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しなの鉄道

ちくま鉄道(旧信越本線)


 小諸城(懐古園)とはちくま鉄道(旧信越本線)を挟んで東側に三の丸、および城下町があります。

 城を分断する形で鉄道が通るのは甲府と同じです。





小諸城大手門

大手門


 ちくま鉄道の東側に三の丸があり、その正門が大手門になります。

 左右の石垣の間に独立する形で櫓門があるという古い形式の櫓門(新しい式形の櫓門は、石垣の上に載せています)で、慶長十七年(1612年)に仙石秀久により築かれました。

 二階は桁行七間、梁間三間の入母屋造りの楼門です。





小諸城大手門2

大手門(内側)


 2階内部は明治二十六年(1893年)に料亭として使用され、明治二十八年~二十九年(1895年~96年)に小諸義塾の教室として使われ、島崎藤村も教鞭を執りました。

 平成3年に所有者の大塚家から小諸市に寄贈され、平成5年に重要文化財に指定されました。






鍋蓋城1

鍋蓋城


 大手門の北側に、小諸城の前身となる鍋蓋城がありました。大井伊賀守光忠により築かれた鍋蓋城は、武田氏の小諸城築城で、小諸城内部に取り込まれました。

 江戸時代には城代家老の屋敷として使われました。





鍋蓋城2

鍋蓋城


 鍋蓋城は西側が崖となっています。小諸城下を通る北国街道は鍋蓋城を北に迂回するところを通りました。現在は鍋蓋城(城代家老屋敷)跡を貫く形で路が通っています。





鍋蓋城3

鍋蓋城周辺図


 鍋蓋城(城代家老屋敷)と三の丸周辺の地図です。





北国街道

北国街道


 軽井沢宿の西、追分で中仙道と別れ、善光寺を通り直江津で北陸道に合流する脇街道で、北国脇往還、善光寺街道とも呼ばれました。

 小諸城下の東側、および北側を囲む形で、北興街道が通っています。

 現在も古い家並みが残っており、風情のある通りです。





小諸宿本陣

小諸宿本陣


 寛保2年(1742年)に小諸を襲った洪水で、それまでの本陣が被害に遭ったため、問屋場であった上田家が本陣を兼ねるようになりました。

 間口八間の妻入りの大きな建物で、2階は肘木により持ち出し、縦格子の窓が設けられました。

 建築年代は18世紀末から19世紀初頭と考えられ、昭和48年に重要文化財に指定されています。





小諸宿本陣母屋

小諸宿本陣母屋


 以前は上の小諸宿本陣の横にあった建物でしたが、明治11年(1878年)佐久市鳴瀬の桃源院に移築され庫裏として使われました。

 平成7年に桃源院から小諸市に寄贈され、小諸駅北側の現在の地に移築され、平成9年より内部が公開され、歴史資料館として使われています。





小諸宿本陣母屋内部

上段の間


 大名など、身分の高い人が泊まった格式の高い部屋です。

 床の間、右に付け書院、左の脇床は違い棚の上に天袋のある構えの八畳二間の部屋で、二つの間を別ける欄間は精巧な造りとなっています。






光岳寺3

光岳寺本堂


 北国街道が折れ曲がる突き当たりにあるのが光岳寺です。
 光岳寺は徳川家康の生母、於大の方の位牌がある、由緒ある寺です。
 於大の方は享禄元年(1528年)刈谷城主、水野忠政と華陽院の間に産まれました。華陽院は後に家康の祖父である松平清康に再嫁しており、駿河の今川と尾張の織田の間に挟まれた三河の小領主同士の結びつきを深めるために、松平氏と水野氏の間で縁組みが持たれ、天文10年(1541年)於大の方が松平清康の嫡子、広忠の元に嫁ぐことになりました。天文12年の暮れに竹千代(後の徳川家康)が産まれます。
 しかし水野忠政が亡くなると、その息子信元は織田家につき、於大の方は離縁となり水野家の戻されます。その後知多郡阿久比城主久松俊勝に再嫁し、康元、康俊、定勝の三人の男子に恵まれます。
 桶狭間の合戦後、織田氏と同盟を結んだ家康は、久松俊勝を家臣に迎えます。兄弟のいなかった家康は、母方の弟にあたる勝俊の三人の子に松平姓を与え、久松松平氏として親藩格にしました。
 松平康元の子の忠良が大垣藩主となりますが、寛永元年(1624年)に亡くなり、その子の憲良が後を継ぎますが、まだ幼く、小諸藩に移封となりました。
 光岳寺は於大の方の子である康元が、領地を与えられた関宿に母を弔うために建立されましたが、その後領地替えとともに大垣、小諸へと移されました。
 元々は松翁山芳泉寺でしたが、憲良とともに小諸に来た真譽上人により天機山傳通院光岳寺となりました。傳通院は於大の方晩年に名乗った法号、傳通院に由来するもので、時代劇で良く聞く小石川傳通院は、家康が母を弔うために建てた寺です。

  明治維新後、牧野氏の菩提寺、泰安寺を併合し、徳川、久松松平、牧野各氏ゆかりの寺となっています。





光岳寺

光岳寺総門


 元々は小諸城足柄門でしたが、明治初年に光岳寺に移築されました。

 冠木門に切り妻の屋根を載せた、城門によく見られる高麗門形式の門です。






光岳寺2

光岳寺総門


 向嶽寺内から見た門で、正面の通りが北国街道となっています。




島崎藤村住居跡

島崎藤村旧居跡


 藤村は明治32年(1899年)から38年(1905年)までの6年間、小諸義塾の英語教師として小諸に赴任しました。

 明治32年4月に北海道函館の網問屋の三女、秦冬子と東京で結婚、この地に居を構え、三人の娘に恵まれました。






小諸駅前

小諸駅前


 昭和の香りを色濃く残す、ノスタルジックな建物が、駅前には並んでいます。






小諸医院

小諸病院


昭和9年頃に建てられた瀟洒な洋風の病院です。
 小諸は1988年に公開された「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」の舞台となった街で、その時の三田佳子演じるマドンナ役の女医が努める病院です。
 サラダ記念日は大ヒットした俵万智のエッセイに由来するもので、俵万智をモデルにした三田寛子の演じる早大生、由紀の叔母、原田真知子に寅次郎が一目惚れするという設定です。



 小諸城の起源は室町時代中期の長享元年(1487年)に大井光忠によって現在の小諸城の東側に築かれた鍋蓋城といわれています。
 その後、甲斐の武田信玄が信濃に侵攻し、天文23年(1554年)に東信濃経営の拠点として現在の地に築かれました。その縄張りを担ったのが信玄の軍師、山本勘助だったと言われています。
 信玄の甥、武田信豊が城主だったと言われていますが定かではありません。勝頼の時代には下曽根浄喜が城代を努めていましたが、天正10年(1582年)武田氏の滅亡の際、武田氏を裏切り小諸城に逃げてきた武田信豊を殺害しています。その浄喜も織田方に謀殺されました。
 武田氏滅亡後は、信濃佐久郡、小県郡、上野国は織田信長の重臣、滝川一益の領地となり、小諸城には道家正栄が城代として入りますが、6月の本能寺の変で信長が亡くなると、滝川一益、道家正栄は本領であった伊勢長島に逃げ戻り、小諸城は一時北条氏が占領するが、武田氏の旧臣だった依田信蕃(のぶしげ)が徳川方に付き、北条方に付いていた真田昌幸を味方に引きいれ、北条勢力を追い出し小諸城主となりました。依田信蕃は天正11年に戦死し、家康は信蕃の子、竹福丸に松平姓とと康の一字を諱として与え、松平康国と名乗らせ、大久保忠世を後見人に小諸城主として佐久平を納めさせました。
 天正18年の小田原征伐で、家康が関東に移封されると康国もそれに従い、小諸城は羽柴秀吉の家臣、仙石秀久が5万石で入城しました。秀久は小諸城を大改修し、石垣で要所を固めました。現在の小諸城は秀久の時代に築かれたものです。
 仙石秀久は美濃出身の武将で早くから秀吉の与力として活躍し、四国征伐の恩賞で讃岐高松10万石の大名になりましが、天正14年(1586年)の九州攻めで秀吉の命に反し兵を進めたために大敗を喫し、秀吉の怒りを買い所領は没収され浪人になります。しかし天正18年の小田原攻めに、徳川家康の口添えで陣借りをし、小田原城の虎口の一つを奪うなど大活躍をし、それが秀吉に認められ小諸城5万石の大名に復活しました。箱根の仙石原は仙石秀久の武勇から名付けられたと言われています。
 慶長5年の関ヶ原の合戦では恩義のある家康方に付き、中仙道を進む徳川秀忠率いる徳川本隊を小諸城に向かい入れ、二の丸に本陣を置きました。
 しかし真田昌幸、信繁(幸村)父子の籠もる上田城を攻めあぐね、秀忠本陣も奇襲に遭うなど大敗を喫し、兵を西に進めるも関ヶ原合戦に遅参するという失態となり、秀忠は家康に叱責されます。秀久は秀忠をかばい家康に対し弁明に努めました。
 秀久は慶長19年(1614年)に江戸から戻る途中、武蔵国鴻巣宿で病で亡くなり、秀久の子、忠政が遺領を相続します。元和8年(1622年)忠政が上田城に6万石で移封となるまで32年間、仙石氏が小諸城を預かりました。
 その後、小諸城は秀忠の子、忠長の甲府藩預かりとなり、さらに久松松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、大給松平氏と城主は変わりましたが、元禄15年(1702年)牧野康重が移封されると、以来明治維新まで10代にわたり牧野氏が小諸を納めました。






三の門

三の門


 小諸城祉、懐古園の正門です。

 元和元年(1615年)に建てられましたが、寛保2年(1742年)に洪水で流出。明和2年(1765年)に再建されました。

 城門としては珍しい寄せ棟造りの屋根を持ち、“懐古園”の扁額は徳川慶喜の後を継ぎ徳川宗家の当主となった徳川家達によるものです。






小諸城縄張り図

小諸城縄張り図


 小諸城の縄張りは、三の門を頂点とする東側に延びた三角形の台地の上に築かれました。西側が60~70メートルほどの崖となり、その西に千曲川が流れ、北側、および南側が二重、三重に谷が開け天然の要害となっています。
 三の門と本丸の東にある黒門との間に二の丸、南の丸、北の丸を配し、黒門との間に堀切を設け黒門橋で結ばれました。本丸は四方を石垣で固め、北西に張り出して天守台があり、三層の望楼式天守がありました。本丸を帯曲輪が囲み、馬場や厩、蔵がありました。 本丸、二の丸の南側に谷を挟んで細長い曲輪があり、米蔵などがありました。
 三の門の東側に堀を挟んで三の丸が築かれ大手門があり、その外側に城下町が配されました。





徴古館

徴古館


 三の門の南脇にある建物で、歴代小諸城主に関する資料が展示されています。






二の丸

二の丸


 慶長5年(1600年) 関ヶ原の合戦(この時は何処で合戦するかわかりませんでした)に参戦しようと、中仙道を進む徳川本隊を率いた徳川秀忠が、城主の仙石秀久に迎え入れられ、二の丸に本陣を置きました。





浅間山

二の丸より見る浅間山


 右側が浅間山、標高2493メートル。左側が黒斑山、標高2404メートル。

 小諸から見ると浅間山の方が奥にあるため、遠近法により同じような高さに見えます。





本丸への橋

黒門橋


 本丸の入り口にある橋で、当初は引き込みができる算盤橋だったようです。





本丸

本丸跡


 本丸には、最後に小諸藩主となった牧野氏を祀っています。

 明治13年(1880年)、旧小諸藩士によって、牧野氏の歴代藩主と、古くから城内にあった天満宮、火魂社を合祀し、本丸跡に建立されました。

 現在、懐古園の敷地は懐古神社の所有となっています。






本丸石垣

本丸西側


 突き当たりにあるのが天守台です。本丸は四方を野面積みの石垣で囲まれていました。






天守台

天守台


 天守台は高さ8メートル、15メートル四方(目測です)ほどの大きさで、本丸の北西に張り出す形で設けられ、三層の望楼式天守が仙石秀久によって築かれました。

 関東の徳川家康に対抗するためにか、軒瓦や鬼瓦、鯱には金箔が貼られた豪華な天守だったようです。金箔を貼った瓦は、同じく徳川に対して築かれた甲府城跡からも見つかっています。

 寛永3年(1626年)に落電で焼失し、以降再建されませんでした。





藤村記念館

藤村記念館


 本丸の北側にあり、小諸ゆかりの作家で詩人、島崎藤村を顕彰する記念館です。

 島崎藤村は明治32年(1899年)から38年(1905ね年)まで小諸義塾の教師として赴任していました。この時期に千曲川スケッチが書かれました。

 記念館には小諸時代に描かれた作品に関する資料などが展示されています。





本丸西側

本丸西側


 本丸の一段下を帯び曲輪が囲んでいて、西側には馬場がありました。





千曲川

千曲川


 小諸城の西側は高さ約60メートルから70メートルほどの崖になっていて、さらに西側を千曲川が流れていました。





水の手門跡

水の手不明御門跡


 小諸城の北西にある搦め手門です。

 不明御門(あかずのごもん)というから、日頃は使われず、有事の際に使われたのでしょう。





水の手展望台

水の手展望台


 水の手不明御門跡に展望台があります。対岸から見ると、その下はかなり高い崖になっていて、この城が天然の要害となっていることがわかります。





谷

南谷

 

 本丸の南側にある谷で、白鶴橋という吊り橋が架かっています。写真の左側が本丸、右側は細長い曲輪となり米蔵がありました。





動物園

動物園


 細長い曲輪は動物園となっています。

藤村記念館

藤村記念館


 甲府駅北口のすぐ横にある藤村記念館は、第五代山梨県令だった藤村紫朗を記念した建物です。
 藤村紫朗は弘化2年(1845年)肥後熊本藩士黒瀬家の次男として産まれ萱野家の養子となりました。尊皇攘夷運動に参加し脱藩し長州藩に走り、王政復古運動に参加。明治維新の際、藤村姓に改姓。大阪府参事を経て、明治6年(1873年)山梨県権令、明治7年に山梨県令となりました。明治19年(1886年)地方官制により山梨県知事となり、明治20年に愛媛県知事になるまで14年にわたり、山梨県政を担当しました。
 藤村紫朗が山梨県令時代、疑洋風建築を積極的に導入し、学校や役場などに多数採用され、現在も多数残っています。それらの建物は藤村様式建築と呼ばれました。

 長野県松本市の開智学校の建設にさいし、山梨県内の擬洋風建築を参考にしています。




藤村紫朗



 この藤村記念館の建物は明治8年(1875年)、旧睦沢村(現在の甲斐市亀沢)に建てられた睦沢学校の校舎でした。昭和32年まで校舎として使用され、その後、36年まで陸奥沢公民館として使用されました。
 その後、老朽化で取り壊される寸前、藤村様式旧陸奥沢学校校舎保存委員会により保存が決定し、武田神社境内に移築され、藤村記念館として甲府市に寄贈され、翌年に重要文化財に指定。昭和44年から民族・歴史・教育・考古資料を展示する資料館として開館しました。平成22年に甲府駅北口の現在の地に移築されました。




屋根

宝形造りの屋根と太鼓楼


 屋根は桟瓦葺きの宝形造りで、中央に太鼓楼と呼ばれる塔屋が載せてあります。






円柱

円柱と窓


 窓は両開きのガラス戸と鎧戸の二重扉。枠と上部のアーチは黒漆喰で造られています。
正面のベランダには礎盤に黒塗りの円柱が並び、特に車寄せの両脇の柱には、ギリシャ建築の円柱風に窪みが彫られています。





軒天井菱組

軒天井


 ベランダの軒天井は、菱組の透かし打ち天井となっています。





コーナーストーン

コーナーストーン


 外壁は漆喰塗りの日本壁ですが、角は西洋建築でよく見られるコーナーストーンをまね、黒漆喰の擬石隅積形となっています。




太鼓楼への階段

太鼓楼への階段




根津ピアノ

 根津ピアノ(左のピアノ)


 山梨県出身で東武鉄道などを経営した実業家、根津嘉一郎氏が昭和8年(1933年)に山梨県各地の小学校に寄贈したピアノです。
 昭和6年に浜松の日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)で製造されました。




藤村記念館内部教室

二階教室


 二階には当時の教室を再現していました。





武田信玄に関わる資料

武田家に関する資料


 郷土の英雄、武田信玄・武田家に関する資料が展示されていました。






花子とアン

花子とアン


 連続テレビ小説「花子とアン」の主人公、村岡花子は山梨県出身です。

 山梨県内でロケが行われていたそうです。

 一癖ある性格俳優、石橋蓮司が、花子の祖父役で朝ドラに出るとは思いませんでしたが、強く印象に残っています。





清水曲輪石垣

清水曲輪の石垣


 甲府駅北口多目的広場の整備にさきだち、平成21年に発掘調査が行われ、甲府城清水曲輪の遺構の一部が発見されました。

 石垣の一部が藤村記念館の西側に再現されています。