小諸城の起源は室町時代中期の長享元年(1487年)に大井光忠によって現在の小諸城の東側に築かれた鍋蓋城といわれています。
その後、甲斐の武田信玄が信濃に侵攻し、天文23年(1554年)に東信濃経営の拠点として現在の地に築かれました。その縄張りを担ったのが信玄の軍師、山本勘助だったと言われています。
信玄の甥、武田信豊が城主だったと言われていますが定かではありません。勝頼の時代には下曽根浄喜が城代を努めていましたが、天正10年(1582年)武田氏の滅亡の際、武田氏を裏切り小諸城に逃げてきた武田信豊を殺害しています。その浄喜も織田方に謀殺されました。
武田氏滅亡後は、信濃佐久郡、小県郡、上野国は織田信長の重臣、滝川一益の領地となり、小諸城には道家正栄が城代として入りますが、6月の本能寺の変で信長が亡くなると、滝川一益、道家正栄は本領であった伊勢長島に逃げ戻り、小諸城は一時北条氏が占領するが、武田氏の旧臣だった依田信蕃(のぶしげ)が徳川方に付き、北条方に付いていた真田昌幸を味方に引きいれ、北条勢力を追い出し小諸城主となりました。依田信蕃は天正11年に戦死し、家康は信蕃の子、竹福丸に松平姓とと康の一字を諱として与え、松平康国と名乗らせ、大久保忠世を後見人に小諸城主として佐久平を納めさせました。
天正18年の小田原征伐で、家康が関東に移封されると康国もそれに従い、小諸城は羽柴秀吉の家臣、仙石秀久が5万石で入城しました。秀久は小諸城を大改修し、石垣で要所を固めました。現在の小諸城は秀久の時代に築かれたものです。
仙石秀久は美濃出身の武将で早くから秀吉の与力として活躍し、四国征伐の恩賞で讃岐高松10万石の大名になりましが、天正14年(1586年)の九州攻めで秀吉の命に反し兵を進めたために大敗を喫し、秀吉の怒りを買い所領は没収され浪人になります。しかし天正18年の小田原攻めに、徳川家康の口添えで陣借りをし、小田原城の虎口の一つを奪うなど大活躍をし、それが秀吉に認められ小諸城5万石の大名に復活しました。箱根の仙石原は仙石秀久の武勇から名付けられたと言われています。
慶長5年の関ヶ原の合戦では恩義のある家康方に付き、中仙道を進む徳川秀忠率いる徳川本隊を小諸城に向かい入れ、二の丸に本陣を置きました。
しかし真田昌幸、信繁(幸村)父子の籠もる上田城を攻めあぐね、秀忠本陣も奇襲に遭うなど大敗を喫し、兵を西に進めるも関ヶ原合戦に遅参するという失態となり、秀忠は家康に叱責されます。秀久は秀忠をかばい家康に対し弁明に努めました。
秀久は慶長19年(1614年)に江戸から戻る途中、武蔵国鴻巣宿で病で亡くなり、秀久の子、忠政が遺領を相続します。元和8年(1622年)忠政が上田城に6万石で移封となるまで32年間、仙石氏が小諸城を預かりました。
その後、小諸城は秀忠の子、忠長の甲府藩預かりとなり、さらに久松松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、大給松平氏と城主は変わりましたが、元禄15年(1702年)牧野康重が移封されると、以来明治維新まで10代にわたり牧野氏が小諸を納めました。
三の門
小諸城祉、懐古園の正門です。
元和元年(1615年)に建てられましたが、寛保2年(1742年)に洪水で流出。明和2年(1765年)に再建されました。
城門としては珍しい寄せ棟造りの屋根を持ち、“懐古園”の扁額は徳川慶喜の後を継ぎ徳川宗家の当主となった徳川家達によるものです。
小諸城縄張り図
小諸城の縄張りは、三の門を頂点とする東側に延びた三角形の台地の上に築かれました。西側が60~70メートルほどの崖となり、その西に千曲川が流れ、北側、および南側が二重、三重に谷が開け天然の要害となっています。
三の門と本丸の東にある黒門との間に二の丸、南の丸、北の丸を配し、黒門との間に堀切を設け黒門橋で結ばれました。本丸は四方を石垣で固め、北西に張り出して天守台があり、三層の望楼式天守がありました。本丸を帯曲輪が囲み、馬場や厩、蔵がありました。 本丸、二の丸の南側に谷を挟んで細長い曲輪があり、米蔵などがありました。
三の門の東側に堀を挟んで三の丸が築かれ大手門があり、その外側に城下町が配されました。
徴古館
三の門の南脇にある建物で、歴代小諸城主に関する資料が展示されています。
二の丸
慶長5年(1600年) 関ヶ原の合戦(この時は何処で合戦するかわかりませんでした)に参戦しようと、中仙道を進む徳川本隊を率いた徳川秀忠が、城主の仙石秀久に迎え入れられ、二の丸に本陣を置きました。
二の丸より見る浅間山
右側が浅間山、標高2493メートル。左側が黒斑山、標高2404メートル。
小諸から見ると浅間山の方が奥にあるため、遠近法により同じような高さに見えます。
黒門橋
本丸の入り口にある橋で、当初は引き込みができる算盤橋だったようです。
本丸跡
本丸には、最後に小諸藩主となった牧野氏を祀っています。
明治13年(1880年)、旧小諸藩士によって、牧野氏の歴代藩主と、古くから城内にあった天満宮、火魂社を合祀し、本丸跡に建立されました。
現在、懐古園の敷地は懐古神社の所有となっています。
本丸西側
突き当たりにあるのが天守台です。本丸は四方を野面積みの石垣で囲まれていました。
天守台
天守台は高さ8メートル、15メートル四方(目測です)ほどの大きさで、本丸の北西に張り出す形で設けられ、三層の望楼式天守が仙石秀久によって築かれました。
関東の徳川家康に対抗するためにか、軒瓦や鬼瓦、鯱には金箔が貼られた豪華な天守だったようです。金箔を貼った瓦は、同じく徳川に対して築かれた甲府城跡からも見つかっています。
寛永3年(1626年)に落電で焼失し、以降再建されませんでした。
藤村記念館
本丸の北側にあり、小諸ゆかりの作家で詩人、島崎藤村を顕彰する記念館です。
島崎藤村は明治32年(1899年)から38年(1905ね年)まで小諸義塾の教師として赴任していました。この時期に千曲川スケッチが書かれました。
記念館には小諸時代に描かれた作品に関する資料などが展示されています。
本丸西側
本丸の一段下を帯び曲輪が囲んでいて、西側には馬場がありました。
千曲川
小諸城の西側は高さ約60メートルから70メートルほどの崖になっていて、さらに西側を千曲川が流れていました。
水の手不明御門跡
小諸城の北西にある搦め手門です。
不明御門(あかずのごもん)というから、日頃は使われず、有事の際に使われたのでしょう。
水の手展望台
水の手不明御門跡に展望台があります。対岸から見ると、その下はかなり高い崖になっていて、この城が天然の要害となっていることがわかります。
南谷
本丸の南側にある谷で、白鶴橋という吊り橋が架かっています。写真の左側が本丸、右側は細長い曲輪となり米蔵がありました。
動物園
細長い曲輪は動物園となっています。