岩村藩藩校、知新館 | にっくんのブログ

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知新館正門

知新館正門



 岩村藩は東濃のわずか二万石の小藩でしたが、その文化水準は高く、美濃では西濃の大垣藩と並ぶ文化の中心で、数多くの文化人を輩出しました。
 その原動力となったのが、美濃で最初の藩校である知新館でした。
 元禄15年(1702年)に小諸から入封した大給分家の松平乗紀(のりただ)は、儒学者の佐藤勘平を招き、藩士の子弟の教育に当たる文武所を設置しました。藩校としては全国でも十番目以内に入る古さでした。その後、論語の温故知新から名を取り知新館と名を改めました。
 学科内容は和学、漢学(朱子学)、算法(関流)、習礼(小笠原流)、兵学(山鹿流)、弓術(大和流)、馬術(大坪流)、槍術(無辺流)、剣術(一刀流)、砲術(久我流)、柔術(制剛流)などを教えました。
 成績優秀者には臨時の賞与、税の免除などの特典などがありました。また江戸や長崎への遊学を認められ、藩費が支出されました。
 知新館の出身者には、二代藩主松平乗賢、林述斎、佐藤一斎がいます。



 松平乗紀の嫡子である乗賢は佐藤勘平に学び、その後享保20年(1735年)に幕府の老中にまで抜擢されました。老中になるためには最低二万五千石の石高が必要でしたが、岩村藩は二万石で足りず三万石に加増され、徳川家重付きの老中となりました。



林述斎は三代藩主 松平乗薀(のりもり)の嫡子で松平乗衡と名乗りました。父の乗薀は大給本家からの養子に入った人物で、江戸の聖堂学問所(後の昌平坂学問所)で林峰岡(ほうきょう)から学んだ好学の藩主です。幕府の儒学者で大学頭である林家では、七代林錦峯(きんぽう)に子がいなかったため、寛政五年(1793年)に錦峯が亡くなると、林家は断絶します。そこで十一代将軍家斉の命で松平乗衡が林家の養子となり、八代目となりました。柴野栗山、古賀精里、尾藤二洲ら寛政の三博士とともに儒学の教学の刷新に尽力し、昌平坂学問所の幕府直轄化を推進しました。
 時代劇にたびたび登場する十一代将軍家斉の側近、鳥居耀蔵は述斎の三男、ペリーが浦賀に来航した際、交渉に当たった林復斎は六男になります。





佐藤一斎



 佐藤一斎は安永元年(1772年)岩村藩家老、佐藤信由の次男として江戸藩邸で生まれました。井上四明や中井竹山の元で学び、主君の子である松平乗衡が林家を継ぎ、林述斎となると、一斎も昌平坂学問所に入門し、文化2年(1805年)からは塾長に就き、述斎とともに多くの門弟を指導しました。門弟は三千人にものぼり、その中には山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂など、幕末に活躍した人物がいました。
 また一斎が半生にわたって書き続けた随想録、言志四録は指導者のための指針の書とされ、西郷隆盛を初め多くの偉人に読まれました。





下田歌子



 他に岩村出身の著名人としては、明治から昭和初期に掛けて活躍した歌人、教育者として知られる、下田歌子がいます。歌子は岩村藩士の娘として安政元年(1856年)に岩村城下で生まれました。出生時の名前は平尾 鉐(せき)といいました。父が勤王派の藩士であったために蟄居謹慎を命じられ、祖母から教育を受けました。五歳にして俳句や漢詩を詠み、和歌を作ったと言われています。
 明治に入ると父と祖父が明治政府に出仕することになり東京に居を移し、鉐もその後を追い上京します。明治5年(1872年)には宮中に出仕し、和歌の才能で昭憲皇太后に寵愛され、歌子の名を賜りました。明治12年(1879年)に下田猛雄と結婚し宮中出仕を辞しますが、夫が病に倒れると、夫の看病の傍ら桃夭(とうよう)女塾を開講し、政府高官の妻女に古典の講義や作歌を教えました。明治17年(1884年)に夫が亡くなると、昭憲皇太后の推薦で華族女学校の教授に迎えられました。
 明治32年(1899年)に実践女学校を創設、初代校長となりました。大正7年(1918年)には板垣退助夫人、板垣絹子に招聘され、広尾の順心女学校、初代校長になるなど、生涯を女子教育に捧げました。