明知城 その一 | にっくんのブログ

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 岩村城の南南西約八キロのところにある明知城は、岩村城と同じく遠山氏によって築かれた城です。
 鎌倉時代、源頼朝の重臣、加藤景廉が美濃国恵那郡遠山郷を領し、その子である景朝が遠山と名乗り、その一族がこの辺りに広く蟠踞してきました。
 岩村、明知、苗木、串原、明照、飯羽間、阿木の遠山氏を七遠山と呼び、その中でも有力な岩村(本家)、明知、苗木の遠山氏を遠山三家と呼びました。
 明知城は別名白鷹城とも呼ばれ、鎌倉時代中期の宝治元年(1247年)、遠山景朝の子で、明知遠山明氏の祖である景重によって築かれたと言われています。
 戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、遠山郷は織田と武田の対立、豊臣と徳川の対立の渦中に巻き込まれます。
 遠山家は土岐明智氏の被官でしたが、天文21年(1552年)明智氏の当主である定明が弟の定衡に殺害されるという事件がありました。この混乱に乗じて御嵩城の小栗信濃守が土岐明智氏の居城である高山城(土岐市)を攻めます。それに対して明知の遠山景行は小里光忠と共に武田信玄の協力を得て、御嵩城を攻め落としました。以来、遠山景行、小里光忠は武田方に属します。
 その後、美濃国では斎藤道三が息子の義竜に討たれる事件がありました。道三の娘婿である織田信長と斎藤義竜は対立します。信長は永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で今川義元を討つと、美濃攻めを進めます。背後の東濃の勢力を味方に引き入れるため、叔母のおつやの方を岩村の遠山景任(かげとう)に輿入れさせるなど、遠山氏を懐柔させていきます。そのため遠山氏は徐々に織田方に引き入れられました。
 元々織田氏と武田氏は同盟関係にあり、信玄の息子勝頼に信長の養女(父は苗木遠山氏の一族である遠山直廉、母は信長の妹)を嫁がせ、また嫡子信忠の正妻に信玄の5女松姫を迎えるなど、関係は良好でしたが、信玄が信長と同盟関係にあった徳川領に侵攻したのをきっかけに、悪化していきました。
 尾張美濃の太守となった織田信長と、甲斐信濃の太守である武田信玄の対立は、その接点である東濃で激化、この地方を支配してきた遠山一族は、両者の争いに巻き込まれていきます。
 信玄は元亀3年(1572年)、信長打倒を目指す足利義昭に呼応して、上洛を始めます。12月、信玄は重臣秋山信友を東濃に派遣し岩村城を目指します。それに対し明知の遠山景行、岩村の遠山景任を中心に徳川の協力を得て、上村で秋山勢と戦いますが、合戦は秋山勢が勝利し、遠山景行は逃走の末自刀、長子の景玄も討ち死にし、明知遠山家はまだ幼い景玄の嫡子、一行が叔父の利景の後見で存続します。
 岩村城の遠山景任も負傷を負い、その年の内に亡くなります。秋山信友は岩村城を攻撃、岩村城では景任夫人のおつやの方が奮戦しますが、おつやの方は秋山信友との和平を受け入れ開城、信友の正室となり岩村城は武田方の拠点となります。
 天正2年(1574年)武田家を継いだ勝頼は、岩村城より出兵し明知城を攻めます。明知城内では同族の飯羽間城主、遠山友信が謀反を起こし明知城は落城。当主一行の後見をしていた遠山利景は、妻の実家である三河国足助の鈴木氏を頼り落ちのびました。
 翌年、天正3年(1575年)武田勝頼が長篠で織田信長に敗れると、武田方は東濃での勢力を失い、信長の命を受けた嫡子、信忠が岩村城を攻め落とします。このとき明知城も織田方が取り戻し、遠山一行が明知城主に復帰しました。
 天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れ、翌年天正11年、羽柴(豊臣)秀吉が賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を倒し、信長の三男で美濃領主であった織田信孝も切腹させられると、東濃は森長可が支配することとなります。明知遠山氏は再び明知城を追われ、利景は妻の実家である足助の鈴木氏を頼ります。天正13年の小牧長久手の合戦では利景は徳川方につき、長久手の合戦で森長可が討ち死にすると、家康の命で明知城を攻め、明知城奪還を果たしますが、羽柴・徳川で和睦が成立すると、明知城を森家を継いだ長可の弟、忠政に明け渡し、明知城には森左近が城代として入りました。
 天正14年(1586年)一行は亡くなり、利景が明知遠山家の当主となります。
 その後、森忠政は信濃川中島の海津城に移封となり、明知城は岩村城とともに田丸直昌が入り、直昌は明知城に原土佐守を城代に置きます。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、田丸直昌は西軍に付き、徳川家康は田丸氏配下の岩村城や明知城が、中仙道を進軍する秀忠軍の妨げになるため、遠山利景に東濃奪還を命じます。利景は子の方景、小里光明、妻木城の妻木氏と共に田丸勢を東濃から駆逐、明知城を奪還し岩村城も開城させました。遠山利景はその戦功で明知城主に返り咲き6500石の旗本となりました。
 遠山利景は慶長17年(1612年)、73歳で亡くなり、明知遠山家は子の方景が継ぎます。元和元年(1616年)の一国一城令で明知城は廃城。方景は城山下の大手門脇に明知陣屋を築き、政庁としました。
 遠山氏は当初交替寄合(大名のように参勤交代する旗本)でしたが、江戸に屋敷を賜り常駐し、代わりに村上氏が代官として政務を執りました。
 遠山氏は幕末まで6500石という大身の旗本として、明知を支配しました。




 明知城や遠山氏などについて調べてみましたが、岩村城主、遠山景任の亡くなった年や、上村の合戦の起きた年など、不明な点が多く、前の岩村城の説明と違う点があることをご了承ください。