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丹羽長秀邸跡

丹羽長秀低址




 名古屋市西区に児玉という土地があります。この辺りは戦前、名古屋市街地の北西の外れにあり、戦災に遭わず、古い家並みが残っており、迷路のような狭い路地が張り巡らされており、その中に丹羽長秀邸址があります。

 丹羽長秀は織田信長の重臣で、羽柴(豊臣)秀吉は、丹羽長秀の羽と、柴田勝家の柴をとり羽柴と名乗ったことはよく知られています。
 丹羽氏は二つの系統があり、一つは児玉丹羽氏。もう一つは足利一門で、室町幕府の要職である四識の筆頭である一色氏の流れをくむ一族です。丹羽長秀の一族は、児玉丹羽氏に属します。
 尾張にはもう一つ、日進市の岩崎城にも丹羽氏があり、小牧長久手の合戦の戦場になりましたが、こちらは一色氏の流れをくんでいます。長久手の合戦で活躍した丹羽氏次は関ヶ原の合戦で徳川方につき、三河伊保藩一万石の大名になり、その後二万石に加増され、美濃岩村藩藩主となっています。





丹羽長秀像

丹羽長秀像




 織田信長の重臣として知られる丹羽長秀は天文4年(1535年)に丹羽長政の次男として産まれます。丹羽氏は代々尾張守護、斯波氏に仕えてきました。
 しかし長秀は天文19年(1550年)、織田信長の元に出仕しました。天文22年(1553年)梅津表の合戦で初陣を飾り、天文21年(1552年)の萱津合戦、弘治元年(1556年)の稲生合戦でも信長に従い参戦しました。
 長秀は美濃攻めや、南近江の守護六角氏の居城観音寺城攻め、佐和山城攻め、高島城の合戦、長篠合戦で活躍し、佐和山城攻めの恩賞で佐和山城主となり、朝倉氏滅亡後は若狭十万石の大名となりました。また元亀3年(1572年)には信長の命で、領国佐和山で巨大甲鉄船を建造し、さらに安土城築城では普請奉行を務めるなど、信長の信任が厚く、織田家の中では柴田勝家に次ぐ地位にありました。
 永禄6年(1563年)に、信長は兄、信広の娘を養女とし長秀に嫁がせています(桂峯院)。また長秀の長男、長重も信長の五女(報恩院)を正室に迎えており、織田家とは深い繋がりがありました。
 織田家中では米五郎左とよばれ、その器用さが重宝され、米のように日常には欠かせない存在と尊ばれました。また戦場では鬼五郎左と恐れられ、文武に秀でた武将でした。
 家臣の中には後に豊臣秀吉の五奉行として活躍した長束正家や、越後国新発田城主となった溝口秀勝がいました。
しかし織田政権後期には活躍の場を失い、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益らの活躍の前に埋没していきます。

 天正10年(1582年)の本能寺の変のときには、信長の三男、織田信孝の補佐として四国攻めの準備で大坂方面(岸和田)にいました。
 信長の弟、信行の遺児の織田信澄は大坂城代でしたが、明智光秀の娘を妻としており、光秀方につくと噂されたため、信孝は丹羽長秀の協力を得て、大坂城から誘い出し信澄を討ちました。
 山崎の合戦では羽柴秀吉側につき、七月、信長死後の織田家の後継を決める清洲会議でも、信長の孫、三法師を支持し、秀吉に有利になるように働きます。
 会議の結果、三法師が織田家の後継者となり、長秀は若狭の旧領安堵に加え、近江二郡の加増となりました。
 天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の合戦でも、秀吉側につき勝利に貢献します。
 織田家の中でも新参者として軽んじられてきた羽柴秀吉でしたが、宿老の一人である丹羽長秀を味方につけたことは、織田家臣団の求心力を得るのに役立ちました。その恩賞で若狭に加え、柴田勝家の旧領である越前、加賀二郡などが加増となり、123万石の太守となりました。
しかし2年後の天正13年(1585年)に亡くなります。享年五十一歳、胃癌でしたが、死因には諸説あり、織田家を蔑ろにする秀吉に怒り、自ら割腹自殺し、その内蔵をえぐり出し秀吉に送ったとの説があります。
 宿敵柴田勝家を倒した秀吉にとり、長秀はすでに利用価値がなく、都合よく亡くなってくれたのは幸運でした。
 丹羽氏は嫡男、長重が相続することになりますが、長重はまだ十五歳と若く、秀吉は長重の家臣が越中の佐々成政に内通したと難儀をつけ、越前、加賀の領地を取り上げ、若狭一国の大名に戻りました。さらに重臣だった長束正家、溝口秀勝も秀吉家臣にされたために、4万石の大名になってしまいました。後に小田原征伐に従軍し、加賀小松12万石に加増されますが、関ヶ原の合戦では西軍に付き、東軍方の前田利長と戦になったため、改易されてしまいました。
 慶長8年(1603年)に許され常陸古渡1万石を与えられ大名に返り咲き、その後も大坂の陣で活躍し、元和5年(1619年)に常陸江戸崎2万石に加増、さらに元和8年(1622年)には陸奥棚倉藩5万石、寛永4年(1627年)には陸奥白川藩10万石に移封。さらに子の光重は寛永20年(1643年)に陸奥二本松藩10万石に移封され、明治維新まで存続しました。



児玉白山神社

児玉白山神社

丹羽長秀邸址のすぐ北側にあります。




志水家唐門

旧志水家車寄せ

丹羽長秀邸址の西側にあります。



 志水氏は尾張藩の家老を務める一万石の重臣でした。初代藩主、徳川義直の生母、お亀の方の父方の家になり、知多郡大高に所領があり、大高城址に屋敷がありました。
三の丸にあった志水甲斐守屋敷の玄関車寄せを移築し、門に改造して使いました。向唐破風が特徴で名古屋市の有形文化財に指定されています。
 屋敷内には名古屋城二の丸にあった数寄屋造りの茶室「風信亭」が移築され、こちらも名古屋市の有形文化財に指定されています。





児玉公園

児玉公園 

かつて児玉プールがありました。



 丹羽長秀は春日井郡児玉に居していたことから、関東の武蔵七党の一つである児玉党の末裔との説もあります。
 しかし実際は丹羽氏の系譜は不明で、居していた児玉に由来して、児玉党説が出てきたものと思われます。
 武蔵七党とは、平安時代より関東の武蔵に広く蟠踞した武士集団で、横山党、猪俣党、児玉党、野与党、村山党、西党、丹党の七つの党を指します。児玉党はその中で最大のものでした。
 児玉党の長である児玉氏は、藤原北家の公卿、藤原伊周(これちか 974年~1010年)の家司を務めていた有道惟能(ありみちのこれよし)が後に武蔵国に下向し、児玉郡(埼玉県北部)を開墾しました。その子息である惟行(これゆき)の時に児玉姓を名乗ります。惟行は延久元年(1069年)頃、亡くなったと言われています。
 児玉氏はその後、庄氏、本庄氏などを名乗り、鎌倉時代は幕府の御家人となりました。元寇の時に、幕府の命令で安芸や九州に赴き、西国各地に土着していきます。
 特に安芸の児玉氏は繁栄し、戦国時代は児玉就忠の時代、毛利元就に側近として仕え、
就忠の弟就方や、その子供である就英は、毛利水軍の武将として活躍しました。また就忠の子である児玉元良の娘は、主家である毛利輝元に嫁ぎ、長州藩主毛利秀就、徳山藩主毛利就隆の母となっています。また末裔には日露戦争で活躍した児玉源太郎陸軍大将がいます。



明知城図

明知城縄張り図



明知城は本丸は標高約530メートルになります。城下の標高が約450メートルだから、比高が約80メートルの小高い山で、全体を鬱蒼とした木々で覆われています。
 頂が本丸となっており、その南東一段下に二の丸。本丸と二の丸の南側を囲むように腰曲輪(三の丸)が築かれました。二の丸の南に東曲輪があり、さらにその南に出丸が築かれています。これらが内郭となっており、石垣を見ることが出来ず、ほとんどが土塁となっています。
 その周りには大小様々な堡塁が築かれ、その数は二〇余りあります。重要な物には石垣が積まれ、大きな五つの堡塁には陣屋が設けられていました。





本丸

本丸


 城山の最上部にあり、北西から南東に向けて細長く、長さは約29間(約52メートル)幅が6~7間(11~13メートル)となっています。その周りを約5間(9メートル)の土塁が築かれています。




二の丸

二の丸

 本丸の南東一段下に築かれ、長さ17間(約30メートル)幅が11間(約20メートル)の広さがあります。北側と東側が絶壁となっています。





出丸

出丸


 二の丸の南側に、腰曲輪を鞍部として一段高く出丸が築かれ、城の南部を守っています。二の丸と出丸のあいだ一段下に東之丸が築かれています。東之丸中心部に広さ数間の窪地があり、貯水池跡と考えられています。




腰曲輪

腰曲輪(三の丸)


 本丸と二の丸の南から北西にかけて囲むように腰曲輪が築かれました。その北西の先端には幅6~7間、長さ数間の二段の平地が設けられました。




北側の眺め

城跡から北側の眺め




万が洞天神

万ヶ洞天神


 城山の南側中腹にある小さな祠です。明智光秀は幼い頃、京都の嵯峨野天竜寺の学生を招き、学問を学んだという伝説があります。





代官所見取り図
明知陣屋図面


 元和元年(1615年)、一国一城令で明知城が廃城になり、城山の北西山麓に明知陣屋が築かれ政庁となりました。





代官所跡

代官屋敷


 遠山氏は6500石の旗本で、当初は大名のように参勤交代で国元と江戸を行き来していましたが、後に江戸に常駐するようになり、代わりに代官の村上氏が政務を執りました。明知陣屋横には村上氏の代官屋敷と土蔵が残っています。




代官所土蔵
代官屋敷横の土蔵















 岩村城の南南西約八キロのところにある明知城は、岩村城と同じく遠山氏によって築かれた城です。
 鎌倉時代、源頼朝の重臣、加藤景廉が美濃国恵那郡遠山郷を領し、その子である景朝が遠山と名乗り、その一族がこの辺りに広く蟠踞してきました。
 岩村、明知、苗木、串原、明照、飯羽間、阿木の遠山氏を七遠山と呼び、その中でも有力な岩村(本家)、明知、苗木の遠山氏を遠山三家と呼びました。
 明知城は別名白鷹城とも呼ばれ、鎌倉時代中期の宝治元年(1247年)、遠山景朝の子で、明知遠山明氏の祖である景重によって築かれたと言われています。
 戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、遠山郷は織田と武田の対立、豊臣と徳川の対立の渦中に巻き込まれます。
 遠山家は土岐明智氏の被官でしたが、天文21年(1552年)明智氏の当主である定明が弟の定衡に殺害されるという事件がありました。この混乱に乗じて御嵩城の小栗信濃守が土岐明智氏の居城である高山城(土岐市)を攻めます。それに対して明知の遠山景行は小里光忠と共に武田信玄の協力を得て、御嵩城を攻め落としました。以来、遠山景行、小里光忠は武田方に属します。
 その後、美濃国では斎藤道三が息子の義竜に討たれる事件がありました。道三の娘婿である織田信長と斎藤義竜は対立します。信長は永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で今川義元を討つと、美濃攻めを進めます。背後の東濃の勢力を味方に引き入れるため、叔母のおつやの方を岩村の遠山景任(かげとう)に輿入れさせるなど、遠山氏を懐柔させていきます。そのため遠山氏は徐々に織田方に引き入れられました。
 元々織田氏と武田氏は同盟関係にあり、信玄の息子勝頼に信長の養女(父は苗木遠山氏の一族である遠山直廉、母は信長の妹)を嫁がせ、また嫡子信忠の正妻に信玄の5女松姫を迎えるなど、関係は良好でしたが、信玄が信長と同盟関係にあった徳川領に侵攻したのをきっかけに、悪化していきました。
 尾張美濃の太守となった織田信長と、甲斐信濃の太守である武田信玄の対立は、その接点である東濃で激化、この地方を支配してきた遠山一族は、両者の争いに巻き込まれていきます。
 信玄は元亀3年(1572年)、信長打倒を目指す足利義昭に呼応して、上洛を始めます。12月、信玄は重臣秋山信友を東濃に派遣し岩村城を目指します。それに対し明知の遠山景行、岩村の遠山景任を中心に徳川の協力を得て、上村で秋山勢と戦いますが、合戦は秋山勢が勝利し、遠山景行は逃走の末自刀、長子の景玄も討ち死にし、明知遠山家はまだ幼い景玄の嫡子、一行が叔父の利景の後見で存続します。
 岩村城の遠山景任も負傷を負い、その年の内に亡くなります。秋山信友は岩村城を攻撃、岩村城では景任夫人のおつやの方が奮戦しますが、おつやの方は秋山信友との和平を受け入れ開城、信友の正室となり岩村城は武田方の拠点となります。
 天正2年(1574年)武田家を継いだ勝頼は、岩村城より出兵し明知城を攻めます。明知城内では同族の飯羽間城主、遠山友信が謀反を起こし明知城は落城。当主一行の後見をしていた遠山利景は、妻の実家である三河国足助の鈴木氏を頼り落ちのびました。
 翌年、天正3年(1575年)武田勝頼が長篠で織田信長に敗れると、武田方は東濃での勢力を失い、信長の命を受けた嫡子、信忠が岩村城を攻め落とします。このとき明知城も織田方が取り戻し、遠山一行が明知城主に復帰しました。
 天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れ、翌年天正11年、羽柴(豊臣)秀吉が賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を倒し、信長の三男で美濃領主であった織田信孝も切腹させられると、東濃は森長可が支配することとなります。明知遠山氏は再び明知城を追われ、利景は妻の実家である足助の鈴木氏を頼ります。天正13年の小牧長久手の合戦では利景は徳川方につき、長久手の合戦で森長可が討ち死にすると、家康の命で明知城を攻め、明知城奪還を果たしますが、羽柴・徳川で和睦が成立すると、明知城を森家を継いだ長可の弟、忠政に明け渡し、明知城には森左近が城代として入りました。
 天正14年(1586年)一行は亡くなり、利景が明知遠山家の当主となります。
 その後、森忠政は信濃川中島の海津城に移封となり、明知城は岩村城とともに田丸直昌が入り、直昌は明知城に原土佐守を城代に置きます。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、田丸直昌は西軍に付き、徳川家康は田丸氏配下の岩村城や明知城が、中仙道を進軍する秀忠軍の妨げになるため、遠山利景に東濃奪還を命じます。利景は子の方景、小里光明、妻木城の妻木氏と共に田丸勢を東濃から駆逐、明知城を奪還し岩村城も開城させました。遠山利景はその戦功で明知城主に返り咲き6500石の旗本となりました。
 遠山利景は慶長17年(1612年)、73歳で亡くなり、明知遠山家は子の方景が継ぎます。元和元年(1616年)の一国一城令で明知城は廃城。方景は城山下の大手門脇に明知陣屋を築き、政庁としました。
 遠山氏は当初交替寄合(大名のように参勤交代する旗本)でしたが、江戸に屋敷を賜り常駐し、代わりに村上氏が代官として政務を執りました。
 遠山氏は幕末まで6500石という大身の旗本として、明知を支配しました。




 明知城や遠山氏などについて調べてみましたが、岩村城主、遠山景任の亡くなった年や、上村の合戦の起きた年など、不明な点が多く、前の岩村城の説明と違う点があることをご了承ください。