好古園 | にっくんのブログ

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好古園


好古園図

好古園図


 姫路城の西隣にあるのが好古園です。ここは江戸時代、姫路藩の西御屋敷や武家屋敷のあったところで、昭和60年から進められた発掘調査で西御屋敷跡、武家屋敷跡、通路跡などの町割りが確認され、それを下に平成4年に姫路市市制100周年の記念に開園しました。
 西御屋敷跡には地泉回遊式の日本庭園の「御屋敷の庭」が再現されたほか、約1万坪(33000平方メートル)の敷地に、計9つの庭と裏千家の第15代い家元により設計された数寄屋造りの茶席が設けられ、通路には築地塀や屋敷門、長屋門が再現されています。
 好古園は寛延2年(1749年)から明治維新まで姫路藩を治めた酒井氏が設置し、この付近に移設した藩校、好古堂にちなんで名付けられました。
 園内に「お屋敷の庭」「苗の庭」「茶の庭」「流れの平庭」「夏の庭」「松の庭」「花の庭」「築山池泉の庭」「竹の庭」と、趣の異なる9つの庭が造営されています。





好古園古図

好古園古図


 赤線で囲まれた場所が好古園になります。

 当時の屋敷割りを再現しています。





好古園入り口

好古園入り口


 この庭園を語るときに外せないのが榊原政岑(まさみね)です。
 政岑は正徳3年(1713年)に榊原氏の分家で1000石の旗本、榊原勝治の次男として産まれましたが、享保17年(1732年)に本家の姫路藩主、榊原政祐の末期養子となり、政祐の死後、姫路藩主となりました。
 当時は8代将軍徳川吉宗の享保の改革で、倹約令が出ていましたが、政岑はそれに反して贅沢な暮らしをし、江戸の吉原で遊興に耽けました。そして吉原の高尾太夫を1800両で身請けし、姫路の西御屋敷に住まわせたと言われています。
 当然、吉宗の怒りを買い、寛保元年(1741年)に強制的に隠居させられ、蟄居を命じられます。幸いにも改易は避けられ、家督は嫡男正純が継ぎますが、姫路藩から雪深い越後高田藩へと転封となりました。
 そして寛保3年(1743年)に失意のうちに高田で亡くなりました。





御屋敷渡り廊下

渡り廊下


 御西屋敷跡に「御屋敷の庭」が再現され、活水軒というレストランの入る建物と、潮音斎の二つの建築物があり、それを渡り廊下で結ばれています。

 池を挟んで結ばれており、中央が緩やかに反り優雅なカーブを描いています。






潮音斎

潮音斎


 中秋の名月を楽しむのに最良の方角を向いています。





双樹庵

双樹庵入り口


 裏千家第15代家元、千宗室氏の監修設計により、数寄屋造りの本格的な茶席が「茶の庭」に建てられました。

 茶席は姫路城天守が望めるように建てられています。





双樹庵脇

双樹庵


 数寄屋造りの茶席を再現しています。




通路

築地塀


 江戸時代の屋敷割りを再現し、通りの両側には趣の異なる築地塀連なります。

 姫路城を望むことができ、京都の太秦撮影所にも近いことから、映画やテレビの時代劇や大河ドラマのロケが行われるようです。






曲水

曲水


 流れの平庭、夏の庭、松の庭と、三つの庭を貫いて曲水が優雅に流れています。






長屋門外

長屋門


 重厚な長屋門は松の庭の入り口です。門の両側には門番が詰めれるようになっています。




長屋門

長屋門


 上の長屋門を内側から見たところです。

 背後に姫路城天守が見えます。






屋敷門

屋敷門


 築山池泉の庭の入り口にある門です。




築山地泉の庭

築山池泉の庭


 中央に池があり、池の北側に亀を、南側に鶴をかたどる岩山を配し、池に面して茅葺きの四阿(あずまや)臨泉亭が風情を漂わせます。