松平忠輝
徳川家康の六男として天正20年(1592年)に産まれた松平忠輝は、その後数奇な運命を歩む人物として知られています。
生母の家康の側室阿茶局は身分の低い家の出で、幼名は辰年生まれだから辰千代と名付けられ、産まれて間もなく皆川広照に預けられました。
同腹の弟に二歳年下の松千代がおり、長沢松平家を相続しましたが、慶長4年(1599年)に急逝したため、代わりに忠輝が長沢松平家を相続、武蔵深谷一万石の大名になり、慶長7年(1602年)下総国佐倉五万石に移封加増になり、元服し上総介忠輝と名乗りました。
慶長8年(1603年)信濃国川中島に移封となり十五万石に加増され、慶長11年には仙台の伊達政宗の長女、五郎八(いろは)姫と婚姻してます。慶長14年(1609年)には重臣、皆川広照が失脚しています。
五郎八(いろは)姫
慶長15年(1610年)越後福島城の堀忠俊がお家騒動で改易になると、その旧領四十五万石が忠輝に与えられ、川中島と合わせて六十万石(一説には七十五万石と諸説あります)の大大名となり、福島城(直江津)を居城とします。
慶長19年(1614年)に家康の命で岳父、伊達政宗を総奉行に福島城の南、菩提ガ原に新城を築城し、高田城と名付けました。
同じ年の大坂冬の陣では、大坂に出陣せず、江戸留守居役となっています。
翌年の大坂夏の陣でようやく出陣が叶いましたが、大坂に向かう途中、近江国守山で忠輝の軍勢を追い抜いた将軍秀忠の旗本、長坂信時を手討ちにしたり、大和の陣から大坂城総攻めに遅参するなど、トラブルが相次ぎました。
大坂の陣の前頃から、乱暴な行動が多くなったといわれています。
家康、秀忠が大坂の陣の勝利を朝廷に報告する際、忠輝は同行せず嵯峨野で船遊びに興じていました。
そしてとうとう家康の勘気を買ってしまいます。元和2年(1616年)四月、家康臨終の際、兄弟の中で忠輝だけが呼ばれませんでした。そして7月に秀忠の命で改易、伊勢国朝熊(あさま、伊勢神宮の南東です)に流罪となり、元和4年(1618年)には飛騨国高山、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流されました。天和3年(1683年)7月に死去しました。享年九十二歳という年齢で、同時代の真田信之に並ぶ長寿でした。
徳川家康
父に疎んじられた幼少期
忠輝は誕生時から実の父、家康に疎んじられる不遇の人生を送りました。
生母阿茶の局が低い身分出身で、誕生時から家康に容貌を嫌われていたようです。
産まれて間もなく、皆川広照に預けられ、父、家康と初めて対面したのは慶長3年(1598年)の時だと言われています。ここは兄で福井藩主となった松平(結城)秀康と似た境遇です。そのせいもあり忠輝は双子ではなかったかという説も生まれました(秀康も双子で産まれました。当時は双子は畜生と同類と見られ忌み嫌われ、片方を養子に出したりしました)
長沢松平家相続に関しても、弟松千代が相続したのですが、夭逝したため、代わりに忠輝が相続するという、兄と弟の立場が逆転する、兄としては屈辱的な相続になります。
その後、川中島十五万石の大名となりますが、弟の義直(尾張藩祖)が甲斐二十五万石、頼宣(紀州藩祖)が水戸二十五万石と、忠輝よりも石高が多く、兄としては不満でした。その後阿茶の局や舅、伊達政宗の取り計らいで慶長15年(1610年)に越後の堀氏が改易となり、堀氏の四十五万石が忠輝に加増される事になりました。この時は義直はすでに尾張藩五十万石の藩主となり、頼宣は家康の元、駿府で五十万石の太守となっていました。 全てに置いて弟よりも後れを取っていました。
伊達政宗
秀忠による改易の理由としては他には、
付家老で佐渡金山奉行も兼ねただ大久保長安が彼の死後、不正蓄財が発覚し、一族が処罰されました。このときは忠輝はおとがめがなかったですが、後々尾を引いた。
妻の五朗八姫が敬虔なキリシタンで、忠輝もその影響でキリスト教に感化され、キリスト教徒とともに幕府転覆を謀った。
舅の伊達政宗が天下の野心を放さず、秀忠の政権を倒して忠輝を将軍に据えようとした。
など、様々な説がありますが、どれも言いがかりに近いものでした。
徳川秀忠
寛永9年(1632年)に岩槻藩阿部重次の預かりになっていた子息の徳松が、将来に悲観して住居に火を放ち自殺と言う悲劇が起こっています。まだ十八歳でした。
天和3年(1683年)七月に忠輝は九十二歳で配流先の諏訪の地で亡くなります。時は五代将軍綱吉の時代でした。
すっかり忘れられた存在になり、徳川宗家から許されたのは昭和59年のことでした。