苗木城CG図
苗木城は天文年間(1532年~1555年)、遠山直廉によって築かれた城です。
遠山氏の祖となる加藤景廉は、源頼朝の重臣として活躍し、美濃国遠山荘が与えられました。景廉が亡くなると、嫡子の景朝が遠山荘の地頭を相続し、遠山荘に着任。景朝の時代から遠山姓を名乗るようになりました。
遠山氏は岩村城を拠点に東濃地域に広く盤踞し、岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏、飯羽間遠山氏、明照遠山氏、串原遠山氏、安木遠山氏を遠山七氏と呼びました。
江戸時代、北町奉行として活躍した遠山金四郎は明知遠山氏の末裔になります。
苗木遠山氏は景紀に子がなく、本家の岩村遠山氏から直廉が養子に入り存続し、直廉により苗木城が築かれました。
織田信長は美濃攻めで、斉藤氏の稲葉山城を攻めるのに、背後の遠山氏を味方に引きいれようと、妹を直廉に娶らせます。直廉との間にできた女子が信長の養女となり、政略結婚で武田勝頼の結婚し、信勝が生まれます。
当初は友好関係にあった信長と信玄ですが、その後決裂し、元亀3年(1572年)、信玄は秋山晴近に命じ東濃地方に侵攻してきます。
本家である岩村の遠山景任(かげとう)も、信長の叔母おつやの方を娶っていましたが、景任が元亀3年9月に亡くなると、おつやの方は秋山晴近の攻撃に屈し、岩村城は開城し武田方の城になり、おつやの方は秋山晴近と結婚します。
晴近は岩村城を拠点に周辺の城の城を攻め、苗木城も攻められる城でした。苗木城主だった直廉は元亀3年5月に亡くなり、嫡子がいなかったため、信長は飯羽間遠山氏の遠山友勝に苗木遠山氏を継がせます。苗木遠山氏は一貫して信長に味方し、秋山晴近の猛攻に持ちこたえました。
元亀4年(1573年)4月に武田信玄が亡くなり、勝頼が武田家を相続。勝頼は秋山晴近に援軍を送り、天正2年(1574年)に苗木城は落城しますが、天正3年、長篠合戦で武田方が大敗を喫すると、信長は嫡子、信忠に命じ岩村城を攻撃させ開城、秋山晴近、おつやの方は岐阜城下、長良川河畔で殺害されました。
苗木城も織田方に攻められ再び遠山友勝が城主に復帰します。
天正10年に織田信長が本能寺の変で亡くなると、友勝の息子、友忠は金山城の森長可と対立、友忠は徳川家康を頼ります。しかし小牧長久手の合戦後、家康は羽柴秀吉の旗下に入ったために、友忠は森長可に苗木城を明け渡しまし家康の元に身を寄せました。
その後苗木城は森長可の客将、河尻秀長 (父は信長の重臣、河尻秀隆。父が甲斐で亡くなると、森長可の元に身を寄せる)が城代となります。その後河尻秀長は森氏から独立しますが、関ヶ原戦いでは西軍に与したため、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍に攻められ落城。遠山友忠の嫡子、友政が苗木城攻めに活躍し、苗木城は遠山友政に与えられ、苗木藩1万500石を立藩、明治維新まで遠山氏が藩主を務めました。
苗木城縄張り図
苗木城は木曽川を挟んで中津川市の対岸、標高432メートルの高森山に築かれました。南を流れる木曽川の高さが約260メートルほどですから、比高は約170メートル余りになります。
狭い高森山の斜面にへばりつくように櫓や蔵、城門、城壁が築かれ、頂には三層の天守が築かれました。別名赤壁城と呼ばれ、これは木曽川に住む龍神が苗木城の白壁を嫌い、破壊してしまうため、地元の赤土を使い城壁を築いたところ、龍神は破壊しなかったことに由来します。
山頂は巨岩で覆われ、巨岩の上に柱を立て天守が築かれました。天守の南にある馬洗石は、敵に攻められ水を絶たれた際、この巨岩の上に馬を立たせ、水に見立てた米で馬を洗い、さも水が豊富であることを敵に見せつけたことに由来します。
苗木遠山資料館
苗木城の入り口にあり、苗木城の歴史と、苗木藩主遠山氏に関する史料が展示されています。
苗木遠山氏系図
苗木城を築いた遠山直廉は、岩村城主、遠山景任(かげとう)の弟にあたります。
直廉は信長の妹を娶り、二人の間にできた娘(龍勝院)は信長の養女となり、武田勝頼と結婚し、信勝が生まれます。勝頼、信勝父子は天正10年(1582年)、織田信長に攻められ、天目山の麓、田野で自害しました。信勝はまだ16才の若さでした。
大矢倉跡
大矢倉は本丸の北側にあり、外観は二層、内部は穴蔵があり三階建てとなっています。
苗木城内最大の櫓で、二階三階の壁には矢狭間が設けられ、大手門である風吹門を守る役割をしています。
本丸から見た大矢倉
大矢倉は三方を石垣で囲まれた穴蔵があります。
菱櫓門跡
本丸の中腹にある門で、左手には菱櫓がありました。
本丸石垣
打ち込みはぎの石垣が要所を守っています。
本丸天守跡
山頂には巨岩があり、その上に天守は築かれました。天守は三層でした。
天守説明文
天守の説明文です。この説明によると、天守は三層ですが、一階と二階は巨岩にもたれかかるように築かれているようです。
一階は「天守縁下」 巨岩の南西側にあり、西側が板縁となり、板縁も含め二間(4メートル)×二間半(5メートル)の広さがあります。
二階は「玉蔵」と呼び、三間(6メートル)四方あり、一階と三階への階段がありました。
三階が「天守」で四間半(9メートル)×五間半(11メートル)の広さがありました。
展望台
現在、天守跡には柱と梁組で展望台が造られています。
天守の三階部分の床面を想定したものです。
馬洗石
天守の南側にある巨岩で、敵に攻められ水を絶たれた際、城兵はこの岩の上に馬を置き、水に見立てた米で馬を洗い、城内に水が方であることを敵に見せつけたと言われています。
御殿跡
本丸の西側に平地が開けられ、御殿が築かれていました。現在は礎石が復元されています。
的場
御殿の横、一段下に的場がありました。
中津川市
木曽川を挟んで南側に中津川市街地があります。
昭和26年、恵那郡中津町と苗木町が合併し中津川町となり、27年に市に昇格し中津川市になりました。
中津町は江戸時代、尾張藩領になり中津川宿として発展。明治維新後も中央本線西線、国道19号線、中央高速が通る交通の要衝で、東濃地方の中心として発展しました。
苗木城の城下町は、苗木城の北側になり、幹線から外れ寂れていきました。
木曽川
苗木城本丸下約170メートルに木曽川が流れています。
手前の小さな橋(トラス橋)はかつて、中津川と付知を結ぶ北恵那鉄道が走っていましたが、昭和58年に廃線になりました。