岩村の地図
岩村は岩村藩の城下町として、また東濃と東三河(豊橋、新城)、西三河(豊田、岡崎)、尾張(瀬戸、名古屋)を結ぶ交通の要衝として栄えました。しかし明治に入り岩村藩はなくなりますが、幕末から盛んになった養蚕、製糸業は明治、大正、昭和の初期まで岩村の主力産業として発展してきましたが、高度経済成長以降は廃れる一方になりました。
交通の要衝という地位も、鉄道(中央本線西線)が北側の落合(恵那市)を通り、名古屋と長野を結ぶ国道19号線、中央自動車道からも外れた岩村は次第の衰退していきます。(岩村町は人口は約五千人余り、平成16年に恵那市と合併)
そのためか岩村の町並みは、時代に取り残された昭和の香りを色濃く残す商店街の雰囲気があります。
江戸時代は岩村川を挟んで南側に町人町、北側に武家屋敷がありました。現在は南側の町人町が国の重要伝統的建造物群保存地区となっています。
明知鉄道岩村駅の脇から、東側の岩村城の麓の藩主邸宅にかけて、長さは約1,3キロ余り、標高差は四十メートルの緩やかな坂道となっています。その通りを岩村本通りと言い、その両脇にノスタルジックな古い町並みが続きます。
岩村の町並み
下町枡形
岩村通りの中間点に下町枡形があります。枡形とは敵の侵入を防ぐためのクランクで、小さな広場となっています。江戸時代にはここに高札場がありました。
岩村駅
明知鉄道岩村駅
昭和9年(1934年)1月に国鉄明知線が岩村まで開通しました。この時代の駅舎が使われています。国鉄明知線は赤字路線として不採算路線となり、昭和60年5月第三セクター、明知鉄道株式会社が発足、11月に新たに明知線が開業しました。
最近のJRの駅舎は、地方でもガラスやアルミサッシを多用した近代的な建築物に建て替えられており、田舎の風景とはミスマッチな気がするのですが、このような古い駅舎を見ると、のどかな町にマッチしており落ち着きます。駅舎内にはカフェが併設されています。
水野薬局
水野薬局
明治10年(1877年)に建てられた水野薬局の二階には、時代を感じさせる古い看板が掛かっています。このときの主人は水野清一郎でした。板垣退助は明治15年(1882年)4月、自由民権運動で岩村に来村、滝川座と言う劇場で演説します。その夜、板垣、竹内綱(吉田茂の実父)、内藤魯一の三人が 水野邸の奥座敷に宿泊しました。板垣退助はその数日後、岐阜市で暴漢に襲われる岐阜事件に遭いました。このとき「板垣死すとも自由は死せず」と言う名言を残しています。
カステラ店(松浦軒本舗)
岩村のカステラ
岩村にはカステラ店が松浦軒本店、松浦軒本舗、かめや菓子舗と三店舗あり、岩村を代表するお土産となっています。
どうして美濃の小さな町にカステラ店があるかというと、江戸時代、長崎で蘭学を学んだ御殿医である神沢雲沢という医師が、寛政8年(1796年)にカステラの製法を伝えたと言われています。
以来200年余り、岩村のカステラは江戸時代の製法を守り、長崎のカステラとは少し異なる素朴な味を伝えています。値段も450円からとお値打ちです。
岩村醸造
岩村醸造
「女城主」と言う銘柄で知られる岩村醸造は、創業が天明7年(1787年)の老舗酒蔵です。元々は岩村藩御用の運送業の傍ら、醸造を副業としていましたが、明治維新で岩村藩がなくなると、醸造業が本業となりました。戦前までは味噌、みりん、醤油、焼酎なども造っていましたが、戦後は日本酒のみを作るようになりました。
間口が狭く奥行きが一〇〇メート余りと長い敷地で、店や工場の内部を製品や材料を運ぶためのトロッコのレールが敷かれています。
店内では試飲と工場内部の見学が出来ます。試飲が出来ると聞いて喜んだのですが、自動車で来ていたのをすっかり忘れていて、直前で断念しました。
女城主
トロッコのレール
中庭