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地図

一身田の地図



 三重県津市の中心部から北へ4キロほどの所に一身田という町があります。この一身田という町は寺内町として知られた町で、以前から訪ねたいと思っていました。
 寺内町は寺を中心に門前町を含め堀割で囲んだ一種の城郭で、戦国時代に発展しました。主な寺内町としては後の大坂城の前身となる石山本願寺、山科本願寺、金沢城の前身となる金沢御坊、吉崎御坊、古い街並みとして知られる奈良県の今井町、大阪府の富田林が知られています。主に近畿地方や浄土真宗の勢力が強かった北陸地方で多く見られます。
 東海地方では三重県津市の一身田が、数少ない遺構として知られています。一身田は真宗高田派本山専修寺の寺内町になります。
 真宗高田派は親鸞聖人の弟子である真仏を中心とする門徒で、今の栃木県真岡市高田の専修寺を根拠地とし関東地方が広まりました。
 1469 - 1487年に真慧(しんね)が畿内、北陸、東海地方での布教を目的に、伊勢の国一身田に専修寺(当時は無量寿院といいました)を建立しました。一身田の専修寺が本山で、真岡市の専修寺が本寺となり、本寺の住職は本山の住職が兼ねています。
 一身田が周囲に堀を巡らせた寺内町になった時代は定かではありませんが、他の寺内町が16世紀半ばといわれており、一身田では天正8年(1580年)に伽藍が焼失し、その普及工事の過程で、周囲に堀を巡らせた寺内町になったものと考えられています。
 その規模は東西約五百メートル、南北約四百五十メートルで、堀の幅は2間半~3間(4,5メートル~5、4メートル)堀の内側に幅3間余りの土塁が巡らされ、南東に黒門、北東に赤門、西に桜門 と、三カ所に門があり、朝6時から午後6時まで開かれていました。現在は堀の幅は狭められ、土塁は西側の一部に残るのみで、他はみな取り払われました。



寺内町

一身田の町並み


 専修寺の南側、および東側に一身田の町並みは広がります。




堀割1

一身田南側


 南側は掘り割りではなく川となっています。





堀土塁西側

西側 掘り割り


西側の門である桜門から北側を見たところ。掘り割りは埋められ道路となり、側溝が名残として残るだけですが、土塁が残っています。土塁の内側は専修寺の境内となっています。





堀割東

東側 掘り割り


 東側の掘り割りです。石垣が修繕しながらも残り、往時の姿を残しているように思えます。




堀北側2

北側 掘り割り


 掘り割りは側溝を残し埋められ道路となっています。




堀北側

専修寺北側


 北側の掘り割りは二重になっており、内側は専修寺境内の北面となっています。




地図2

左が明治十年頃の地図。左が平成元年の地図となっています。


稲葉地城祉

稲葉地城跡



 名古屋駅から広小路通りを西へ約四キロ、庄内川にかかる新大正橋の手前に、凌雲寺と稲葉地城祉となる城屋敷神明社があります。
 稲葉地城は織田信長の叔父、織田信光が城主をしていた城でしたが、後に信光は守山城に移ります。
 天文21年(1552年)の萱津合戦は、清洲の守護代、織田大和守信友と重臣の坂井大膳が、家督を継いだばかりの織田信長の配下にあった松葉城、深田城(共に大治町)を攻め、城主を人質に取り、それを知った信長は那古野城を出陣し稲葉地城に本陣を置き、叔父の守山城主織田信光の到着を待ち、到着とともに庄内川を渡り松葉城、深田城を攻めました。それを知った清洲勢は兵を出し、萱津(甚目寺)で信長方と清洲方が合戦となりました。戦いは信長方の勝利に終わり、松葉城、深田城の奪還に成功しました。




城屋敷神明社

稲葉地城跡に建つ城屋敷神明社





凌雲寺本堂

凌雲寺



 城屋敷神明社の南西に凌雲寺があります。凌雲寺は永正年間(1504~1521年)に織田信光が創建し、南溟紹化和尚を開祖としています。臨済宗妙心寺派で集慶山と号しました。織田信長は幼少の頃、この凌雲寺で手習いをしたと言われています。




凌雲寺説明文

凌雲寺説明文




織田信光


 織田信定の子として、永正13年(1516年)に産まれました。兄信秀の元で働き、小豆坂七本槍の一人として活躍します。三河の桜井松平家の祖となる松平信定の娘を娶ります。松平信定は、徳川家康の祖父、松平清康と対立した人物で、守山城を築き、信光は守山城主となっています。
 兄、信秀が亡くなり、甥の信長が家督を継ぐと、信長のよき協力者となり、萱津合戦、村木城攻めに活躍します。
 信長の清洲城攻めでは、清洲城主織田大和守信友に内通し、天文24年(1555年)4月19日に清洲城に入城しますが、翌20日に油断していた信友を殺害します。この時信友の重臣、坂井大膳は信光の動きをいち早く察し、清洲城を脱出し駿河の今川を頼り落ち延びました。
 清洲城は信長に明け渡し、信光は那古野城主となります。
 しかし弘治元年(1556年)11月26日に家臣の坂井孫八郎により殺害されています。
 事件の背景には、孫八郎が信光の妻と密通していた。信光が力を持つことを疎ましく思う信長による暗殺。信長の弟、信行擁立派による暗殺など、様々な説があります。





織田

凌雲寺瓦 


 織田家の家紋である木瓜紋が彫られています。

榎木白山神社

榎木白山神社



 押切城が築かれたのは鎌倉時代まで遡り、大屋佐渡守によって築かれたと言われています。以来代々、大屋氏が城主を務めてきました。名古屋市内では最も古い城郭の一つと言われています。
 戦国時代、大屋秋重は尾張今川氏に属し、今川氏豊が城主を務める那古野城の重要な子城の一つでした。しかし天文元年(1532年)、織田信秀により、那古野城が攻められ(那古野城が攻められた年には諸説あります)ると、押切城も落城し廃城となりました。城跡は白山神社となり、織田信長が桶狭間の合戦のとき、清洲城を出陣し今の美濃路を下り、この白山神社で勝利を祈願したと言われています。

 現在、押切城の遺構はほとんど残っていません。



美濃路

美濃路



 美濃路は熱田の東海道、宮宿から、美濃国の中仙道垂井宿を結ぶ脇往還です
 徳川家康も関ヶ原の合戦で美濃路を通り勝利し、凱旋したことから、「吉例街道」と呼ばれました。



榎木

白山神社の境内には榎木があったことから、榎木白山神社と呼ばれました。




権現橋

権現橋



 権現橋は白山神社の西を南北に流れる笈瀬川に架かっていた石橋でした。白山権現が名の由来となっています。笈瀬川は昭和初期に埋め立てられ(暗渠になっているかもしれません)、権現橋の欄干が白山神社の入り口に使われています。



笈瀬通り

笈瀬通り



 かつて笈瀬川が流れていました。笈瀬川は江川から分岐し、東海道線のガード下を通り駅裏に抜けて、中川区の露橋を通り名古屋港に流れ、現在の中側運河の前身となりました。笈瀬川の名残が、笈瀬通りや中川区の笈瀬町などに残っています。