櫓図





稲荷櫓1階内部

稲荷櫓内部一階


 左側の壁の上が二階の外壁となります。





稲荷櫓2階内部

稲荷櫓内部二階


 二階は桁行4間、梁間3間あります。

 広さは普通の民家と変わりませんが、小屋組を支える梁などの部材は遙かに巨大です。





内松陰門2

内松陰門


 二の丸の北側にある高麗門です。

 1999年に現在の姿に復元されました。




内松陰門

内松陰門


 本丸方面から見たところです。

 高麗門の右手の城塀の様子がよくわかります。




甲府城図

甲府城図


 甲府城は明治6年(1873年)に廃城になり、建物の多くは破却されました。
 その後、明治37年(1903年)には北側を中央本線が開通し、清水曲輪の西側に甲府駅ができました。
 大正15年(1926年)には楽屋曲輪を破却し堀は埋め立てられ、山梨県が建設され、甲府城の西側は都市開発で全て破却され、東の本丸を中心とした稲荷曲輪、鍛冶曲輪、数寄屋曲輪、二の丸の一部の6.2ヘクタールが明治37年(1904年)に舞鶴公園として解放されました。



舞鶴公園より見る山手門

舞鶴公園から見る山手御門


 舞鶴公園(甲府城祉)の北側に中央本線が通り、山手御門が分断され復元されました。





山手櫓門

山手御門


 甲府城内郭には南に追手御門、西側に柳御門、北側に山手御門の三カ所に門がありました。
 山手御門は清水曲輪にあり、現在は中央本線を挟んで北側にあります。
 1997年から発掘調査が行われその全容が明らかになりました。北側から杢橋、土橋が続き城内との境に山手門があり、直角に折れ山手門の櫓門がある枡形門となっていました。2007年に石垣や高麗門、櫓門が当時の工法で復元されました。





山手門図面

山手御門図


 櫓門、一階、梁間2間(約4,364メートル)、桁行5間(約10,017メートル)。二階、梁間3間(約5,9メートル)、桁行7間(約13,79メートル)、棟高11,5メートル。延べ面積94,76平方メートル。
 高麗門、幅約4,97メートル、高さ5,866メートル。




山手高麗門

山手門


 手前の高麗門が山手門。入って右側に山手渡櫓門の二つで山手御門が形成されています。





山手門

内側から見る山手門


 控え柱のある冠木門の上に切り妻屋根を載せたのが高麗門です。

 枡形門の外側の門によく使われる形式の門です。

 山手門は幅が約5メートル、高さは約5,866メートルあります。





山手門2

山手渡櫓門


 山手門を入り右手に山手渡櫓門が控えています。

 枡形門は三方を城門のある渡櫓と長櫓(多門櫓)、または城塀で囲まれ、侵入してきた敵を三方から攻撃する防御施設です。





山手門2

山手渡櫓門


 門の鏑木までの高さが4,3メートルありまます。

 櫓門の棟高は11,35メートル、幅は13,79メートルあります。




山手門内部

山手渡櫓門内部


 櫓門内部は資料館となり、鎧などの武具や、甲府城城下などの資料が展示されています。






甲府城模型

甲府城模型




甲府城の歴史


 天正十年(1582年)に武田氏が滅びると、甲斐国は織田信長の所領となり、信長の重臣、河尻秀隆が入りますが、織田信長が本能寺の変で明智光秀に倒されると、旧武田領各地で反乱が起こり、河尻秀隆は殺害されます。
 その後甲斐は徳川家康が支配することとなり、天正11年(1583年)に家臣の平岩親吉が躑躅ヶ崎館の南側、古府中の入り口に当たる一条小山に縄張りを氏、築城を開始しました。
 その後、天正17年の小田原攻めの後、徳川家康は北条氏の旧領である関東に移封され、天正18年に甲斐は信長の四男で羽柴秀吉の養子、羽柴秀勝の所領となります。秀勝は翌年に美濃に移封され、甲斐には加藤光泰が入ります。 光泰は甲府城築城を進めますが、秀吉の朝鮮出兵(文禄役)に出陣。文禄2年(1592年)に西平浦の陣中で病死しました。
 加藤光泰の嫡子、貞泰ははまだ十四歳と若すぎるために、美濃国黒野に移封となり、甲斐国には秀吉の重臣、浅野長政、幸長父子が入りました。甲斐国は関東に移封された徳川家康を押さえるための重要な地であり、実力のある人物を入れる必要がありました。五奉行の一人、浅野長政はそれにふさわしい人物でした。甲府城は浅野時代に完成したと言われています。
 関ヶ原の合戦では、浅野幸長は徳川方に与し、その恩賞で紀伊和歌山藩37万石に加増され、その後安芸広島藩へと移りました。
 甲斐国は徳川家の所領となり、慶長8年(1603年)には徳川家康の9男、義直に与えられました。しかし義直はまだ三歳と幼く、実際に納めたのは守役の平岩親吉でした。
 慶長12年(1607年)に義直は尾張国清洲へと移封となり、甲府城は武田氏の家臣であった武川衆(武川十二騎)の甲府城番制となりました。
 その後、徳川秀忠の次男で、駿府城主の忠長の所領となり、城代が置かれますが、寛永9年(1632年)の忠長の改易後は再び甲府城番制となりました。
 寛文元年(1661年)徳川家光の三男綱重に甲斐国が与えられ甲府城主となります。 綱重の嫡子、綱豊は宝永元年(1704年)に五代将軍、綱吉の養子となり、江戸城に入り、家宣となり、後に六代将軍になりました。
 宝永2年(1705年)に甲府城は武川衆の流れをくみ、徳川綱吉の側用人から大老にまで上り詰めた柳沢吉保に与えられました。
 享保9年(1724年)に吉保の子の吉里は大和国郡山に移封となり、以後甲斐国は幕府の直轄領となり、甲府城には甲府勤番が置かれ、幕末の慶応2年(1866年)に勤番性は廃止され城代が置かれました。



甲府城古地図

甲府所古地図


 甲府城の内郭は水堀に囲まれ、広さは約20ヘクタールありました。

 本丸を中心に南に鍛冶曲輪、天守曲輪、北に稲荷曲輪、東に数寄屋曲輪、西に二丸が置かれ、さらに西側に屋形曲輪、楽屋曲輪があり、それぞれに御殿があり、屋形曲輪の北側に清水曲輪がありました。

 上の古地図は柳沢時代のものですが、親藩時代は城代が納めていましたが、柳沢時代は実際に藩主が在城し、御殿の新築、石垣の回収、城下町の整備が進み、甲府城と城下町の最盛期を迎えました。





水堀

南側水堀


 現在、甲府城は広さ約6.2ヘクタールの舞鶴公園として整備され、南側のみに水堀が残っています。





南より見る甲府城

南側より見る甲府城


 甲府城は一条小山と呼ばれる高さ30メートルほどの山に築かれました。一条小山には古くから甲斐一条氏の屋形があったと言われます。

 甲府城は豊臣秀吉の重臣である浅野長政、幸長父子により近世城郭となりましたが、豊臣系の城郭らしく、一二三段式の石垣で固めた平山城となっています。





天守台

天守台


 本丸東側に天守台があります。平面は安土城のようにいびつな形をしています。

 実際には天守は建てられなかったようですが、もし建てたとしたら、五層の天守は建てられる広さはあります。




天守台穴蔵

天守穴蔵


 天守台には穴蔵があります。深さは約2間ほどあります。





天守台より見る富士山

天守台より見る富士山


 南側に富士山がを見ることができました。

 個人的ですが、山梨県から見る初めての富士山です。





天守台より見る南方面

天守台より見る鍛冶曲輪。


 こうしてみると、かなりの高さがあります。





天守台より見る本丸

天守台より見る本丸


 天守台の西側に本丸があります。古図を見ると小規模な殿舎が建っていました。





石垣石段

石垣と石段


 稲荷曲輪内部の石垣で、高さは約二間(3.6メートル)ほどあります。

 石段はかなり急ですが、整備されていました。





城塀

城塀


 稲荷曲輪には城塀が再現されていますが、桟瓦葺き(一般に使われている瓦)で、控え柱のない塀になっています。





城塀二

城塀


 こちらは数寄屋曲輪の城塀です。丸瓦と平瓦を組み合わせた本瓦葺きで、控え柱のある本格的な女塀を再現しています。





鉄門

鉄門


 本丸の南側にある二階建ての櫓門で、明治の初め頃までありました。

 2013年に資料を基に伝統工法で復元しました。




鉄門内部

鉄門内部


 梁間3間、桁行7間、広さは約20坪あります。

 梁材に太い丸太が使われています。

 本瓦葺きの思い屋根を支えるには、これだけの材木が必要となります。





鉄門図

鉄門 南立面図


 鉄門の高さは9,653メートルあり、一階の内側には番所が設けられていました。





稲荷曲輪門

稲荷曲輪門


 鍛冶曲輪と稲荷曲輪を結ぶ高麗門です。

 1999年に復元されました。

 甲府城では1990年より舞鶴城公園整備事業に着手。鍛冶曲輪門、内松陰門、稲荷曲輪門、稲荷櫓、鉄門を復元しました。


西曲輪南虎口

西曲輪


 中曲輪の西にある西曲輪は四方を堀で囲まれた独立した曲輪で、広さは本曲輪の半分ほどの広さです。
 西曲輪には晴信(信玄)の嫡子、義信夫婦が住んでいたと言われます.義信は天文七年(1538年)に産まれ、母は晴信の正妻、三条の方。北条、今川との三国同盟で、今川義元の娘嶺松院と結婚します。優れた武将のようでしたが、信玄と対立し永禄8年(1565年)に晴信暗殺を企て発覚、古府中東光寺に幽閉。そして永禄10年(1567年)に自害しました。享年三十歳でした。
 信玄と正妻、三条の方との間には、義信の他、二人の男子がいましたが、次男信親は盲目で海野氏の養子、そして出家して竜芳を名乗りました。三男信之は幼くして亡くなり、武田家は諏訪御料人との間に出来た四男、勝頼が後を継ぐことになります。




西曲輪土塁

西曲輪土塁


 西曲輪は武田神社のある本曲輪と違い、色々と立ち入ることが出来ます。

 土塁の上を歩いてみました.土塁は高さ約3メートルほど.上の写真は右手が西曲輪内部、左手が水堀です。

 躑躅ヶ崎館は、北へ行くほど高くなる緩やかな斜面に築かれた館で、曲輪内部も北側が高くなっています。





西曲輪北虎口

西曲輪北虎口


 西曲輪には南北に虎口がありました.写真は北側の虎口で、小さな枡形になっています。
 南虎口に比べ土塁が低くなっています。




中曲輪と西曲輪の間の堀

西曲輪空堀


 西曲輪と本曲輪の間にある空堀です。

 左が西曲輪、右が本曲輪です。





西曲輪西側水堀

西曲輪西側水堀


 西曲輪の西側の堀は、南三分の二が水堀。残りは空堀となっています。

 幅は約10メートルぐらい、土塁の高さは7~8メートルほどあります。




梅翁曲輪跡

梅翁曲輪跡


 西曲輪の南側に梅翁曲輪という郭が設けられ、躑躅ヶ崎館を守りました。

 躑躅ヶ崎館は、武田氏滅亡後、織田、徳川、豊臣と領主が移りますが、浅野長政、幸長父子による甲府城築城まで、甲斐の中心でした。

 そのため武田氏時代より、館の堀や土塁は整備され、虎口を守る梅扇曲輪も新たに整備されました。







武田晴信像

武田晴信(信玄)像


 大永元年11月(1521年12月)に、躑躅ヶ崎館の詰めの城である要害山城で生まれました.当時の武田信虎は、駿河の今川親氏と紛争中で、今川家家臣、福島正成に攻め入られていました.信虎はこれを撃退。後に今川と和睦しています。

 天文10年(1541年)、今川義元と手を組み、乳信虎を追放し、家督を相続。武田家19代当主となります。

 隣国信濃を併合し、戦国最強と言われた武田軍団を形成し、最盛期には甲斐、信濃の他、駿河、遠江、三河、上野、美濃、飛騨を支配。約120万石の太守となりました。

 永禄2年(1559年)に出家し、徳栄軒信玄と名乗ります。

 元亀4年(1573年)に病で亡くなりました。





信玄と徳川家康


三方ヶ原の戦いで、徳川家康は武田信玄に大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰りました.よほど武田勢の攻撃が激しかったのか、家康は馬上で糞を漏らしたとの逸話まで残っています。
 幸いにも信玄は翌年、病に倒れ亡くなり、武田勢は甲斐に戻って行きました。
 危機を脱した家康は、信玄を恐れながらも、師として仰ぎます。
 武田家が滅びると、家康は武田の旧臣を多く召し抱えます。

 井伊直政は武田の赤備にならい、井伊の赤備えと名乗りました。
 そして家康は五男の信吉に武田家の名跡を継がせますが、信吉は二十一歳で急逝しました。


 




武田氏系図

武田家系図


 武田神社宝物館でもらったパンフレットに載ってた武田氏の系図です。

 盲目のため出家し竜芳と名乗った晴信の次男、信親の系図が載っていました。

 信親は武田家滅亡と同時に自殺しますが、穴山梅雪の娘を娶り、その間に出来た信道も出家し顕了道快を名乗り、織田氏の残党狩りの難を逃れました。

 その後、武田家家臣だった大久保長安の庇護を受けますが、慶長18年の長安の死後発覚した不正蓄財(大久保長安事件)で連座し、伊豆大島に配流となりました。

 信道の子、信正の時、寛文3年(1663年)、家光の13回忌で赦免され、江戸に戻り、信正の子、信興は500石を与えられ高家になりました。

 晴信の弟、信実は川窪家に養子に入りますが、子の川窪信俊は武田家滅亡後、徳川家康に仕え、信俊の子の信貞の時に武田姓に戻り、5300石の旗本として続きました。

 晴信の七男、信清は、武田家滅亡後、宿敵だった上杉氏に仕え、米沢武田家として存続しました。

 調べてみると武田氏の血筋は、結構残っていることがわかります。






甲府方面

甲府方面


 躑躅ヶ崎の堰堤より、甲府駅方面を見たところです。

 右手の森は武田神社(躑躅ヶ崎館)。その左側に出丸が復元されています。

 躑躅ヶ崎館の南側に城下町を形成し、重臣を住まわせていました。





甲府地図

甲府地図


 武田神社前に有った、現在の甲府の地図です。

 躑躅ヶ崎館の周りにある、重臣屋敷が書き込まれています。






馬場美濃守屋敷跡

馬場美濃守屋敷跡


 行きは甲府駅からバスで武田神社に行きましたが、帰りは歩いて戻りました.約二キロ、歩いて三〇分ほどです。

 途中に重臣屋敷があったことを示す説明文がありました。






武田家の滅亡


 晴信が亡くなったあと、武田家は四男の勝頼が相続します。
 勝頼は長篠合戦で敗北したあと、足元を固めるため、甲斐信濃の領国経営に勤しみ、穴山梅節の進言もあり、天正9年(1581年)真田昌幸に命じ新府城を築城し、同年末に居城を躑躅ヶ崎館から移しました。
 しかし翌天正10年、木曽義昌の織田信長への寝返りをきっかけに、織田軍の武田領侵入を許してしまいました。
 織田勢は信長の嫡子、信忠を総大将に、三万の大軍を送り込み、織田信長と同盟を結ぶ徳川家康もこれに呼応し、軍勢を武田領内に送り込みます。
 武田勢は小笠原氏や穴山梅雪まで寝返る始末。勝頼は新府城を捨て、譜代の小山田信茂を頼り岩殿城へ向かうが、信茂は裏切り勝頼一行を領内に入れず、天目山棲雲寺に向かうが、その途中追ってに捕まり、嫡子の信勝や北条夫人とともに自害しました。

 勝頼は家臣団をまとめきれず、多くの離叛者を出してしまったことが、武田家滅亡の原因でした。