稲葉地城跡
名古屋駅から広小路通りを西へ約四キロ、庄内川にかかる新大正橋の手前に、凌雲寺と稲葉地城祉となる城屋敷神明社があります。
稲葉地城は織田信長の叔父、織田信光が城主をしていた城でしたが、後に信光は守山城に移ります。
天文21年(1552年)の萱津合戦は、清洲の守護代、織田大和守信友と重臣の坂井大膳が、家督を継いだばかりの織田信長の配下にあった松葉城、深田城(共に大治町)を攻め、城主を人質に取り、それを知った信長は那古野城を出陣し稲葉地城に本陣を置き、叔父の守山城主織田信光の到着を待ち、到着とともに庄内川を渡り松葉城、深田城を攻めました。それを知った清洲勢は兵を出し、萱津(甚目寺)で信長方と清洲方が合戦となりました。戦いは信長方の勝利に終わり、松葉城、深田城の奪還に成功しました。
稲葉地城跡に建つ城屋敷神明社
凌雲寺
城屋敷神明社の南西に凌雲寺があります。凌雲寺は永正年間(1504~1521年)に織田信光が創建し、南溟紹化和尚を開祖としています。臨済宗妙心寺派で集慶山と号しました。織田信長は幼少の頃、この凌雲寺で手習いをしたと言われています。
凌雲寺説明文
織田信光
織田信定の子として、永正13年(1516年)に産まれました。兄信秀の元で働き、小豆坂七本槍の一人として活躍します。三河の桜井松平家の祖となる松平信定の娘を娶ります。松平信定は、徳川家康の祖父、松平清康と対立した人物で、守山城を築き、信光は守山城主となっています。
兄、信秀が亡くなり、甥の信長が家督を継ぐと、信長のよき協力者となり、萱津合戦、村木城攻めに活躍します。
信長の清洲城攻めでは、清洲城主織田大和守信友に内通し、天文24年(1555年)4月19日に清洲城に入城しますが、翌20日に油断していた信友を殺害します。この時信友の重臣、坂井大膳は信光の動きをいち早く察し、清洲城を脱出し駿河の今川を頼り落ち延びました。
清洲城は信長に明け渡し、信光は那古野城主となります。
しかし弘治元年(1556年)11月26日に家臣の坂井孫八郎により殺害されています。
事件の背景には、孫八郎が信光の妻と密通していた。信光が力を持つことを疎ましく思う信長による暗殺。信長の弟、信行擁立派による暗殺など、様々な説があります。
凌雲寺瓦
織田家の家紋である木瓜紋が彫られています。