にっくんのブログ -33ページ目

にっくんのブログ

ブログの説明を入力します。



土佐屋

土佐屋




土佐屋見取り図

土佐屋見取り図


 藍染めを営む土佐屋は間口四間半(約8.1メートル)奥行きは約三十間(約54メートル)余りの細長い敷地に建っています。母屋は安永9年(1780年)頃の建物と推定され、ドマミセの商家形式の町屋です。 かつてはドマミセに染壷が据えられ職人が生糸や布を染めていました。奥に入ると右手に通りドマがあり奥にはかまどがあります
 左側にナカノマ、仏間、座敷が連なっています。
 その奥が庭になり、さらに奥には昭和初期に建てられた離れ座敷があり、その奥には土蔵、さらに奥には明治末から大正初期に建てられたと言われる染工場が建っています。




土佐屋内部

土佐屋内部

ナカノマ、仏間、座敷と連なっています。


 


土佐屋かまど

かまど




土佐屋ドマ吹き抜け

通りドマ上部


京町家では通り庭の上部の吹き抜け空間を火袋と呼んでいます。下のかまどで火を出したとき、火を上に逃して延焼を防ぐ役割もありました。




土佐屋母屋二階

母屋二階

岩村本通りがよく見えます。




土佐屋離れ

離れ座敷

昭和初期に建てられました。




土佐屋渡り廊下

渡り廊下

壁がベンガラ色と雅な感じです。




土佐屋離れ一階

離れ一階

機織り機が二台、置いてありました。




土佐屋離れ二階

離れ二階

昭和初期に建てられました。以前はこちらの方が生活の場だったのでしょう。




土佐屋蔵工場

染工場と土蔵



土佐屋染工場一階

染工場一階


染工場は敷地の一番奥に建っています。明治の終わりから大正に初めにかけて建てられました。

一階は1メートル余り掘られ、十一の染壷と、その中に火壷があります。火壷のなかで火をたき、周りの染料を暖めていました。


藍は水に不溶解性のため、染料を発酵させた発酵染めを行いました。日本で発酵染めは奈良時代から行われてきました。
 まず蓼(たで)などの藍草を自然発酵させ、蒅(すくも)を作ります。それを臼で挽き丸めた物を藍玉といいます。
 そして藍をたてる工程に移ります。藍をたてるには蒅を泥状にして甕に入れ、それに石灰、麩、木灰、冷水などを入れてよく攪拌し、火壷に火を入れ加熱すると徐々に発酵が始まります。表面に泡が現れると藍染めが出来る状態です。
 そして糸や布を藍液に浸けて藍染めを行います。糸や布は甕から引き上げると最初は黄緑色ですが、空気に触れると酸化して、一瞬のうちに藍色に変わります。
 藍染めをした布は消臭効果、細菌の増殖を抑制する効果、防虫効果などがあります。




土佐屋染工場二階

染工場二階


二階は染色した糸を乾燥させる場所でした。



木村家住宅


木村家住宅


 岩村を代表する商家である木村家は、元々は三河国挙母(ころも・豊田市)の出身でしたが、寛永十五年(1638年)、藩主の丹羽氏信が岩村に移封となると、丹羽氏に従い岩村に移り問屋をはじめ、後に藩の御用商人となりました。名字・帯刀を許された士分待遇の家柄で、岩村藩の駿河領(静岡市)での水害や、西美濃領(大垣市付近など)での麦の凶作時には、領民の救済に尽力し、天保5年(1834年)に江戸藩邸が焼失したときにはその再建資金を用立てるなど、岩村藩に多大な貢献を果たしました。そのため藩主の信任が厚く、藩主の来訪を受けることもたびたびあり、藩主など貴人の使用する書院も設けられました。
 母屋は18世紀末に建てられたものとみられ、その後書院が増築されたようです。屋根も板葺石置き屋根から桟瓦葺きに改めました。



見取り図

木村家住宅見取り図




木村家住宅内部

なかみせ



  中に入ると右側にみせ、なかみせ、だいどころと連なり、左側が通り庭(土間)となっています。その奥がかってとなっており、かまどが置かれていました。その上部はかまどの煙を排出するための吹き抜け空間となっており、太い梁に何本も束を建てて大屋根を支える構造がわかります。
 木村家住宅は三階まであり、三階から吹き抜け空間を見ることが出来ます。間近に屋根を支える木組みを見ることが出来るのはここだけではないでしょうか。


通り庭上部

屋根裏の木組み



三階登り口

三階への登り口


屋根木組み

三階から見た屋根裏



三階茶室

三階は茶室となっています

天袋が特徴的です


玄関

書院への玄関



 母屋の右隣に藩主など高貴な人の来訪時に使用する玄関があり、かつては薬医門がありました。玄関を入ると茶室があり、一段上がり次の間、書院が連なりました。次の間への通り道に茶室があるのもおかしなものですが、高貴な人だけが使う通り道なので、茶室で一服してから書院に入ったのでしょうか。


茶室床柱

茶室床柱



床の間

書院床の間


 書院は藩主を迎えるのにふさわしく、豪勢な造りとなっています。

 煎茶道の普及に努めた八橋売茶翁は六代目木村弥五八知英と親交があり、文化8年(1811年)当家訪問時、書院から眺めた庭の老梅にちなんで、老梅書院と名付けられました。


書院床脇

書院床脇



武者窓

武者窓


 藩主の訪問時、警護の従者が通りの様子をうかがうために、武者窓(箱形の出っ張り 顔を入れて左右を覘くと通りの様子がよくわかります)が設けられていました。右側に藩主などが利用した玄関が有ります。

 下には犬が悪戯しないように、犬矢来が設けられています。



土蔵

酒蔵(右側)と土蔵


 母屋の裏庭には白漆喰で塗籠められた、腰がなまこ壁の重厚な酒蔵と土蔵があります。
 木村家は酒造業も営んでいました。



土蔵2階

酒蔵の二階は離れとなっています。



天正疎水

天正疎水


 天正疎水 天正3年(1575年)に城下町を整備したときに水路を通し、防火や生活用水として使われました。岩村通りの両側に疎水はあり、各戸を通り清水が流れています。






岩村地図

岩村の地図



 岩村は岩村藩の城下町として、また東濃と東三河(豊橋、新城)、西三河(豊田、岡崎)、尾張(瀬戸、名古屋)を結ぶ交通の要衝として栄えました。しかし明治に入り岩村藩はなくなりますが、幕末から盛んになった養蚕、製糸業は明治、大正、昭和の初期まで岩村の主力産業として発展してきましたが、高度経済成長以降は廃れる一方になりました。
 交通の要衝という地位も、鉄道(中央本線西線)が北側の落合(恵那市)を通り、名古屋と長野を結ぶ国道19号線、中央自動車道からも外れた岩村は次第の衰退していきます。(岩村町は人口は約五千人余り、平成16年に恵那市と合併)
 そのためか岩村の町並みは、時代に取り残された昭和の香りを色濃く残す商店街の雰囲気があります。
 江戸時代は岩村川を挟んで南側に町人町、北側に武家屋敷がありました。現在は南側の町人町が国の重要伝統的建造物群保存地区となっています。
 明知鉄道岩村駅の脇から、東側の岩村城の麓の藩主邸宅にかけて、長さは約1,3キロ余り、標高差は四十メートルの緩やかな坂道となっています。その通りを岩村本通りと言い、その両脇にノスタルジックな古い町並みが続きます。


岩村の町並み

岩村の町並み



下町枡形

下町枡形


 岩村通りの中間点に下町枡形があります。枡形とは敵の侵入を防ぐためのクランクで、小さな広場となっています。江戸時代にはここに高札場がありました。






明知鉄道岩村駅

岩村駅



明知鉄道岩村駅


 昭和9年(1934年)1月に国鉄明知線が岩村まで開通しました。この時代の駅舎が使われています。国鉄明知線は赤字路線として不採算路線となり、昭和60年5月第三セクター、明知鉄道株式会社が発足、11月に新たに明知線が開業しました。
 最近のJRの駅舎は、地方でもガラスやアルミサッシを多用した近代的な建築物に建て替えられており、田舎の風景とはミスマッチな気がするのですが、このような古い駅舎を見ると、のどかな町にマッチしており落ち着きます。駅舎内にはカフェが併設されています。





水野薬局

水野薬局



水野薬局


 明治10年(1877年)に建てられた水野薬局の二階には、時代を感じさせる古い看板が掛かっています。このときの主人は水野清一郎でした。板垣退助は明治15年(1882年)4月、自由民権運動で岩村に来村、滝川座と言う劇場で演説します。その夜、板垣、竹内綱(吉田茂の実父)、内藤魯一の三人が 水野邸の奥座敷に宿泊しました。板垣退助はその数日後、岐阜市で暴漢に襲われる岐阜事件に遭いました。このとき「板垣死すとも自由は死せず」と言う名言を残しています。




カステラ店

カステラ店(松浦軒本舗)



岩村のカステラ


 岩村にはカステラ店が松浦軒本店、松浦軒本舗、かめや菓子舗と三店舗あり、岩村を代表するお土産となっています。
 どうして美濃の小さな町にカステラ店があるかというと、江戸時代、長崎で蘭学を学んだ御殿医である神沢雲沢という医師が、寛政8年(1796年)にカステラの製法を伝えたと言われています。
 以来200年余り、岩村のカステラは江戸時代の製法を守り、長崎のカステラとは少し異なる素朴な味を伝えています。値段も450円からとお値打ちです。




岩村醸造

岩村醸造



 岩村醸造

 「女城主」と言う銘柄で知られる岩村醸造は、創業が天明7年(1787年)の老舗酒蔵です。元々は岩村藩御用の運送業の傍ら、醸造を副業としていましたが、明治維新で岩村藩がなくなると、醸造業が本業となりました。戦前までは味噌、みりん、醤油、焼酎なども造っていましたが、戦後は日本酒のみを作るようになりました。
 間口が狭く奥行きが一〇〇メート余りと長い敷地で、店や工場の内部を製品や材料を運ぶためのトロッコのレールが敷かれています。
 店内では試飲と工場内部の見学が出来ます。試飲が出来ると聞いて喜んだのですが、自動車で来ていたのをすっかり忘れていて、直前で断念しました。



女城主

女城主



岩村醸造トロッコ

トロッコのレール



岩村醸造内部

中庭