甲府城 その一 | にっくんのブログ

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甲府城模型

甲府城模型




甲府城の歴史


 天正十年(1582年)に武田氏が滅びると、甲斐国は織田信長の所領となり、信長の重臣、河尻秀隆が入りますが、織田信長が本能寺の変で明智光秀に倒されると、旧武田領各地で反乱が起こり、河尻秀隆は殺害されます。
 その後甲斐は徳川家康が支配することとなり、天正11年(1583年)に家臣の平岩親吉が躑躅ヶ崎館の南側、古府中の入り口に当たる一条小山に縄張りを氏、築城を開始しました。
 その後、天正17年の小田原攻めの後、徳川家康は北条氏の旧領である関東に移封され、天正18年に甲斐は信長の四男で羽柴秀吉の養子、羽柴秀勝の所領となります。秀勝は翌年に美濃に移封され、甲斐には加藤光泰が入ります。 光泰は甲府城築城を進めますが、秀吉の朝鮮出兵(文禄役)に出陣。文禄2年(1592年)に西平浦の陣中で病死しました。
 加藤光泰の嫡子、貞泰ははまだ十四歳と若すぎるために、美濃国黒野に移封となり、甲斐国には秀吉の重臣、浅野長政、幸長父子が入りました。甲斐国は関東に移封された徳川家康を押さえるための重要な地であり、実力のある人物を入れる必要がありました。五奉行の一人、浅野長政はそれにふさわしい人物でした。甲府城は浅野時代に完成したと言われています。
 関ヶ原の合戦では、浅野幸長は徳川方に与し、その恩賞で紀伊和歌山藩37万石に加増され、その後安芸広島藩へと移りました。
 甲斐国は徳川家の所領となり、慶長8年(1603年)には徳川家康の9男、義直に与えられました。しかし義直はまだ三歳と幼く、実際に納めたのは守役の平岩親吉でした。
 慶長12年(1607年)に義直は尾張国清洲へと移封となり、甲府城は武田氏の家臣であった武川衆(武川十二騎)の甲府城番制となりました。
 その後、徳川秀忠の次男で、駿府城主の忠長の所領となり、城代が置かれますが、寛永9年(1632年)の忠長の改易後は再び甲府城番制となりました。
 寛文元年(1661年)徳川家光の三男綱重に甲斐国が与えられ甲府城主となります。 綱重の嫡子、綱豊は宝永元年(1704年)に五代将軍、綱吉の養子となり、江戸城に入り、家宣となり、後に六代将軍になりました。
 宝永2年(1705年)に甲府城は武川衆の流れをくみ、徳川綱吉の側用人から大老にまで上り詰めた柳沢吉保に与えられました。
 享保9年(1724年)に吉保の子の吉里は大和国郡山に移封となり、以後甲斐国は幕府の直轄領となり、甲府城には甲府勤番が置かれ、幕末の慶応2年(1866年)に勤番性は廃止され城代が置かれました。



甲府城古地図

甲府所古地図


 甲府城の内郭は水堀に囲まれ、広さは約20ヘクタールありました。

 本丸を中心に南に鍛冶曲輪、天守曲輪、北に稲荷曲輪、東に数寄屋曲輪、西に二丸が置かれ、さらに西側に屋形曲輪、楽屋曲輪があり、それぞれに御殿があり、屋形曲輪の北側に清水曲輪がありました。

 上の古地図は柳沢時代のものですが、親藩時代は城代が納めていましたが、柳沢時代は実際に藩主が在城し、御殿の新築、石垣の回収、城下町の整備が進み、甲府城と城下町の最盛期を迎えました。





水堀

南側水堀


 現在、甲府城は広さ約6.2ヘクタールの舞鶴公園として整備され、南側のみに水堀が残っています。





南より見る甲府城

南側より見る甲府城


 甲府城は一条小山と呼ばれる高さ30メートルほどの山に築かれました。一条小山には古くから甲斐一条氏の屋形があったと言われます。

 甲府城は豊臣秀吉の重臣である浅野長政、幸長父子により近世城郭となりましたが、豊臣系の城郭らしく、一二三段式の石垣で固めた平山城となっています。





天守台

天守台


 本丸東側に天守台があります。平面は安土城のようにいびつな形をしています。

 実際には天守は建てられなかったようですが、もし建てたとしたら、五層の天守は建てられる広さはあります。




天守台穴蔵

天守穴蔵


 天守台には穴蔵があります。深さは約2間ほどあります。





天守台より見る富士山

天守台より見る富士山


 南側に富士山がを見ることができました。

 個人的ですが、山梨県から見る初めての富士山です。





天守台より見る南方面

天守台より見る鍛冶曲輪。


 こうしてみると、かなりの高さがあります。





天守台より見る本丸

天守台より見る本丸


 天守台の西側に本丸があります。古図を見ると小規模な殿舎が建っていました。





石垣石段

石垣と石段


 稲荷曲輪内部の石垣で、高さは約二間(3.6メートル)ほどあります。

 石段はかなり急ですが、整備されていました。





城塀

城塀


 稲荷曲輪には城塀が再現されていますが、桟瓦葺き(一般に使われている瓦)で、控え柱のない塀になっています。





城塀二

城塀


 こちらは数寄屋曲輪の城塀です。丸瓦と平瓦を組み合わせた本瓦葺きで、控え柱のある本格的な女塀を再現しています。





鉄門

鉄門


 本丸の南側にある二階建ての櫓門で、明治の初め頃までありました。

 2013年に資料を基に伝統工法で復元しました。




鉄門内部

鉄門内部


 梁間3間、桁行7間、広さは約20坪あります。

 梁材に太い丸太が使われています。

 本瓦葺きの思い屋根を支えるには、これだけの材木が必要となります。





鉄門図

鉄門 南立面図


 鉄門の高さは9,653メートルあり、一階の内側には番所が設けられていました。





稲荷曲輪門

稲荷曲輪門


 鍛冶曲輪と稲荷曲輪を結ぶ高麗門です。

 1999年に復元されました。

 甲府城では1990年より舞鶴城公園整備事業に着手。鍛冶曲輪門、内松陰門、稲荷曲輪門、稲荷櫓、鉄門を復元しました。