明知城縄張り図
明知城は本丸は標高約530メートルになります。城下の標高が約450メートルだから、比高が約80メートルの小高い山で、全体を鬱蒼とした木々で覆われています。
頂が本丸となっており、その南東一段下に二の丸。本丸と二の丸の南側を囲むように腰曲輪(三の丸)が築かれました。二の丸の南に東曲輪があり、さらにその南に出丸が築かれています。これらが内郭となっており、石垣を見ることが出来ず、ほとんどが土塁となっています。
その周りには大小様々な堡塁が築かれ、その数は二〇余りあります。重要な物には石垣が積まれ、大きな五つの堡塁には陣屋が設けられていました。
本丸
城山の最上部にあり、北西から南東に向けて細長く、長さは約29間(約52メートル)幅が6~7間(11~13メートル)となっています。その周りを約5間(9メートル)の土塁が築かれています。
二の丸
本丸の南東一段下に築かれ、長さ17間(約30メートル)幅が11間(約20メートル)の広さがあります。北側と東側が絶壁となっています。
出丸
二の丸の南側に、腰曲輪を鞍部として一段高く出丸が築かれ、城の南部を守っています。二の丸と出丸のあいだ一段下に東之丸が築かれています。東之丸中心部に広さ数間の窪地があり、貯水池跡と考えられています。
腰曲輪(三の丸)
本丸と二の丸の南から北西にかけて囲むように腰曲輪が築かれました。その北西の先端には幅6~7間、長さ数間の二段の平地が設けられました。
城跡から北側の眺め
万ヶ洞天神
城山の南側中腹にある小さな祠です。明智光秀は幼い頃、京都の嵯峨野天竜寺の学生を招き、学問を学んだという伝説があります。
元和元年(1615年)、一国一城令で明知城が廃城になり、城山の北西山麓に明知陣屋が築かれ政庁となりました。
代官屋敷
遠山氏は6500石の旗本で、当初は大名のように参勤交代で国元と江戸を行き来していましたが、後に江戸に常駐するようになり、代わりに代官の村上氏が政務を執りました。明知陣屋横には村上氏の代官屋敷と土蔵が残っています。