榎木白山神社
押切城が築かれたのは鎌倉時代まで遡り、大屋佐渡守によって築かれたと言われています。以来代々、大屋氏が城主を務めてきました。名古屋市内では最も古い城郭の一つと言われています。
戦国時代、大屋秋重は尾張今川氏に属し、今川氏豊が城主を務める那古野城の重要な子城の一つでした。しかし天文元年(1532年)、織田信秀により、那古野城が攻められ(那古野城が攻められた年には諸説あります)ると、押切城も落城し廃城となりました。城跡は白山神社となり、織田信長が桶狭間の合戦のとき、清洲城を出陣し今の美濃路を下り、この白山神社で勝利を祈願したと言われています。
現在、押切城の遺構はほとんど残っていません。
美濃路
美濃路は熱田の東海道、宮宿から、美濃国の中仙道垂井宿を結ぶ脇往還です
徳川家康も関ヶ原の合戦で美濃路を通り勝利し、凱旋したことから、「吉例街道」と呼ばれました。
白山神社の境内には榎木があったことから、榎木白山神社と呼ばれました。
権現橋
権現橋は白山神社の西を南北に流れる笈瀬川に架かっていた石橋でした。白山権現が名の由来となっています。笈瀬川は昭和初期に埋め立てられ(暗渠になっているかもしれません)、権現橋の欄干が白山神社の入り口に使われています。
笈瀬通り
かつて笈瀬川が流れていました。笈瀬川は江川から分岐し、東海道線のガード下を通り駅裏に抜けて、中川区の露橋を通り名古屋港に流れ、現在の中側運河の前身となりました。笈瀬川の名残が、笈瀬通りや中川区の笈瀬町などに残っています。