木村家住宅
岩村を代表する商家である木村家は、元々は三河国挙母(ころも・豊田市)の出身でしたが、寛永十五年(1638年)、藩主の丹羽氏信が岩村に移封となると、丹羽氏に従い岩村に移り問屋をはじめ、後に藩の御用商人となりました。名字・帯刀を許された士分待遇の家柄で、岩村藩の駿河領(静岡市)での水害や、西美濃領(大垣市付近など)での麦の凶作時には、領民の救済に尽力し、天保5年(1834年)に江戸藩邸が焼失したときにはその再建資金を用立てるなど、岩村藩に多大な貢献を果たしました。そのため藩主の信任が厚く、藩主の来訪を受けることもたびたびあり、藩主など貴人の使用する書院も設けられました。
母屋は18世紀末に建てられたものとみられ、その後書院が増築されたようです。屋根も板葺石置き屋根から桟瓦葺きに改めました。
木村家住宅見取り図
なかみせ
中に入ると右側にみせ、なかみせ、だいどころと連なり、左側が通り庭(土間)となっています。その奥がかってとなっており、かまどが置かれていました。その上部はかまどの煙を排出するための吹き抜け空間となっており、太い梁に何本も束を建てて大屋根を支える構造がわかります。
木村家住宅は三階まであり、三階から吹き抜け空間を見ることが出来ます。間近に屋根を支える木組みを見ることが出来るのはここだけではないでしょうか。
屋根裏の木組み
三階への登り口
三階から見た屋根裏
三階は茶室となっています
天袋が特徴的です
書院への玄関
母屋の右隣に藩主など高貴な人の来訪時に使用する玄関があり、かつては薬医門がありました。玄関を入ると茶室があり、一段上がり次の間、書院が連なりました。次の間への通り道に茶室があるのもおかしなものですが、高貴な人だけが使う通り道なので、茶室で一服してから書院に入ったのでしょうか。
茶室床柱
書院床の間
書院は藩主を迎えるのにふさわしく、豪勢な造りとなっています。
煎茶道の普及に努めた八橋売茶翁は六代目木村弥五八知英と親交があり、文化8年(1811年)当家訪問時、書院から眺めた庭の老梅にちなんで、老梅書院と名付けられました。
書院床脇
武者窓
藩主の訪問時、警護の従者が通りの様子をうかがうために、武者窓(箱形の出っ張り 顔を入れて左右を覘くと通りの様子がよくわかります)が設けられていました。右側に藩主などが利用した玄関が有ります。
下には犬が悪戯しないように、犬矢来が設けられています。
酒蔵(右側)と土蔵
母屋の裏庭には白漆喰で塗籠められた、腰がなまこ壁の重厚な酒蔵と土蔵があります。
木村家は酒造業も営んでいました。
酒蔵の二階は離れとなっています。
天正疎水
天正疎水 天正3年(1575年)に城下町を整備したときに水路を通し、防火や生活用水として使われました。岩村通りの両側に疎水はあり、各戸を通り清水が流れています。