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大溝市街地図

大溝市街図


 大溝は古くから京都と日本海を結ぶ交通の要衝として発展してきました。

 江戸時代以前は、琵琶湖水運が物資輸送中心であり、大溝港は琵琶湖西岸の有力な港で、ここで水揚げされた物資は若狭の小浜に運ばれ、北前船で日本海各地に運ばれました。

 しかし明治以降、琵琶湖東岸に東海道本線が敷設されると、こちらが物資輸送の中心となり、次第に廃れていきました。





旧道

旧国道161号線


 大溝の町のメインストリートで、旧国道161号線になります。

 通りには銀行や信用組合、農協、商工会議所などがあり、その中で造り酒屋などといった古い建物が見受けられます。

 本町筋と呼ばれ、通りには今市本町、新庄本町、南市本町といった町名が見受けられます。





造り酒屋

造り酒屋


 福井弥平商店という造り酒屋で、江戸時代中期の寛延年間(1748年~1751年)創業の老舗です。

 勝野(この辺り一帯の古い地名。壬申の乱で勝利した大海人皇子が勝ち鬨を上げたことに由来します)の浜に群生する萩のに因んで萩乃露という清酒を醸造しています。





うどん店

うどん店


 街道沿いの古い商家を改装してうどん店などが営業していました。

 両側に卯建の袖壁を持つ、間口の広い厨子二階建てのどっしりとした建物です。



 

うどん店内

うどん店内


 市松模様の襖が印象的な、和モダン風の洒落た店内です。





キャンドル工房

キャンドル工房


 古い建物を利用した、キャンドル、染色工房があり、製作体験ができます。

 かつて、本町筋の南側には蝋燭町があり、蝋燭の製造販売する店が何軒かありました。

 江戸時代は蝋燭はたいへん高価なもので、一般庶民は菜種油などを使った灯明を使用していました。

 



妙琳寺

妙琳寺


 本町筋の奥まったところに古い寺があります。





旧街道

新町筋


 本町筋の北側に、筋違いで新町が開かれ、風情のある町並みが見られます。

 今市新町、新庄新町という町名が見受けられます。





十四軒町

十四軒町


 本町筋から西に入いる通りが十四軒町で、かつて商家が十四軒並んでいたことに由来します。





旧小野組邸宅跡

小野組総本家の宅地跡


  小野組は江戸時代初期、大溝で小野善助が創業し、井筒屋の屋号で知られる豪商です。大溝を拠点に奥羽地方に進出。京都や大阪など上方の産物と、日本海を渡り遠く奥羽地方の産物の交易で莫大な利益を得ました。
 岩手県の盛岡藩や八戸藩では御用商人となり、1776年(安永5年)幕府の「金銀御為替御用達」となり十人組に加入し、江戸時代の有力な商人へと発展します。
 明治維新では明治政府に協力し、資金を提供。三井組や島田組と共に明治政府の有力な政商となり、維新後は製糸業や鉱山業で財を成し、三井組を凌ぐほどの勢力でした。
 明治5年(1872年)に部沢栄一の仲介で、三井組と共同で三井小野組合銀行を設立。後の第一国立銀行になります。しかし明治7年に小野組は破綻しました。
 経営破綻の理由として、経営の近代化に遅れた。明治政府の急激な金融法の変化について行けなかった。京都から東京へ転籍をしようとするが、長州藩出身の京都府権大参事に反対され対立。これが長州閥出身の有力者の恨みを買ったなどの理由があったと言われます。
 小野組の破綻により第一国立銀行は経営危機に立たされますが、渋沢栄一を頭取に置き、250万円の資本金を150万円に減資するなどして、危機を乗り越え、第一銀行になり、後の第一勧業銀行、現在のみずほ銀行へと繋がっていきます。
 余談ですが古河財閥の古河市兵衛は、豆腐の行商をしていましたが、京都の小野組番頭、古河太郎左衛門の養子となり、市兵衛も番頭を継ぎました。
 小野組破綻の際は小野組の資産や資材を売却し第一国立銀行の連鎖倒産を食い止めることに尽力しました。小野組破綻後は独立し、鉱山業に進出し古河財閥を形成します。その協力者として渋沢栄一がいまし




勝安寺

勝安寺


 十四軒町の突き当たりにある寺です。





古い町並み

中町筋


 本町筋の西側にあり、今市中町、新庄中町、南市中町などの町名が見受けられます。

 通りの中央を水路が流れ、趣のある町並みを見ることができます。





鮒寿司屋

鮒寿司屋


 鮒寿司は琵琶湖で捕れる鮒を素材としたなれ寿司で、食べたことはありませんが、独特の臭いがすることで知られています。





西町

西町


 中街筋の一本西側の筋で、奥の方は伊勢町です。中町筋同様、真ん中に水路が流れています。






石垣町  

石垣町


 石垣町は、中世、音羽荘の街の一つで、石垣山の麓に有ったと言われています。

 江戸時代初期の分部氏入部の際、この地に移転しました。

 4筋ある大溝の街の中では一番長さが短い街です。





大溝城跡

大溝城祉


 琵琶湖の西岸、高島郡にある大溝城は、織田信長の甥(信長の弟、信行の長男)津田信澄により天正6年(1578年)に築城されました。縄張りは信澄の舅の明智光秀と言われています。

 信澄は弘治元年(1555年)頃に産まれたと言われています。
 弘治2年、父の信行が、織田家の重臣、林秀禎、信行の家老、柴田勝家と共に信長と対立、庄内川の河畔、稲生ヶ原で合戦となり大敗を喫します。信長、信行の母、土田御前の取りなしで赦されますが、翌弘治3年に信行は再び信長に反旗をひるがえし、岩倉の織田信安と計らい篠木三郷の横領を画策しましたが、柴田勝家の通報で発覚しました。
 信長は病を装い、末盛城の信行に見舞いに来るように命じ、清洲城に見舞いに来た信行を北櫓に幽閉し暗殺しました。
 信行の遺児、信澄を信長は許し、柴田勝家の元で養育されました。信長を憚り津田姓を名乗りました。元服し信長の元に出仕し頭角を現し、明智光秀の娘を娶りました。
 天正10年(1582年)、明智光秀が本能寺で信長を討つ本能寺の変が勃発。その頃信澄は四国征伐のため大坂城にいました。信澄は光秀の娘婿であったため、信長の三男、信孝は、信澄が光秀に内通しているのではと疑い、大坂城を攻撃しました。そして信澄は大坂城千貫櫓で自害しました。




大坂城千貫櫓

大坂城千貫櫓


 大阪城西の丸にあり大手門を守るための櫓です。

 信長の甥、信澄は、本能寺の変後、信孝に攻められ千貫櫓で自害しました。

 千貫櫓は大坂城が石山本願寺の頃からあったと言われ、大坂夏の陣後、徳川幕府により再建されましたが、千貫櫓の名前は受け継がれました。



 大坂城千貫櫓で自害した信澄には昌澄という子がいましたが、かつて信澄に仕えていた藤堂高虎に仕官し文禄の役に出陣します。その後藤堂家を離れ豊臣家に仕え、大坂の陣で活躍しますが、夏の陣で豊臣家が滅びると徳川家康の元に出頭します。高虎の計らいで家康から赦されました。
 元和4年(1618年)に徳川秀忠に出仕し、旗本として近江国甲賀郡その他に2000石の所領が与えられました。
 昌澄は天正7年(1579年)に産まれ、母は明智光秀の娘。本能寺の変の直後に、大坂城千貫櫓で信澄が自害した時はわずか三歳でした。父と同じく数奇な運命を辿りましたが、秀忠に仕え旗本になってから人生が安定し、家督を次男信高に譲り、寛永18年(1641年)に63歳で亡くなりました。





大溝城祉

大溝城天守台


 天守台の石垣のみが、大溝城の遺構として残っています。




大溝城三の丸

大溝城三の丸


 三の丸には現在、分部神社や高島総合病院が建っています。




乙女ヶ池

乙女ヶ池


 大溝城は琵琶湖の内湖である乙女ヶ池を天然の堀として巧みに取り入れ、築城されました。





大溝陣屋総門

大溝陣屋総門


 大溝には元和5年(1619年)に伊勢国上野より分部光信が二万石で入封し、かつての大溝城の北西に大溝陣屋を築き、明治維新まで約250年余り大溝藩を支配しました。



大溝城図

大溝城(陣屋)図


 右側が大溝城になります。大溝陣屋は大溝城の三の丸を取り入れ、大溝城の西側に築かれ、西側に武家屋敷が設けられました。


 


大溝港

大溝港


 大溝城の北側にある港で、琵琶湖水運の要衝として発展しました。





大溝陣屋図

大溝陣屋付近図


 大溝陣屋は東西に長く、東西約450メートル、南北約150メートルほどあります。

 陣屋の北側に城下町が開かれました。





大溝陣屋前通り  

陣屋北側の通り


 右側が大溝陣屋になり、左側が城下町になります。





二ノ丸御殿図

二ノ丸御殿図


 戦国大名である徳川家康は、実戦に基づき名古屋城を築城しました。その際最後の砦となる本丸は籠城を考え、小さめに造られました。
 名古屋城の本丸は内堀の外縁が105間(約190メートル)四方、面積1万1000坪余り。郭内の平地面積が約3782坪あり、中小大名なら十分な広さがありました。玄関、表書院、対面所の北側に、藩主の生活する御座所、藩主夫人の住む広間や奥女中の生活する長局がありましたが、61万石の大名の御殿としては手狭でした。そこで東に隣接する二の丸に御殿を造営し、本丸御殿は将軍が上洛する際の宿舎に当てられました。
 二の丸は徳川家康の重臣で、義直の付家老であった犬山藩主、平岩親吉の屋敷があり、ここで尾張藩の経営にあたりました。しかし慶長16年に親吉は病に倒れ亡くなると、親吉には嗣子がいなかったために平岩家は改易となり、同じく付家老の成瀬正成が新たに犬山藩主となり、二の丸の屋敷は尾張藩に返され、慶長17年に徳川家康が来城した際に御座所が建てられました。
 二ノ丸御殿の工事は元和3年(1617年)から行われ、元和6年(1620年)にはほぼ完成し、義直は本丸御殿から移りました。
 二ノ丸の広さは2万6555坪と、本丸と御深井丸、西の丸を合わせたほどの広さがあり、藩の政庁である表御殿の北側に、藩主の生活する中奥があり、さらに東側には藩主夫人の御殿のである御内証(大奥)があり、江戸城を除けば最大級の御殿でした。
 表御殿、中奥には本丸御殿にはなかった能舞台が設けられ、御内証には広大な長局があり、二ノ丸御殿の北側には庭園が造営されました。尾張藩では二ノ丸を御城と呼びました。




名古屋城縄張り図

名古屋城縄張り図


 名古屋城の縄張りは本丸を中心に北西に御深井丸、南西に西の丸、東に二ノ丸が置かれ、西と北側には御深井大堀と言われる水堀に守られ、南および東を三の丸に囲まれていました。
 本丸は内堀も合わせて約190メートル四方ありますが、それに比べて二ノ丸の大きさがわかります。
 特に本丸は厳重に造られ、南の表枡形門の外には大手馬出し、東の枡形門の外には搦め手馬出しが置かれ、本丸の北西に五層の大天守、他の三隅に二層三重の隅櫓が置かれ、その間を多門櫓でつながれていました。
 直線を多用し、後の実戦を経験していない机上の空論だけの軍学者には評判が悪いようでしたが、関ヶ原合戦の前哨戦で大津城が大砲により落城したことを検証し縄張りされたものです。

 全国各地に実戦に基づいた城が築城された慶長期の最後を飾る城郭と言えるでしょう。





那古野城跡

那古野城跡の碑


 二ノ丸は名古屋城の前身である那古野城跡に築かれました。那古野城は尾張に進出した今川氏により築かれ、今川義元の弟、氏豊が城主でしたが、織田信長の父、信秀に攻められ落城し、以降織田氏の城郭となりました。信長はこの城で産まれたという説がありますが定かではありません。

 信秀はまだ幼い信長を那古野城の城主に置き、信長は弘治元年(1555年)に清洲城を攻め手に入れると、清洲城に移り、以降信長の叔父の織田信光が城主となります。信光が死ぬと信長の家老の林秀禎が城代となりますが、天正8年1580年)に秀禎が追放され那古野城は廃城となりました。





二の丸広場

二ノ丸西側


 正面の櫓は本丸南西櫓です。

 この辺りに尾張藩の政庁である二ノ丸御殿の表御殿や、藩主が生活する中奥がありました。





二の丸庭園

二の丸庭園


 二ノ丸御殿の北側には、尾張藩領である木曽の寝覚ノ床を模した二の丸庭園がありました。

 

 




権現山

権現山


 二の丸庭園の北側には、西に栄螺山、東に権現山という築山があります。

 権現山の頂には、秋葉、稲荷神社の祠がありました。それ以前は熊野権現、愛宕権現の祠があったようで権現山と名付けられました。





二ノ丸

二ノ丸東側


 二ノ丸の東には御内証(大奥)がありました。

 広大な二ノ丸御殿も、明治維新後破却され、陸軍が接収し名古屋鎮台の司令部や兵舎が建てられました。名古屋鎮台は第六連隊に名を変え、終戦まで二ノ丸に置かれました。

 戦後は第六連隊の兵舎は、名古屋大学の校舎に転用されました。昭和39年頃まで名古屋大学が使用し、その後は競売にかけられ解体され、引き取られていきました。





二ノ丸南園

南池


 二ノ丸東庭園の中心には南池という大きな池があり、その周辺に茶席が設けられました。






排水溝  

北暗渠遺構


 雨などの排水はこの暗渠を通り、北側の御深井堀に流しました。





埋め門

二ノ丸埋門


 左が搦め手馬出しの石垣、奥が御深井堀です。

 わかりにくいですが黒い楕円で囲ったところが、二ノ丸の埋門になります。

 有事の際に、藩主はこの埋門から脱出し、御深井堀を渡り、土居下同心(三の丸の北側には大きな土居があり、その外側に住んでいたことから土居下同心と呼ばれました)に守られて木曽に落ち延びる手はずになっていました。