長篠城祉近辺図
長篠城祉周辺には、勝頼の長篠城攻めの時、本陣をはじめ多くの陣所、砦が築かれました。
現在はそれらの陣所を廻るハイキングコースが整備されています。
今回は長篠城祉北側にある大通寺、医王寺を訪ねてみました。
大通寺の裏山
国道151号線を挟んで、すぐ北側に大通寺があります。長篠城攻めの時は、馬場信春、武田信豊、小山田昌行が率いる2000人の兵が置かれました。
大通寺本堂
本堂の裏に井戸があり、重臣達が軍議で反対したにもかかわらず、勝頼は設楽ヶ原に進出し、織田・徳川軍との決戦を決めたことで、馬場春信は負け戦を覚悟し、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを大通寺の陣所に呼び、井戸の水で別れの杯を酌み交わしたと言われています。
大通寺から長篠城祉を見たところ
目の前に長篠城祉があり、城内の様子が、手に取るようにわかったでしょう。
天神山と医王寺
正面の小高い山が天神山、その右手奥に医王寺があり、その裏山に武田勝頼の本陣がありました。
荏柄天神
天神山は中腹に荏柄天神があることに由来します。
ここには一条信龍、真田信幸、昌輝兄弟、土屋昌次が率いる2000人の兵が詰めました。
医王寺
長篠山医王寺は永正11年(1514年)に創建されました。薬師如来を本尊歳、7つの末寺を持つ曹洞宗の寺院です。
長篠城攻めでは、医王寺の裏山に武田勝頼の本陣がありました。
本陣縄張り図
頂を切り開き、三つの曲輪を持つ本格的な砦でした。
展望台
陣所跡に刃、木製の展望台が建てられています。
展望台からの眺め
右下が医王寺。中央、二つの山の間に長篠城があります。
その先にあるのが新東名高速です。
鳶が巣砦
長篠城の南、宇蓮川を挟んで久間山、中山、鳶が巣、姥ヶ懐、君が状床の5つの砦が築かれました。
5月20日の深夜、徳川家康の重臣、酒井忠次が鳶が巣砦を攻撃、21日早朝に砦を落とし勝ちどきを上げました。それを知った武田勝頼は、織田・徳川軍との決戦を決意したと言われます。
鳥居強右衛門(すねえもん)
5月8日に長篠城攻めが始まりましたが、13日に兵糧蔵を焼失、兵糧の大半を失い、長期籠城が困難となりました。
長篠城の状況を岡崎城の徳川家康に知らせるために、奥平信昌の家臣、鳥居強右衛門が14日深夜、闇夜に紛れて長篠城を抜け出し、武田の包囲網を突破に成功。岡崎城に向かいます。15日午後には岡崎城にたどり着き家康に援軍を要請します。強右衛門は家康から大軍が救援に駆けつけると聞き出すと、城兵を勇気づけるために急ぎ長篠城に戻ろうとします。しかし長篠城に戻る寸前、武田軍に捕らえられました。
そして寒狭川を挟んで長篠城の対岸、城内から見える場所に磔にされました。武田勢は強右衛門に、城兵を落胆させ、戦意を喪失させるために、援軍は来ないと嘘を言えと強要しますが、強右衛門はそれに反し、間もなく援軍が来ることを城内の兵に叫び伝え、怒った武田勢に殺されてしまいました。
強右衛門享年36才でした。
長篠城内から見た、強右衛門の磔位置
寒狭川の対岸で強右衛門は磔にされました。
寒狭川
左側が長篠城祉になります。