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納戸一ノ間床の間

対面所納戸一之間


 対面所上段之間、次之間の裏に納戸一之間、二之間が並んでいます。

 納戸一之間には床の間があります。床脇の違い棚や付け書院はないので、簡略化されたものになりますが、身分の高い人の控えの間に使用されたのでしょう。



納戸一ノ間

対面所納戸一之間


 対面所上段之間、次之間と納戸一之間、二之間の間は襖ではなく壁となっていて、障壁画が描かれています。






下御膳所見取り図

下御膳所見取り図


 対面所の東側に下御膳所があります。

 下御膳所には囲炉裏があり、料理の配膳や温め直しに使われたと言われています。

 表書院や対面所の近くにあり、料理を出すのに便利な場所に位置しています。



長囲炉裏

長囲炉裏


 ここで料理を温め直しました。




下御膳所天井

下御膳所天井


 長囲炉裏の真上に、囲炉裏で焚かれた炭の煙などを輩出するための煙出しが切られています。





台所

台所


 本丸御殿の一番北側にあります。

 屋根が一部めくれた感じで浮いているのは煙出しのためで、二条城二の丸御殿の御清所(料理の間)などにも見られます。

 本丸御殿の中ではここだけが本瓦葺きとなっています。火を使うために防火の必要がありました。




対面書下御膳所外観

対面所、下御膳所外観


 北側から見たところで、右が対面所、左が下御膳所になります。

 創建当初の様式で再建されたために、屋根は薄い木の板を何枚も重ね合わせた杮葺きの入母屋造りです。

 後に防火のために桟瓦葺きに葺き替えられました。





下御膳所妻側

下御膳所妻側


 下御膳所を妻側から見たところで、木連格子が嵌め込まれています。

 古写真ではやはり防火のために白漆喰で塗り込まれています。

 尾張藩では本丸の天守や御殿は、将軍からの預かり物としての意識が強く、防火には細心の注意が払われました。





天守より見る本丸御殿

天守から見た本丸御殿


 覆いは徐々に取れて、表書院や下御膳所、対面所の半分、台所が姿を現しました。

 現在覆いの下では上洛傳の再建工事が進められています。全て完成するのは二年後の2018年になります。





二条城二の丸御殿

二条城二の丸御殿


 こちらは二条城の二の丸御殿です。左から大広間、式台、遠侍です。

 名古屋城の本丸御殿と比較してみるのも面白いと思いますが、やはりこちらは将軍の城らしく、一回り規模が大きいです。




二条城二の丸御殿大広間

二条城大広間一之間


 二条城の二の丸御殿は寛永三年(1626年)の後水尾天皇の御幸のために立て直されました。名古屋城本丸御殿が建てられた10年余り後になります。

 その間に大坂の陣があり、江戸幕府の権威が確立されました。

 天井は最も格式の高い二重折り上げ格天井。長押のの上まで松が描かれています。

 名古屋城の場合は、表書院、対面所も長押の上は白壁のままです。

 寛永11年(1634年)の徳川家光上洛の際、宿舎として建てられた上洛殿は、長押の上まで障壁画が描かれていました。

 

本丸御殿玄関車寄せ

名古屋城本丸御殿


 6月1日から名古屋城本丸御殿の第二期工事部分、対面所、下御膳所が公開され、見学してきました。

 上の写真は玄関部分、唐破風の式台。左が表書院です。屋根は薄い板を重ねた杮(こけら)葺となっています。






本丸御殿公開部

本丸御殿公開部分見取り図


 右下から玄関、表書院、対面所が左上に向けて雁行状に並んでいます。対面所の北側に台所、右に料理などを温める下御膳所があります。

 対面所の左側に上洛殿がくることになりますが、こちらはまだ工事中です。

 上洛殿は寛永11年(1634年)、三代将軍徳川家光が上洛する際、宿泊に使われた殿舎で、本丸御殿の中で最も豪華な殿舎です。





対面所

対面所内部


 対面所は藩主と、家族、または家臣との内向きの対面、宴会に使用されました。

 玄関や表書院同様、元和元年(1615年)頃までに完成したと言われています。




対面所見取り図

対面所見取り図


 表書院に比べてやや小さい殿舎です。

 南側に対面所上段之間、次之間。北側に納戸一之間、ニ之間が配置されています。





対面所一の間二重折り上げ格天井

上段之間天井


 対面所の天井は黒漆塗りの二重折り上げ小組格天井となっています。

 格天井とは格縁と呼ばれる部材で正方形の格子を造り、その中に小組と呼ばれる小さな格子を組み込んでいます。

 対面所上段之間は、藩主が座る場所の天井がさらに一段高くなっている、二重折り上げ格天井と呼ばれる最も格式の高い天井です。


 



亀の尾

亀の尾(支輪)


 格天井の縁の曲げ物の部材を「亀の尾(支輪)」と呼びます。

 亀の尾によって折り上げられ、折り上げ格天井と呼ばれました。





対面所天井

次之間天井


 上段之間と同じく黒漆塗りの小組格天井ですが、一段しかない折り上げ格天井となっています。






大広間

表書院天井


 こちらは表書院の天井です。こちらは格縁は素木で、格子の中に素木の小組が入っています。

 亀の尾が一段しかない折り上げ小組格天井となっています。





対面所襖絵説明


対面所襖絵説明2

対面所、襖絵などの説明


 対面所上段之間には愛宕山、上賀茂神社、吉田神社など、京都の名所が描かれ、次之間には紀三井寺、玉津島神社、和歌浦天満宮、和歌山城下の賑わいなどが描かれています。

 初代尾張藩主、徳川義直の正妻、春姫は、和歌山藩主、浅野幸長の娘で、生まれ育った和歌山の風景が描かれています。




対面所帳台構え

上段之間帳台構え


 帳台構えは、いざという時に、武者を隠しておいたり、逃げ込む設備です。

 しかし裏の納戸にはそれらしい引き戸がないので、ダミーということになります。

 




対面所ニの間襖絵

次之間


 次之間北側には、和歌浦天満宮や、和歌浦での塩造りなどの風俗が描かれています。




 


対面所付け書院欄間

付け書院欄間


 付け書院の欄間には緻密な組子細工が填め込まれています。





天守台

小浜城天守台


 小浜城は若狭国若狭湾に流れ込む北川と南川の間にある三角州に築かれた城で、完成まで40年近くかかりました。
 築城工事を始めたのは関ヶ原の合戦の際、大津城を守り、西軍を釘付けした恩賞で若狭国を与えられた京極高次でした。工事は慶長6年(1601年)から始まりましたが、築城普請は長期にわたり、京極氏の時代には完成を見ませんでした。
 高次の後を継いだ高忠は寛永11年(1636年)に出雲国松江藩に加増転封され、代わりに譜代大名の酒井忠勝が武蔵国川越藩より入封し、小浜城の築城工事を再開し、翌年三層の天守が完成。そして寛永19年(1641年)にようやく完成しました。




小浜神社一

小浜神社


  現在小浜城跡には、寛永11年(1636年)より明治維新まで約230年あまりにわたり小浜藩を支配した酒井氏の初代、酒井忠勝を祀る小浜神社が鎮座しています。
 明治8年(1875年)に旧小浜藩士らにより建立されました。




小浜神社二

小浜神社本殿



酒井忠勝


 酒井忠勝は天正15年(1587年)、酒井忠利の子として三河国西尾で産まれました。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦に向かう徳川秀忠軍を真田昌幸、信繁父子が上田城に釘付けにし、本戦に遅延させた上田合戦で初陣を飾りました。
 元和6年(1620年)に二代将軍秀忠の命で世継ぎの家光に仕えることになり、家光から厚く信頼され、家光が三代将軍になった寛永元年(1624年)に老中となり、寛永4年(1627年)に父忠利の遺領を引き継ぎ、武蔵国川越藩十万石の大名となりました。 寛永11年(1636年)に川越藩から小浜藩11万3500石に加増。家光から一代限りの国持ち大名と任じられました(譜代大名としては国持ち大名は唯一の例)。
 寛永15年(1638年)より土井利勝と共に大老職となり、事実上の幕閣の最上位に付きました。
 慶安4年(1651年)に家光が亡くなると、後を継いだまだ幼い四代将軍家綱を保科正之、知恵伊豆と呼ばれた老中松平信綱と共に補佐し、由井正雪の乱など難局を乗り越えます。
 明暦2年(1656年)に家督を忠直に譲り隠居、寛文2年(1662年)に76歳で亡くなりました。



酒井氏


 酒井氏は松平(徳川)氏と祖先を同じにする、譜代大名としては名門の家です。
 松平氏の祖である松平親氏は徳阿弥という放浪の僧でしたが、松平郷の領主、松平信重の婿養子となり、松平家となります。その前に碧海郡酒井村の領主の娘を娶り、子供を造ります。それが酒井氏の始祖となる広親です。広親には氏忠と家忠の二人の息子がおり氏忠の家系が左衛門尉家であり、徳川四天王の一人、酒井忠次ぐはこの家系から出ていて、山形県の庄内藩主となります。
 家忠の家系が雅楽頭家で、徳川家康の重臣、酒井正親が出ており、正親の次男、重忠の子孫が上野国前橋藩、後に姫路藩十五万石の藩主となり、三男、忠利の子が小浜藩主となる忠勝となり、両家から大老を輩出しています。





小浜城縄張り図

小浜城縄張り図


 小浜城は小浜市を東西に流れる、北川と南川に挟まれた三角州に築かれました。
 城域は東西156間(284メートル)、南北145間(264メートル)総面積は外堀を除き、15937坪(62492平方メートル)
 本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、西の丸が囲む縄張りとなっています。
 本丸は3130坪(10329平方メートル)、内堀3755坪。
 本丸の南に藩主家族の住む二の丸があり、広さは2249坪(7422平方メートル) 東側の三の丸は兵糧米や武器を収める蔵、大手門があり、広さは3806坪(12560平方メートル)
 北の丸は2584坪(8527平方メートル)、西の丸は3413坪(11263平方メートル)ありました。
 軟弱な地盤に築かれた城らしく、図を見ると本丸の周囲に犬走りを廻らせ、その上に石垣が築かれています。




天守台風景

天守台より見る風景


 天守台は15メートル四方の広さがあり、高さは約8メートルほど。

 この上に三層の天守が立っていました。





天守台横

小天守台


 天守台の北側に、小天守台があります。





本丸西側石垣

天守台より見る小天守台




本丸南側石垣

本丸南側石垣


 本丸は東側の石垣が取り払われましたが、南、西、北側の三方の石垣は残り、往時を偲ぶことができます。






本丸西側

本丸西側石垣


 西側の石垣は、自然石を多用した野面積みとなっています。





西御門

埋め門跡


 西の丸側に開かれた埋め門形式の門がありました。西の丸を結ぶ橋が極楽橋。秀吉の大坂城本丸搦め手にもある橋の名前で、豊臣系大名の京極氏時代に名付けられたのでしょう。




算木積み

埋め門跡の算木済み


 隅石は長方形の石を交互に積んだ算木積みとなっています。

 石を割る際、掘った孔が残っています。



西櫓台

西櫓台


 埋め門を守る櫓が建っていました。




搦め手口石垣

北側御門跡


 本丸の南が外枡形、北側が内枡形のもんがありました。

 外側の石垣が取り払われたために、石段だけが不自然に残っています。




搦め手口石垣隅

北側御門跡


 打ち込みはぎの石垣が残っています。




北石垣上

小浜城北側の風景


 小浜城北側には北川が流れていました。現在は治水のため分流し、手前が多田川、その奥が北川となっています。





八介稲荷

八助稲荷大明神


 境内の片隅に八助稲荷大明神のお社があります。

 酒井忠勝公の時代、八助という仲間(ちゅうげん)がおり、小浜と江戸の間を、15日かかるところを、わずか6日で公用の文箱を運び、人々は感心すると共に不思議に思いました。

 ある日、小田原で犬に噛み殺された白狐が見つかり、その狐は酒井公の家紋の入った文箱を首につけられていました。

 その話は小浜にも伝わりました。その数日前から弥助の姿を見かけなくなりました。

 これはきっと稲荷大明神が信仰の篤い忠勝公の御治政を、八助の姿に変えた白狐を遣わし助け給たものと思い、それ以来、八助稲荷明神と名付け、お参りするようになったのが、八助稲荷の由来です。

 元々は北の丸にありましたが、明治維新後、この地に移されました。