躑躅ヶ崎館(武田神社) その二 | にっくんのブログ

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西曲輪南虎口

西曲輪


 中曲輪の西にある西曲輪は四方を堀で囲まれた独立した曲輪で、広さは本曲輪の半分ほどの広さです。
 西曲輪には晴信(信玄)の嫡子、義信夫婦が住んでいたと言われます.義信は天文七年(1538年)に産まれ、母は晴信の正妻、三条の方。北条、今川との三国同盟で、今川義元の娘嶺松院と結婚します。優れた武将のようでしたが、信玄と対立し永禄8年(1565年)に晴信暗殺を企て発覚、古府中東光寺に幽閉。そして永禄10年(1567年)に自害しました。享年三十歳でした。
 信玄と正妻、三条の方との間には、義信の他、二人の男子がいましたが、次男信親は盲目で海野氏の養子、そして出家して竜芳を名乗りました。三男信之は幼くして亡くなり、武田家は諏訪御料人との間に出来た四男、勝頼が後を継ぐことになります。




西曲輪土塁

西曲輪土塁


 西曲輪は武田神社のある本曲輪と違い、色々と立ち入ることが出来ます。

 土塁の上を歩いてみました.土塁は高さ約3メートルほど.上の写真は右手が西曲輪内部、左手が水堀です。

 躑躅ヶ崎館は、北へ行くほど高くなる緩やかな斜面に築かれた館で、曲輪内部も北側が高くなっています。





西曲輪北虎口

西曲輪北虎口


 西曲輪には南北に虎口がありました.写真は北側の虎口で、小さな枡形になっています。
 南虎口に比べ土塁が低くなっています。




中曲輪と西曲輪の間の堀

西曲輪空堀


 西曲輪と本曲輪の間にある空堀です。

 左が西曲輪、右が本曲輪です。





西曲輪西側水堀

西曲輪西側水堀


 西曲輪の西側の堀は、南三分の二が水堀。残りは空堀となっています。

 幅は約10メートルぐらい、土塁の高さは7~8メートルほどあります。




梅翁曲輪跡

梅翁曲輪跡


 西曲輪の南側に梅翁曲輪という郭が設けられ、躑躅ヶ崎館を守りました。

 躑躅ヶ崎館は、武田氏滅亡後、織田、徳川、豊臣と領主が移りますが、浅野長政、幸長父子による甲府城築城まで、甲斐の中心でした。

 そのため武田氏時代より、館の堀や土塁は整備され、虎口を守る梅扇曲輪も新たに整備されました。







武田晴信像

武田晴信(信玄)像


 大永元年11月(1521年12月)に、躑躅ヶ崎館の詰めの城である要害山城で生まれました.当時の武田信虎は、駿河の今川親氏と紛争中で、今川家家臣、福島正成に攻め入られていました.信虎はこれを撃退。後に今川と和睦しています。

 天文10年(1541年)、今川義元と手を組み、乳信虎を追放し、家督を相続。武田家19代当主となります。

 隣国信濃を併合し、戦国最強と言われた武田軍団を形成し、最盛期には甲斐、信濃の他、駿河、遠江、三河、上野、美濃、飛騨を支配。約120万石の太守となりました。

 永禄2年(1559年)に出家し、徳栄軒信玄と名乗ります。

 元亀4年(1573年)に病で亡くなりました。





信玄と徳川家康


三方ヶ原の戦いで、徳川家康は武田信玄に大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰りました.よほど武田勢の攻撃が激しかったのか、家康は馬上で糞を漏らしたとの逸話まで残っています。
 幸いにも信玄は翌年、病に倒れ亡くなり、武田勢は甲斐に戻って行きました。
 危機を脱した家康は、信玄を恐れながらも、師として仰ぎます。
 武田家が滅びると、家康は武田の旧臣を多く召し抱えます。

 井伊直政は武田の赤備にならい、井伊の赤備えと名乗りました。
 そして家康は五男の信吉に武田家の名跡を継がせますが、信吉は二十一歳で急逝しました。


 




武田氏系図

武田家系図


 武田神社宝物館でもらったパンフレットに載ってた武田氏の系図です。

 盲目のため出家し竜芳と名乗った晴信の次男、信親の系図が載っていました。

 信親は武田家滅亡と同時に自殺しますが、穴山梅雪の娘を娶り、その間に出来た信道も出家し顕了道快を名乗り、織田氏の残党狩りの難を逃れました。

 その後、武田家家臣だった大久保長安の庇護を受けますが、慶長18年の長安の死後発覚した不正蓄財(大久保長安事件)で連座し、伊豆大島に配流となりました。

 信道の子、信正の時、寛文3年(1663年)、家光の13回忌で赦免され、江戸に戻り、信正の子、信興は500石を与えられ高家になりました。

 晴信の弟、信実は川窪家に養子に入りますが、子の川窪信俊は武田家滅亡後、徳川家康に仕え、信俊の子の信貞の時に武田姓に戻り、5300石の旗本として続きました。

 晴信の七男、信清は、武田家滅亡後、宿敵だった上杉氏に仕え、米沢武田家として存続しました。

 調べてみると武田氏の血筋は、結構残っていることがわかります。






甲府方面

甲府方面


 躑躅ヶ崎の堰堤より、甲府駅方面を見たところです。

 右手の森は武田神社(躑躅ヶ崎館)。その左側に出丸が復元されています。

 躑躅ヶ崎館の南側に城下町を形成し、重臣を住まわせていました。





甲府地図

甲府地図


 武田神社前に有った、現在の甲府の地図です。

 躑躅ヶ崎館の周りにある、重臣屋敷が書き込まれています。






馬場美濃守屋敷跡

馬場美濃守屋敷跡


 行きは甲府駅からバスで武田神社に行きましたが、帰りは歩いて戻りました.約二キロ、歩いて三〇分ほどです。

 途中に重臣屋敷があったことを示す説明文がありました。






武田家の滅亡


 晴信が亡くなったあと、武田家は四男の勝頼が相続します。
 勝頼は長篠合戦で敗北したあと、足元を固めるため、甲斐信濃の領国経営に勤しみ、穴山梅節の進言もあり、天正9年(1581年)真田昌幸に命じ新府城を築城し、同年末に居城を躑躅ヶ崎館から移しました。
 しかし翌天正10年、木曽義昌の織田信長への寝返りをきっかけに、織田軍の武田領侵入を許してしまいました。
 織田勢は信長の嫡子、信忠を総大将に、三万の大軍を送り込み、織田信長と同盟を結ぶ徳川家康もこれに呼応し、軍勢を武田領内に送り込みます。
 武田勢は小笠原氏や穴山梅雪まで寝返る始末。勝頼は新府城を捨て、譜代の小山田信茂を頼り岩殿城へ向かうが、信茂は裏切り勝頼一行を領内に入れず、天目山棲雲寺に向かうが、その途中追ってに捕まり、嫡子の信勝や北条夫人とともに自害しました。

 勝頼は家臣団をまとめきれず、多くの離叛者を出してしまったことが、武田家滅亡の原因でした。