長篠城本丸跡
長篠城の歴史
天正3年(1575年)5月21日、織田信長が長篠の設楽が原で3000挺の鉄砲を駆使し、武田勝頼率いる武田騎馬軍団を殲滅した長篠合戦。そのきっかけとなったのが武田勝頼の長篠城攻めでした。
長篠城は永正5年(1508年)、駿河の今川氏親と関係の深かった菅沼元成によって築城されました。以来、元成の子孫である、長篠菅沼氏の居城となりました。
菅沼氏は東三河山間部、設楽郡に広く盤踞した一族で、他に島田菅沼氏、田峯菅沼氏、野田菅沼氏などがあります。
桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にし、今川氏が没落し、徳川家康が今川氏から独立すると、元成の子孫である長篠城主貞景は徳川家康に属しますが、元亀2年(1571年)武田信玄が東三河に侵攻、長篠城は武田方の天野景貫(かげつら)に攻められ、落城寸前に及びます。早くに武田方に与していた菅沼氏本家の田峯菅沼氏の説得で、貞景の嫡子、正貞は武田方に与することになりますが、元亀4年(1573年)に武田信玄が亡くなると、三河の武田勢は甲斐に撤退し、長篠城は徳川家康に攻められ、城主の正貞は開城し長篠城を明け渡しました。家康は長篠城を拡張し整備しました。
その後長篠城主となったのが、奥平信昌です。奥平氏も東三河山間部、作手の小豪族で、菅沼氏同様、武田信玄の三河侵攻で武田方に付いた一族でした。
田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、そして作手の奥平氏を山家三方(やまがさんぽうしゅう)と呼び、武田勢の三河侵攻で武田勢に与した豪族でしたが、奥平信昌の父、定能(さだよし)は武田信玄の死を察すると再び徳川家康の配下となりました。
定能の嫡子、信昌は家康の長女、亀姫と結婚し、長篠城主となります。
長篠合戦
信玄を失った武田氏は、勝頼が後継者となり、再び織田・徳川領へと侵攻します。そして天正3年4月、15000の兵を率いて東三河へ侵攻、5月に奥平信昌の籠城する長篠城を包囲します。長篠城はわずか500の守備勢でしたが、なかなか落城しませんでした。
信昌は織田、徳川の援軍を待ち、持ちこたえます。
5月18日に織田・徳川軍は38000の軍勢を率いて長篠城の手前、設楽ヶ原に着陣、連吾川に沿い馬防柵を建て陣地を築きます。勝頼も兵を動かし、連吾川を挟んで、織田・徳川軍と対峙します。
5月20日夜、徳川四天王の一人、酒井田忠次は、長篠城攻めの武田方の陣地、鳶の巣山を攻撃。
そして5月21日早朝、武田勢が織田・徳川軍を攻めます。織田軍は3000挺の鉄砲で迫り来る武田の騎馬隊を攻撃し、武田勢に甚大な被害を与えました。信玄以来の重臣、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀を始め、原昌胤、真田信綱、土屋昌続など多くの重臣を失い、甲斐へと撤退していきました。
城址にあった長篠合戦図屏風
右端に長篠城が描かれています。
長篠城縄張り図 (上が北側になります)
長篠城は南に寒狭川(豊川)、東に宇蓮川を望む合流点に築かれた城郭です。
約50メートル×35メートルの本丸を中心に、東に野午郭、西に弾正郭、北に帯郭が築かれ、その外側に巴城郭、家老屋敷。さらにその外側に瓢(ふくべ)郭、大手郭が囲んでいて総面積は約10ヘクタール。寒狭川、宇蓮川に面したところは崖になっている堅城です。
長篠城祉史跡保存館
長篠城祉にある資料館です。
本丸櫓台
本丸の北東隅、土塁上に櫓台があります。
櫓台から見る堀
本丸堀と土塁
本丸の北側、帯郭に面して、高さ約3メートルの土塁と、大規模な堀が掘られています。
野午郭
本丸の東側、宇蓮川に面して野午郭が築かれています。
郭の南東隅に野午門があり、長篠合戦屏風では宇蓮川に橋が描かれています。
野午郭の井戸
飯田線
本丸と野午郭の境に飯田線の線路が通っています。
搦め手門跡
長篠城の北東側、瓢郭に搦め手門があります。
大手門は北西側になります。